ちょいマジ掲示板

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科学と宗教、その間の壁は破れるのか。 ゆうすけ 10/8/28(土) 22:06
創価学会に向き合うことは「タブー」なのか。 ゆうすけ 10/8/29(日) 23:54
▲大事な提起に感謝。戸田も語りたいですが遅れますのでその点ご了承下さい 戸田 10/8/30(月) 1:26
法華経の励ましのメッセージ。 ゆうすけ 10/8/31(火) 16:58
厳然たる宇宙の調和と秩序 その”普遍なるもの””永遠なるもの” ゆうすけ 10/9/15(水) 1:46
恩師戸田城聖と山本伸一。 ゆうすけ 10/9/1(水) 19:29
「人間革命」第2巻 地湧の章からの引用です。 ゆうすけ 10/9/1(水) 23:51
「宗教はアヘンなり」 ゆうすけ 10/9/5(日) 9:00
☆思えば戸田は、社会問題に立ち向かう宗教者に数多く出会い感銘を受けてきました。 戸田 10/9/6(月) 11:37
正直言って、自分にとって、難し過ぎると思える書簡。 ゆうすけ 10/9/7(火) 16:45
人類が、果たして宗教なくして存在することができるのか。 ゆうすけ 10/9/10(金) 23:30
[ ゆうすけ 10/9/12(日) 22:13
失礼しました。題名を打ち直そうとして、送信になってしまいました。 ゆうすけ 10/9/12(日) 22:48
「宗教はアヘンだ」とマルクスはどういう局面で言ったのか・・・ なかやましげる 10/11/12(金) 10:54
長田区で被災されたのですね。 ゆうすけ 10/11/12(金) 23:36
「宗教はアヘン」はマルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」 なかやましげる 10/11/14(日) 22:40
もう16年になるんですね。 ゆうすけ 10/11/16(火) 19:56
「原水爆禁止宣言」昭和32年9月8日 ゆうすけ 10/9/8(水) 21:00
「業(ごう)カルマの法則」とは何か。 ゆうすけ 10/9/16(木) 3:29
[ ゆうすけ 10/9/17(金) 1:25
「科学と宗教」この主題の結論。 ゆうすけ 10/9/17(金) 2:28
つまるところ、人生とは何か。 ゆうすけ 10/9/23(木) 22:32

科学と宗教、その間の壁は破れるのか。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/8/28(土) 22:06 -
  
明日の事業仕分け朝風呂で今晩は徹夜、午後は疲れてよう行かんと思いますのでよろしくお願いします。

さて、8月9日一献交わしながらも、宗教に至ってはあまり話せなかったので、新スレ立てました。尚、参考文献として、中央公論の茂木健一郎氏と池田大作氏の往復書簡を引用しました。

 ○「科学と宗教」の関係
第一に、科学と宗教は、排他的・対立的な関係にあるとする見方。
第二に、科学と宗教は分離しており、互いに不干渉であるべきだという立場。
第三の考え方は、両者の中道をいくもので、互恵的・共存的な関係を築くべきである、ここでは第三の立場を支持し、話を進めます。

科学だけでは、「生命」また「こころ」という不可思議な次元の全体像はつかめません。また、「生老病死」という人間の根源的な苦悩の打開には、宗教の力こそが要請されます。
 宗教、なかんずく仏法と科学が、相補い、協調し合ってこそ、人類の幸福と繁栄に向かって、大いなる価値創造の道は開かれると考えています。


私が修行として、朝晩、経を読み、題目を唱えてることを話ました。すると、戸田さんは
「声に出して、唱えることはいいことだ、健康にいいだろう」。と仰いました。
仏法では、「文証」・「理証」・「現証」という三つの次元から、宗教は合理的に検証されるべきだとしております。特に日蓮は「現証」を重視しました。学会員が信仰の確信を掴むのは体験であり、生活に実証が出るからであります。

でも、戸田さんの言うように「現証」とはどうでも言えるもので、給料が上がったら、それは信心のおかげだと、倒産した、病気になったら、信心が足らんとも言うし、これは試練だとか、どうでも言える。(年がら年中選挙運動に血道を上げている宗教はここでは置いといて)

そこで、大事なのは宗教をもつことが、人間をーーー
「強くするのか弱くするのか」
「善くするのか悪くするのか」
「賢くするのか愚かにするのか」

という判断の基準が大事だと思います。学会員であっても、毎日題目を上げいても、これでもかと言うほど悩みもある、事業の行き詰まりも倒産もある。病気もする。しかし、人生は最後に勝つことだと、私は思っています。
何があろうが、強くなる、善人になる、賢くなる。これが本当の宗教だと思います。
ここに基準を置かないと、間違った教えが不幸の因となってしまう。

                                  〜つづく〜
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska201016.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

創価学会に向き合うことは「タブー」なのか。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/8/29(日) 23:54 -
  
 ○茂木健一郎氏云く。

もともと、私が「池田大作さんとお話ししてみたい」という希望を抱いた理由の一つは、日本のメディアの中で、「創価学会」、及び池田大作さん御本人の扱われように違和感を抱いていたという点にあります。日本の中で大きな意味合いを持ってきた組織に向き合うことが「タブー」であるような状況はおかしい。そこには、人口的につくられた「壁」がある。そのことによって、大切な対話が閉ざされている。そのように感じてきました。

私は、多方面に大きな影響を及ぼしてきた池田大作さん御本人と対話することで、「壁」を溶かしてみたいと願ったのです。

その過程で、一般のメディアの中で報じられている池田さんの姿とは異なる、一人の人間が浮かび上がってくるのではないかと期待しておりました。その期待は、裏切られませんでした。これまでお手紙をやりとりする中で、池田大作さんのすぐれた学識、人間が生きるということの困難や喜びについての深い洞察が伝わってきました。


 ○対話から学ぶ。対話によって結ぶ。対話には、新たな価値を創造する大いなる力がある。

との視点から、戸田さんにあらためてお聞きしたいのですが、戸田さんの抱く創価学会とはどういう組織でしょうか。現に座談会にも出席され、私が聞いたのは、求めていた戸田さんに対して「壁」となったのが、学会の幹部であると。今もその「壁」はあるのでしょうか。

茂木さんはどんな宗教組織にも関係していませんが、戸田さんは宗教に限らず、さまざまな組織というものが壁になってしまうとお考えでしょうか。組織という括りを離れて、一人の人間として自由に活動することのほうが大切とお考えでしょうか。

最後に、「組織のための人間」ではなく、「人間のための組織」は可能であると思いますか。

お忙しい中、出し抜けに申し訳ありません。新たな価値を見出せるよう、よろしくお願いします。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska199161.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

▲大事な提起に感謝。戸田も語りたいですが遅れますのでその点ご了承下さい
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 戸田 E-MAILWEB  - 10/8/30(月) 1:26 -
  
 谷口さん、とても大事な話を提起してくれてありがとうございます。
 昨日午後2時過ぎから5時前終了まで、びっちり事業仕分けを傍聴撮影したらかなり
疲れて、夜に動画アップや報告をする予定が寝てしまい、さっき起きてやりかけている
ところです。

 谷口さん提起のテーマについて、戸田もぜひ語りたい事があるのですが、たまってい
る作業を先にやらないといけないので、書き込むテンポはだいぶ遅れるだろうと思います。
 その点ご了解下さい。

 とりあえずは谷口さんが論考を進めていって下さい。
 人が真剣に自分の内面にむきあって思索を深め、全国に公開されるHP掲示板にあえ
て自分の考えを公表していくひたむきさ、「身近な人々」にいろんな意味でも「波紋」
を起こし自分に跳ね返ってくる事を正面から受け止めようと覚悟を決めた勇気・・・、
そういうものを、谷口さんの投稿を読む人々は、その人の心がねじ曲がっていなければ、ちゃんと感じるだろうと思います。

 それでは。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; GTB6; .NET CLR...@i222-150-201-10.s04.a027.ap.plala.or.jp>

法華経の励ましのメッセージ。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/8/31(火) 16:58 -
  
戸田さんが語っていただけることを、楽しみにしています。
話を進めておきます。

「壁」を破れば、新たな視界が開けるーーこのことを、大乗仏教の精髄である法華経は、壮大なドラマを通して示しております。

 
  ○「二処三会」

法華経の舞台構成は、「二処三会」(にしょさんえ)と言われます。これは、二つの場所で三つの会座がもたれることです。

全体の28品(章)のうち、前編の第1章から第10章までは、釈尊は、インドに実在する「霊鷲山」(りょうじゅせん)という岩山で法を説きます。
そして、中編の第11章から第22章では、舞台は一転して「虚空」という大空間に移ります。

ここでは、地球大のスケールの荘厳な宝の塔が出現します。そして、釈尊とともに、一座の衆生も、その虚空会へと引き上げられるのです。おとぎ話のように聞こえる物語の展開は、不可思議な人間生命の大きさとダイナミズムを表現しています。

大地は、いうなれば、生老病死の苦悩が渦巻く現実の世界です。これに対し、虚空とは、仏の広大無辺の境涯です。そこには、時間や空間の制約も超えた、永遠にして自由自在の生命力が満ち溢れています。

虚空会に連なった衆生は、釈尊と同じ尊い境地へ向上していくことができる。譬えるならば、地上において、目の前の壁と悪戦苦闘していた心が、その壁を悠々と見下ろせる天空の高みへ一挙に上昇するのです。学会員の行う朝晩の勤行、唱題がこの虚空会に連なる儀式と言えます。しかし、祈りは時には現実の悩みに押し潰されそうで、壁を悠々と見下ろせるまでにはいかないのが常です。

法華経の後編の第23章から終章では、舞台は、「虚空会」から「霊鷲山」に戻ります。
すなわち、霊鷲山→虚空→霊鷲山という往還になります。


師・釈尊の教えを受けて、自らの尊貴な生命に目覚め、崇高な使命を担い立った弟子たちは、再び悩みの絶えぬ現実世界へ突入して、人々のための行動を貫いていくのです。

                              〜つづく〜
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska198083.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

恩師戸田城聖と山本伸一。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/1(水) 19:29 -
  
   旅びとよ
   いずこより来り
   いずこへ往かんとするか

   月は沈みぬ
   日 いまだ昇らず

   夜明け前の混沌(カオス)に
   光 もとめて
   われ 進みゆく

   心の 暗雲をはらわんと
   嵐に動かぬ大樹を求めて
   われ 地より湧き出でんとするか


山本は、仏法の「地湧の菩薩」という言葉など、知るはずもなかった。ただ、最後の一行は、戦後の焼け野原の大地のなかから、時が来ると、雄々しく、たくましく、名も知れぬ草木が生いしげり、緑の葉が萌えるのを見て、その生命力と大自然の不思議さを、なんとなく心に感じ、胸に抱いていたのをうたったのであった。
               (昭和22年8月14日、東京鎌田北糀谷での座談会)

戸田城聖にとって、この夜あらわれた山本伸一が、なぜか、いとしかった。山本伸一にとっても、戸田城聖という人が、じつに不思議に、なつかしく思えてならなかった。

戸田は、20歳の春、北海道から上京したころのことを、しきりと思い出していた。牧口常三郎と、はじめて会ったのは、その年の初夏のころである。その日から、彼の今日までの運命というものが、大きく、新しく滑りだしたことを、珍しく思いめぐらしていた。
 

 ――その時、戸田城聖は20歳で、牧口常三郎は49歳であった。

いま、戸田は、47歳になっている。そして、今夜の山本伸一は、19歳だと言った。彼は、20歳より牧口に師事し、牧口を護りきって戦いつづけてきたのである。時代は移り変わり、自分にも、真実の黎明のような青年の弟子が現われることを、心ひそかに期待していたのであろうか。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska168083.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

「人間革命」第2巻 地湧の章からの引用です。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/1(水) 23:51 -
  
戸田ひさよしさんとの、対話の中で、「地湧の菩薩」ということに話が及びましたので、山本伸一青年の、戸田城聖との出会いのシーンを引用しました。

人間革命第2巻が昭和41年の執筆で、池田第三代会長が39歳の時であります。第2巻の”あとがき”には、「日頃、非常に雑用に追われている私が、そのなかで、柄にもなくこうした仕事に精を出しているのは、ただ一つ、戸田城聖先生の歩まれた道とその指導理念とを、なんとか誤りなく後世に残したい一念のためである。そのほかに他意はない。

私は創価学会の責任者として、当然、みずからも人間革命に一生を送り、いささかでも世のため、人のため、法のためになるならば、どんなことにも努力を惜しむまいと念願して活動し、慣れぬ筆さえとっていることを諒(りょう)とされるならば本当に幸甚である。

私は、なによりも平凡な一庶民にすぎない。一庶民としての自覚をもって、生涯を闘うだけである。これが仏教の原理であり、また民主主義の本義でもあるはずだ」。
                         
                             昭和41年3月16日
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska195207.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

「宗教はアヘンなり」
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/5(日) 9:00 -
  
 西欧における科学と宗教の論争、マルクスの「宗教はアヘンなり」の言葉、これはいずれもその宗教がキリスト教という低級な宗教であったことから起こった当然な結果であった。

高度の科学研究者のなかには、宗教を肯定する人が少なくない。たとえば、アインシュタインも、キリスト教を否定しつつも、真の宗教という表現のもとに、偉大なる宗教の出現を渇望している。湯川博士も、人間の知能、科学の限界を述べ「叡智の源泉なる宗教」という表現のもとに、新しい宗教の出現を望んでいる。

科学は自然現象を対象とし、因果律を追究する学問であるのに対し、仏法は生命を対象とし、その内面的な因果律を把握した哲学である。生命の問題は、東洋では遠く 3千年前にインドの釈尊が解き明かし、近くは日本に出現した日蓮大聖人が、より本源的に究明しきっている。


戸田第2代会長は「科学が進歩すればするほど日蓮大聖人の仏法の正しさが証明されるであろう」と言われたが、このことばは、もっとも優れた宗教と科学の関係を示すものとして、時とともに輝きを増すことだろう。

ある哲学者は言った。
”理性の延長は、信仰になる”と。

その信仰の内容はともかく、何等かの信仰をもたずして、人生を歩むことは出来ない。往々にして、世の中、多くの思想、知識をふりかざしながら、現実には、不幸な人が多い。一つの確信を持った人が、結局、幸福に歩んでる場合が多いのではないだろうか。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska200185.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

☆思えば戸田は、社会問題に立ち向かう宗教者に数多く出会い感銘を受けてきました。
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 戸田 E-MAILWEB  - 10/9/6(月) 11:37 -
  
 戸田は「宗教は阿片だ」と切って捨てる感覚はありません。
 谷口さんとの対話に触発されて考えてみて気づいた事ですが、戸田の場合、学生時代以降、様々な社会運動の場で尊敬できる宗教者に出会って感銘を受けてきた事が、その背景にある事に気づきました。

1:高校卒業までの秋田時代は普通に「葬式仏教」のみ
2:大学2年の1975年の11/22に韓国で発表された「11/22事件=在日韓国人スパイ団事
 件」(朴政権による「北のスパイ」デッチ上げ事件)の被告に阪大卒業の人がいたこと
 からその救援運動に参加。以来ずっと韓国民主化闘争支援に関わることになる。
  その救援運動で出会ったのがキリスト教の摂津富田教会の桑原重夫牧師。

  隻腕長身の迫力のある牧師で、日本の戦争責任に関わる運動のほか三里塚闘争など
 様々な運動の知的倫理的リーダーのひとりだった。
  また韓国でキリスト教会が民主化闘争を物心ともに支え、多大な犠牲も払っている事
 も知った。 

3:1976年秋から三里塚闘争(成田空港反対闘争)に参加する中で、三里塚反対同盟の委
 員長である戸村一作牧師を知る。
  農民に乞われて委員長を引き受けた戸村さんはキリスト者として闘う、非常にカリス
 マ性のある人で、凄い演説をすることで有名な人でした。
  79年に亡くなるまでの間(たしか78年から病床に就いた)、現地集会で何度か戸村さ
 んの演説を生で聞いた事は今でも戸田の誇りです。

  激烈な闘争演説の中にもキリストの話を挟む事が多く、戸田が一番強烈に覚えている
 のは、キリストがいわゆる「平和主義者」ではなく革命家であった事を解いて、「キリ
 ストはこう言った。『私は平和をもたらしに来たのではない。争いをもたらしに来たの
 だ』と」、と切り出し聴衆をギョッと驚かせた後に、「『なんとなれば、この不正な抑
 圧に満ちたローマの平和への屈従は不正義である事を説きに来たからである』、とキリ
 ストは言ったのです」、と話を続けたことです。
  このフレーズは戸田も学生時代に「逆説的演説」にだいぶ使わせてもらいました。

  戸村さんは反対同盟農民を引き連れて、中国に行って周恩来に(毛沢東にも?)会
 い、ベトナムやパレスチナ(レバノン)も訪問し、アラファト議長にも会って民衆的た 国際連帯を広げました。三里塚集会で「ハッタ」(アラブの大きなスカーフ)をまとっ
 て演説する事もありました。

4:1979年はニカラグア革命勝利の年ですが、中南米の革命闘争の中で「解放の神学」の
 立場を取るキリスト者達が社会主義者と共同して犠牲を払っている事を知りました。
  後方支援だけでなく銃を取って闘う神父も生まれています。
  また、米帝やそのどう猛な手先であるイスラエルシオニズムと断固闘うイスラム教徒
 達の存在も知りました。

5:1982年暮れから釜ヶ崎の運動に支援参加する中で、キリスト教の牧師・神父・シスタ
 ーや信者達が献身的に関わっている事を知りました。
  警察は彼ら彼女らを「釜ヶ崎のキリスト教」を略した「カマキリ」という符帳で呼ん
 で明確に弾圧対象にしています。

6:各種の反戦平和運動、反原発運動、部落差別反対運動、人権救済運動、住民運動、障
 がい者運動、国際連帯運動に参加する中で、キリスト者だけでなくお寺の住職とか禅僧
 とか、人々から信頼を受けている仏教者とも出会いました。
  大阪南部の戸次公正(べっき こうしょう)さん(真宗大谷派)や、守口西三荘駅そ
 ばの覚了寺の女性住職の連月さんなどもそうです。

・・・・・こういう尊敬できる数々の宗教者との具体的な出会いがあったので、戸田は「宗教は阿片である」という左翼教条主義の考えは持ちません。

■ただ、戸田にとって尊敬できる宗教者とは社会の矛盾や不条理に苦しむ民衆のために、
 共に闘う宗教者であって、そういう社会問題が目の前にあっても目を向けず、考えよう
 ともせずに、心の平穏だの神や仏の導きだのを説く宗教家や宗教団体ではありません。

  たしかに世の中に数限りなくある「課題」全てに関わる事は出来ないにしても、ひと
 つやふたつは社会の「現在のシステムや権力構造から派生している問題」に関わる、
 「自分らの身近にある問題」に手を差し伸べて、民衆救済のために、共に闘う宗教者で
 ないと、戸田としては敬意を払えません。

■谷口さんには申し訳ないが、30数年におよぶ社会活動の中では、そういう活動をしてい
 る日蓮正宗や創価学会の信者は見た事がありません。
  (先に述べた、創価学会員であることを伏せて個人で活動している人を除いて)
  世界中どこでも、創価学会員が民主化運動や独立闘争、革命闘争に寄与した、という
 話は聞いた事がありません。

  韓国には創価学会員が多くいますが、民主化闘争への寄与はゼロです。実際にはマイ
 ナス(抑圧への沈黙・加担)だろうと思います。
 (独裁政権に許可されて布教する旧侵略国からの伝来宗教、という事情もあって)

  創価学会がやっていることは、常に「自分達の組織の維持拡大のための活動」だけで
 あり、創価学会にとっての「民衆」とは、「自分達の信者に獲得するための対象」でし かない、というのが、30数年の社会体験からする戸田の認識です。
  そしてその信者の中でさえ、「信者は一体平等」という建前を分岐させないようにす るために、労働問題や住民運動その他諸々の社会問題での助け合いはしないように見受
 けられます。

  外から見ると、創価学会の熱心な、功績ある信者である谷口さんが、これほど悩み奮
 闘しているのに、学会仲間も公明党議員も、誰も支援や仲介をしようとしない、司法書
 士・税理士・弁護士等アドバイスできる専門家の学会員も多くいるのに誰も手を差し伸
 べない、という状況もその体質の現れだろうと感じられます。

  ま、善意に割り切って解釈すれば、狭い意味での信仰や活動の範囲を超える問題につ
 いては会員個人の自助努力によって乗り切れ、それも修行だ、とする団体だということ
 でしょうか。
  こう考えれば、創価学会員である事と、学会から孤立無援で個人で奮闘する事は矛盾
 しません。
  そうやって鍛えられた学会員が創価学会を豊かにするのだ、と考える事も出来ます  し。

★さて、戸田の場合は確信的に無神論・無宗教なのですが、それで全然不足とは思いませ
 ん。
  信じているのは(かなり雑駁ですが)マルクス主義であり、世界社会主義革命論で  す。
  世界社会主義革命の実現が「人類前史の総決算」=人類史の低い段階の克服であり、
 それから先に本当に文化的に豊かな人類史が始まる、と考えています。

  そして世界社会主義革命は、いろいろ時間がかかるとしても必ず実現するし、そうし
 なければ強欲資本主義によって世界の破滅になるだろうと危惧しています。
  現在は「20世紀社会主義」の痛苦な失敗を克服して、各種協同組合の組織化を基盤と
 した「21世紀型社会主義」形成に進んでいると捉えています。
  中南米のベネズエラ(チャベス大統領)やキューバなど「反米帝左翼政権国家連合」
 がひとつの指針です。

  キーワード的に言えば、反資本主義・反帝国主義・反差別・国際連帯・民主主義・人
 民主体・協同組合基盤の社会主義・共生社会・世界革命・国家の解体、等です。

  その革命を進める活動家としての人生が戸田の人生だと考えており、その信念は一生
 変わらない自信があります。 

  唯物論者・無神論者であっても、自然の神秘は感じるし、畏敬の念も持ちます。人と
 の出会いに「運命的なもの」も感じます。
  「霊の存在」は信じませんが、「今の科学では説明出来ないもの」があることは理論 的当然と考えています。

  「死者の魂」は信じませんが、「死者の記憶が世代や歴史を越えて伝達されていくこ と。死者を身近に感じる事」は信じます。

  だから社会主義革命論が出来るはるか以前から、また全然違った理論や宗教によって
 も、不正と闘い民衆解放のために闘って倒れた世界中の戦士達が我々の先達であり、お
 手本です。
  その彼ら彼女らの生き方に照らして恥ずかしくないか、というのが人生の規範であり
 モラルです。(従って何かの宗教や「神」に頼る必要がありません)
 
  こういった考えは武委員長を初めとする連帯ユニオンの活動家や、それと共同・共鳴
 全国各地の活動家とも共通する考えだろう、と戸田は考えています。
  そしてこういう仲間ー同志達は、既成左翼政党・政派の衰退と社会矛盾の激化の昨今
 の情勢の中で、「真に有効な左翼」として増大していくだろうし、そうさせねばならな いとも思っています。

・・・・以上、谷口さんに触発されて、戸田の人生観、世界観、使命感などを述べてみま
した。谷口さんの真剣な投稿がなければ、戸田がこういう事を正面切って書くこともなかったでしょう。
 これが「対話」の妙味だと思います。 
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; GTB6; .NET CLR...@i58-94-103-60.s04.a027.ap.plala.or.jp>

正直言って、自分にとって、難し過ぎると思える書簡。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/7(火) 16:45 -
  
お忙しい中、ありがとうございます。

多くの課題をいただきました。戸田さんの言われることを、この掲示板の読者、特に学会幹部や宗教家が対話に入り、よりわかりやすく、鮮明になればと期待もするのですが、まず、私の体験の上から、ご返事を書いていきます。考えを深くするためにも少し時間かかりますが、乞うご期待を!

そして、「小沢悪者論」を信じてる自分に対しての問題提起。これについても、マスコミや学会で聞く話だけでなく、小沢一郎という人間を(新進党では、尊敬する政治家であった)自分の眼で見ていこうと思います。

自治会の問題についても、戸田さんの助言を受けて再度、整理して見ます。「切れて、孤立することなく」。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska168002.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

「原水爆禁止宣言」昭和32年9月8日
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/8(水) 21:00 -
  
台風一過、9月8日は、初秋の晴天を迎えた。

横浜 三ツ沢の陸上競技場。創価学会青年部の「若人の祭典」。


閉会式での戸田城聖の話。 「天竜も諸君らの熱誠にこたえてか、昨日までの嵐はあとかたもなく、天気晴朗のこの日を迎え、学会魂を思う存分に発揮せられた諸君ら、またそれにこたえるこの大観衆の心を、心から喜ばしく思うものであります。さて、今日の喜ばしさにひきかえて、今後も、当然、難があるであろう。あるいは、わが身に攻撃を受けることも覚悟のうえであるが、諸君らに今後、遺訓すべき第一のものを、本日は発表いたします」


戸田は、毅然としていた。強い気迫のこもった言葉が、マイクを通して陸上競技場の隅々にまで轟いた。

「それは、核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、いま世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります」

 「なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。それを、この人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります」

 
 「たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります。願わくは、今日の体育大会における意気をもって、この私の第一回の声明を全世界に広めてもらいたいことを切望して、今日の訓示にかえるしだいであります」


    ●以来、この宣言は、創価学会の平和運動の原点となっている。
引用なし
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人類が、果たして宗教なくして存在することができるのか。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/10(金) 23:30 -
  
ここ何日間か私なりに、思索しております。併しながら、現実は色んなことを抱え、山にこもるわけでもなく仕事もしながら。言えばそれこそが実践の哲学であると思っています。

先の書簡、私への課題と捉えていますが、戸田さんの思想や背景を語っていただき、率直に同じ世代の同じ人間であると親近感がもてました。

すべてに考えを「あうだこうだ」という必要もないと思いますので、掻い摘んで「こう思う」というところは、原文を引用しました。


> 戸田は「宗教は阿片だ」と切って捨てる感覚はありません。
> 谷口さんとの対話に触発されて考えてみて気づいた事ですが、戸田の場合、学生時代以降、様々な社会運動の場で尊敬できる宗教者に出会って感銘を受けてきた事が、その背景にある事に気づきました。


>・・・・・こういう尊敬できる数々の宗教者との具体的な出会いがあったので、戸田は「宗教は阿片である」という左翼教条主義の考えは持ちません。

●「宗教はアヘンである」というのは、青木雄二さんとの対談で青木さんから出た話でした。戸田さんもそうだったのかと思ってしまいましたが、切って捨てられず安心しました。また、多くの宗教者との出会い、これは学会員として見習うべきと思います。他宗を寄せ付けないというのと、近づけば破折するのが常で。


>■ただ、戸田にとって尊敬できる宗教者とは社会の矛盾や不条理に苦しむ民衆のために、
> 共に闘う宗教者であって、そういう社会問題が目の前にあっても目を向けず、考えよう
> ともせずに、心の平穏だの神や仏の導きだのを説く宗教家や宗教団体ではありません。
>
>  たしかに世の中に数限りなくある「課題」全てに関わる事は出来ないにしても、ひと
> つやふたつは社会の「現在のシステムや権力構造から派生している問題」に関わる、
> 「自分らの身近にある問題」に手を差し伸べて、民衆救済のために、共に闘う宗教者で
> ないと、戸田としては敬意を払えません。
>
>■谷口さんには申し訳ないが、30数年におよぶ社会活動の中では、そういう活動をしてい
> る日蓮正宗や創価学会の信者は見た事がありません。
>  (先に述べた、創価学会員であることを伏せて個人で活動している人を除いて)
>  世界中どこでも、創価学会員が民主化運動や独立闘争、革命闘争に寄与した、という
> 話は聞いた事がありません。


●決して申し訳ないとは、思わないでください。戸田さんが聞いてないというのは、身近にいないということだと思いますが、学会は民衆救済のために闘っていても、「じゃあ、おまえは何をしたのか」と言われれば、まだまだであります。


>  創価学会がやっていることは、常に「自分達の組織の維持拡大のための活動」だけで
> あり、創価学会にとっての「民衆」とは、「自分達の信者に獲得するための対象」でし かない、というのが、30数年の社会体験からする戸田の認識です。

●戸田さんにそう写ってることですので、弁解はしません。


>★さて、戸田の場合は確信的に無神論・無宗教なのですが、それで全然不足とは思いませ
> ん。

>  キーワード的に言えば、反資本主義・反帝国主義・反差別・国際連帯・民主主義・人
> 民主体・協同組合基盤の社会主義・共生社会・世界革命・国家の解体、等です。
>
>  その革命を進める活動家としての人生が戸田の人生だと考えており、その信念は一生
> 変わらない自信があります。 
>
>  唯物論者・無神論者であっても、自然の神秘は感じるし、畏敬の念も持ちます。人と
> の出会いに「運命的なもの」も感じます。
>  「霊の存在」は信じませんが、「今の科学では説明出来ないもの」があることは理論 的当然と考えています。
>
>  「死者の魂」は信じませんが、「死者の記憶が世代や歴史を越えて伝達されていくこ と。死者を身近に感じる事」は信じます。
>
>  だから社会主義革命論が出来るはるか以前から、また全然違った理論や宗教によって
> も、不正と闘い民衆解放のために闘って倒れた世界中の戦士達が我々の先達であり、お
> 手本です。
>  その彼ら彼女らの生き方に照らして恥ずかしくないか、というのが人生の規範であり
> モラルです。(従って何かの宗教や「神」に頼る必要がありません)


●上記で言われてることが、まだまだこれからの対話を必要とするところですが、「死」を意識し、自己の有限性を自覚した人間が、”永遠なるもの”を求めるところに、宗教の起源があります。仏法の生死観は、死後の生命と宇宙を一体と見ています。このことは、本来、主義主張、宗教や民族の相違を超えたものだと思います。

そこに人類の共通した一つの”真理”があると思います。

人間は戦争や紛争、あらゆる主義、思想を超えて、究極的には、同じ”真理”にたどりつくのではないでしょうか。「生」と「死」の問題は、その重要な鍵を握っていると思います。
引用なし
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[
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/12(日) 22:13 -
  
ヒゲ-戸田通信32号(4ページ)作成に四苦八苦しています。
 正確に言うと、「作成に着手し始めて四苦八苦」です。大体の構想はあるのですが、
まだ1ページめを半分作っただけです。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska199143.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

失礼しました。題名を打ち直そうとして、送信になってしまいました。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/12(日) 22:48 -
  
ヒゲ-戸田通信32号、楽しみにしています。
戸田さんの使われてる四苦八苦という語源は仏教用語でして、普段あたりまえのように
使ってるものなんですね。

お忙しく、戸田さんの投稿は少なくなるとのことですが、ここのスレ完結まであと3〜4回、紙幅の都合もあるかと思いますが、投稿させてください。読んでいただければ幸いです。

今回の題名は、=「霊魂不滅」と「輪廻転生」=

まさしく、四苦の誰もが逃れることのできない「死」についてであります。キリスト教やイスラム教では、「死」とともに肉体が崩れ去っても霊魂だけは残るという、「霊魂不滅説」を説いています。生命のうち、精神、心だけが永遠であり、肉体を得るのは一回限りであるというわけです。

一方、仏教では、「生」と「死」は車輪が廻るように何度も繰り返されるという、「輪廻説」を立てています。

生死について、戸田第2代会長は、「死」を”眠り”に譬え、わかりやすく話されていました。

 ☆ 一日精いっぱい働いて、疲れて休む。翌日、目が覚めると、疲労がとれて元気になっている。「死」もまた、次の「生」のためのエネルギーを蓄えることであると。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska199143.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

厳然たる宇宙の調和と秩序 その”普遍なるもの””永遠なるもの”
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/15(水) 1:46 -
  
霊鷲山→虚空→霊鷲山という、法華経の舞台構成の話をしましたが、前の投稿で私はこの話が、地球上のことであると思っていました。しかし、もう一歩深く、他の本を読んで宇宙大のスケールで展開された、壮大なドラマであることを新発見しました。
創価学会の教学試験も近くあるので、少し詳しく書いておきます。

  
  ●法華経の「宝塔品」(見宝塔品第11)の、ドラマ。

宇宙のさまざまな国土(惑星・衛星)で法を説いていた、釈尊(釈迦)の分身の諸仏が地球に呼び集められ、釈尊の説法の座に加わります。七宝の塔が大地から湧出して虚空に伸びていくのを人々が見るから、見宝塔品といいます。その後、「嘱累品第22」に至って、再び諸仏がそれぞれの国土、つまり他の天体へと帰っていく。多宝の塔は閉じて元にもどる。

見宝塔品第11から嘱累品第22までの12品は、虚空で説かれたから虚空会といい、前後の霊山会と並べて二処三会という。(前述のとおり)


3,000年前の話である。そのとき、自分がその場所に居合わせたという記憶・・・が確かなら。当時宇宙船もスペースシャトルもなく、いろんな星から諸仏が地球に集まれたとしても、言葉も違うし、姿もそれぞれの星の生物であろうし、数十万の仏・菩薩が拡声器もない時代にどうして釈迦の説法を聞くことができたのかと、その壮大なドラマを本当なのかと疑いもする。しかし、仏法の奥底からこれを見るならば、きわめて自然な儀式である。

すなわち、このドラマは、釈迦己心の生命の広大なるドラマであり、我々の生命にも、仏界という大不思議の生命がある。この生命の力および状態は、想像もできない。しかし、仏界をわれわれの生命に具現することはできる。その生命の宇宙大の尊厳性を示したのが、この宝塔品の儀式なのである。

ここで、釈尊が説いたものは、”宇宙根源の法”であり、あらゆる生命の尊厳性と平等性であった。それは地球上だけでなく、宇宙のあらゆる天体・文明に通用する普遍性と永遠性をもったものである。

その星その星によって、文化も文明も異なる、その”差異”を乗り越える”普遍的精神”を、仏法は与えています。それは同時に、地球だけが”選ばれた唯一の星”だという、地球中心の宇宙観からの脱却でもあります。

さらに、法華経の会座で、”普遍的なる法”を持った諸仏・菩薩が、今度は宇宙のあらゆる場所で法を説くことを誓います。衆生の苦悩の闇を破り、希望の光を与えていく地湧の菩薩の使命がここに厳然と示される。私、谷口がこの仏法を持っていることが、記憶にはなくとも虚空会の儀式に連なっていたという厳然たる事実である。


まさしく「法華経」は宇宙大のスケールで展開された、壮大なる叙事詩である。

われわれ人間は、この宇宙から生まれ、人類の誕生は、宇宙それ自体の進化の厳然たる成果である。そして、人類は、自らを生み出した宇宙を認識しつつ、自身の起源と目的、また、未来への使命に思いをめぐらす存在でもある。
引用なし
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「業(ごう)カルマの法則」とは何か。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/16(木) 3:29 -
  
久方ぶりのまとまった雨で、畑で野菜作りをしている人が喜んでいました。それも、シトシトと「雨土塊(あめつちくれ)を砕かず」で。今週は学会の座談会週間で私(副支部長)も、ブロック座談会に担当で入らせてもらいました。そこのブロック長、話が熱心で、あとに自分が控えてるのに、もう終了時間真近、思わず「少し時間残しといて」と謙虚に横槍を入れました。

まるで、ブログのように書いていますが、もう一つの出来事。
閉店真近に入ってこられた、お客さん。以前から糖尿からくる足の痛みで寝れず、お風呂で温めると善くなると来てくれています。風呂上りに、この信心で直すことができると、確信で語りました。話は聞くし、「この事はどうなんだ」と、質問もしてくるし、核心に触れての仏法対話ができました。


●「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓(どっこ)の縁となって仏になるべきなり、何(いか)にとしても仏の種は法華経より外になきなり」である。2時前にそのお客さんが、「また、よろしく」と言って帰られる。


話は変わりますが、”岸和田の町民”さん、ピロリ菌の薬は飲まずにそのままですが、元気にやっています。女房からガミガミ言われるたびに、胃がいたむ程度です。この前は二男、三男が自分のウイスキーをボトルごと空けてしまい、先程、フレッツまで行って新しく買って来てくれました。うれしいものです。


さて、本題に入ります。仏法で用いる「輪廻説」は、すべての人に生命が永遠であると説いています。ただ、生まれながらの差別相は何かと、それが個々の生命に蓄積された「業(ごう)」にもとづいて、現れるのです。あの人は「業が深い」というのはここからきています。

「業」は大きくいって、 「身業(しんごう)」身体的行為
              「口業(くごう)」発言
              「意業(いごう)」思考・感情などの精神的行為

の3つに分けられます。身・口・意(しんくい)にわたる振る舞いは、「業」として生命に刻印されます。善悪にわたり生命の奥深くに刻まれた「業」は、死後も引き継がれて、三世にわたって己の生命に苦や楽を引き起こすのです。


人間が生きていくうえで、「業」の法則はひじょうに重要で、これは「運命」ではありません。「運命」というのは、すべてがあらかじめ決まっている。「業」の法則はそうではなくて、現在の努力によって将来を変えていけるというものです。
そこには、もっと成長しよう、完成していこうという大きな可能性があります。

つまり、今の境遇にあきらめるのではなく、自分の行動・生き方によって過去からの「業」を乗り越えていく。未来はどうにでも変えていける。このことを教えてるのが
私の知る創価学会です。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska195084.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/17(金) 1:25 -
  
唯物論者・無神論者であっても、自然の神秘は感じるし、畏敬の念も持ちます。人と
 の出会いに「運命的なもの」も感じます。
  「霊の存在」は信じませんが、「今の科学では説明出来ないもの」があることは理論 的当然と考えています。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska103042.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

「科学と宗教」この主題の結論。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/17(金) 2:28 -
  
すみません。またしても送信ミスです。というのは、題名を書くのに、かぎカッコを入れようとして、(半角入力になっていて) [ が出てしまい、削除しようとしてバックスペースではなく、エンターを押したと思うのですが、送信になってしまいました。

●結論を書こうと思ったのですが、戸田さんの根底にあると思える唯物論について、どういう過程があって唯物論を唱えるようになったのかを聞かせていただきたく思いました。

私は55年の人生で唯物論という哲学とは無縁で生きてきました。深く勉強する機会もありませんでした。その哲学を根底に、これほどまでに情熱を持って生きておられる戸田さんを見て、「何でだろう、何が行動の基盤にあるのだろうか」との一つの壁につきあたります。

今、少し、かじっただけですが、”唯物論というのは、単純なものから理論的に高度なものまで、物質の他に何ものも存在しないと決め、認容しない考え方、主義とのこと”であるなら、人間の精神作用、人を思う心、悲しみや喜びも物質に置き換えるのでしょうか。

「霊の存在」は信じないというのは、唯物論に則ってのお考えなのでしょうが、現に生きてる人間の生命は、生命そのものはどう捉えるのでしょうか。


お忙しいのは重々存じておりますが、結論に至るのに、議論すべきことであると思いますので、どうかお時間ができましたら、よろしくお願いします。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska103042.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

つまるところ、人生とは何か。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/23(木) 22:32 -
  
戸田さんとの、対話、追って進むことと思いますので、「科学と宗教」の私の思う結論を言います。

「喜べ!喜べ!人生の事業、人生の使命は喜びだ。
 空に向かって、太陽に向かって、星に向かって、
 草に向かって、樹木に向かって、動物に向かって、
 人間に向かって喜ぶがよい」 (人生の知恵 トルストイの言葉)

仏法は、現実から逃避した”哲学者”をつくるものではない。この現実の人生の”成功者””幸福者”をつくるためにある。本来、科学の探求も信仰の求道も、この「宇宙」と「社会」と「人間」のすべてを、”開かれた心”で見つめ、「喜び」の名曲を奏でゆくものである。
引用なし
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「宗教はアヘンだ」とマルクスはどういう局面で言ったのか・・・
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 なかやましげる E-MAIL  - 10/11/12(金) 10:54 -
  
この書き込みあたりから、なんとか投稿できないものかと「悶々」としていました。
戸田さんという超左翼の市議と地元で自営業(銭湯)をされながら、地元密着で活動をされている谷口さんとの関係に興味を持ち、さらに真摯な宗教論議にも敬服していました。
私は1952年(昭和27年)四月生まれですから、谷口さんとは三学年違います。ただ、福岡県の炭鉱街(日本最大級の炭鉱)の生まれなので(高校を2年で中退したので17歳までいました)、大阪とは数年の歴史的なずれ(私の主観ですが)があるので、ほぼ同時代を生きてきたことになります。
私も戸田さんと同じくマルクス主義を信奉しています。戸田さんとは二〇数年前、まだ自然食品の配送労働者をされている時からのお付き合いで、学生時代は知りませんが、その後のことはだいたい知っています(つもりです)。私はフリーのライターみたいなことをやっているので、戸田さんの活動とリンクしていることが多いのです。
という者ですが、私も標題の「宗教はアヘンだ」ということには少々違和感をもっています。
詳しくは知りませんが、マルクスも機械的にはこういうことを言ってはいないと思います。マルクスがどういう時代、どういう局面で言ったか知りませんが、彼のどの著作に書いているのか、知り合いの大学教員に調べてもらっています。この教員はマルクス主義の研究者でなく、旧約聖書の研究者で、大学時代は全共闘全盛期で運動にも関った人物です。
私の活動した周りにも宗教者はたくさんいます。戸田さんがあげられた人はほぼ全員知っていますが、この他にも大阪市の阿倍野教会で牧師をされていた村山さんが関西では有名です。関西パレスチナ連帯委員会?(略称関パレという団体)の代表をされていました。日本基督教団の牧師ですが、長くカイロに留学し、現地のイスラム教徒と共生され、「人間として同じだ」と言っておられました。真の宗教者は宗教、宗派の枠を超えて連帯されています。
まったくの無宗教の私が、特に宗教を意識したのは阪神大震災を経験してからです。長田区で被災し、古いマンションに当時小学6年生の娘と嫁さんとで住んでいました。
その後、行政との交渉や抗議行動に住職や牧師が多く参加されました。先にあげた旧約聖書の研究者もこの時に知り合いました。瓦礫の中をヘルメットをかぶり、回っていました。長田区の鷹取教会(カトリック)のキリスト像にもヘルメットがかぶせてあり、記憶されている人も多いことでしょう。当時、安全の為にヘルメットをかぶった人も多いのですが、全共闘世代の人が「久しぶり」に大衆運動に参加し、当時の活動を思い出したのかキリスト像にメットをかぶせたかもしれません。私はそう確信しています。そういう出会いがたくさんありました。
そして、震災16年。今、神戸市内のあるお寺(由緒ある真宗大谷派のお寺)で定期的に会合を持っていますが、ここには牧師、大学教員、元商売人の被災者、そして私のような左翼の運動を経験した者が集まっています。
ある牧師が「キリストも親鸞もマルクスも同じような事を言っているのではないか」とおっしゃいました。すかさず笑い声が起こりましたが、私も含めて反論はありませんでした。
谷口さんも自治会館建設という地元の住民にとって切実な生活と切り結んだ問題に直面され、創価学会、公明党との関りで悩まれ、そして戸田さんとの真摯な論議へと突き進んだと思います。
私も震災以前、反天皇制、反戦、そして反原発の問題で多くの宗教家に接して、深い感銘を受けました。その中には私の知る限り、残念ながら創価学会の人はいませんでした。
私が関ったこれらの活動は政治的、社会的には重要でも、私にとって生活に密着したものではありませんでした。震災を経験して初めて宗教と生活、地元密着の活動を実感しました。これは私的な経験で、震災がなくても地元密着、生活密着の活動をされている宗教者、宗教者と連帯した多くの活動家はいます。
門真での経験は貴重なので、私もこの掲示板に参加してきたし、これからも関っていこうと思っています。
今日はこの辺で。
それでは。


▼ゆうすけさん:
> 西欧における科学と宗教の論争、マルクスの「宗教はアヘンなり」の言葉、これはいずれもその宗教がキリスト教という低級な宗教であったことから起こった当然な結果であった。


>高度の科学研究者のなかには、宗教を肯定する人が少なくない。たとえば、アインシュタインも、キリスト教を否定しつつも、真の宗教という表現のもとに、偉大なる宗教の出現を渇望している。湯川博士も、人間の知能、科学の限界を述べ「叡智の源泉なる宗教」という表現のもとに、新しい宗教の出現を望んでいる。


>
>その信仰の内容はともかく、何等かの信仰をもたずして、人生を歩むことは出来ない。往々にして、世の中、多くの思想、知識をふりかざしながら、現実には、不幸な人が多い。一つの確信を持った人が、結局、幸福に歩んでる場合が多いのではないだろうか。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; YTB730; GTB6.6...@softbank218130024026.bbtec.net>

長田区で被災されたのですね。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/11/12(金) 23:36 -
  
中山さん。長文の投稿お疲れさまです。

まずは、苦言なのですが、読むほうもいささか眼が疲れます。できれば、話に少しでも切れ目があれば、行間を開けていただければ助かります。3学年も目上の方に、わかったようなことを言ってすみません。

それと、私も試してみてわかったのですが、投稿文を書き終えてプレビューにチェックしてから送信すると投稿後の画面(青い画面)に変わり、文面のレイアウトがわかり、再度読み返すことができます。訂正があれば、そのまま投稿欄に書き込めば直せます。プレビューは何度でも使えるようです。チェックをはずせば投稿されます。管理者の配慮で、よく考えられています。


さて、本題に入ります。いきなり、こんなことをお尋ねしてどうかと思ったのですが、当時6年生の娘さんと、奥さまはどうされたのでしょうか。ご無事ならいいのですが。

■戸田第二代会長は、よく語っていました。「日蓮をはじめ、釈尊、キリスト、マホメットといった宗教の創始者たちが一堂に会して『会議』を開けば、話は早いのだ」と。
 それぞれの時代状況は異なるにせよ、創始者たちは共通に「民衆の幸福」を願い、「生命の尊厳」を教え、「平和」という人類の普遍的価値を土台としている。

何のための宗教か。人間の幸福のためにこそ宗教はある。”ある牧師”もこのことをわかって言われたことと思う。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.6; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska104094.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

「宗教はアヘン」はマルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」
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 なかやましげる E-MAIL  - 10/11/14(日) 22:40 -
  
谷口さん、ご丁寧な返信、ありがとうございます。それと長文投稿へのご指摘、参考になりました。職業柄、つい長い文章になり、自分では別に苦にならないので、鈍感になっていました。しばらく大阪を離れていたので、返信が遅れて申し訳まりません。

まずは質問に答えて。
二人とも無事でした。私は前日は大阪にいて、しかも遅くまで起きていたので翌朝は昼前に起きて、テレビを見て(自宅前の長田神社周辺が燃えていた)驚き、あわててバイクで帰ったのですが、自宅に着いたのが4時過ぎでした。通常なら1時間ほどです。250ccのバイクのタイヤは、歩道の焼け落ちた瓦礫の上を走ったのでほぼ全面がこげていました。電気もない暗い部屋の隅っこで二人ひざを抱えて、座り込んでいました。

蛍光灯の笠が落ち、その破片で嫁さんが足を切っていましたが、数日気がつかなかったようです。つまり私はあの「ぐらー」を経験しておらず、その負い目もあり、ずっと被災地にこだわっているともいえます。そういう人は結構います。


標題の件ですが、前回書いた大学教員から以下のメールが来ました。
「宗教はアヘンのことばは『ヘーゲル法哲学批判序説』に出てきます。この本はすぐに見つけられませんが、研究室のどこかにあるはず。なお、このヘーゲルの『法哲学』ですが、けっこうおもしろい本でして、近年さかんに論じられています。『法』はドイツ語ではレヒトですが、これには「権利」の意味があり、読みなおしがおこっています」
次にはもっと詳しいメールがくると思います。

この掲示板は、宗教と政治について考えるいい機会になりました。戸田さんと谷口さんには感謝しています。宗教と政治でもっとも「激しい」のは中南米ではないでしょうか。「解放の神学」(カトリック)のことは詳しくは知りませんが、神父が銃を持ってゲリラ戦争に参加することには驚きました。宗教的な良心を全うしようと思えば、銃を手にとることに躊躇はそうないのでしょう。中南米や南米はキリスト教の基盤があり、日本と違って強く生活と密着しているようにも思います。カストロも神学校の出身だと思いますが、私達(日本人)の宗教観とは違うような気がします。土壌が違います。

創価学会の人とまともに話したのは(今回はネット上ですが)、今回が初めてです。
基礎知識がほとんどありませんが、谷口さんの書かれたものは全部読みました。わからないとこが多かったのですが、谷口さんの志、姿勢だけは伝わりました。

それでは。


▼ゆうすけさん:
>中山さん。長文の投稿お疲れさまです。
>
>まずは、苦言なのですが、読むほうもいささか眼が疲れます。できれば、話に少しでも切れ目があれば、行間を開けていただければ助かります。3学年も目上の方に、わかったようなことを言ってすみません。
>
>それと、私も試してみてわかったのですが、投稿文を書き終えてプレビューにチェックしてから送信すると投稿後の画面(青い画面)に変わり、文面のレイアウトがわかり、再度読み返すことができます。訂正があれば、そのまま投稿欄に書き込めば直せます。プレビューは何度でも使えるようです。チェックをはずせば投稿されます。管理者の配慮で、よく考えられています。
>
>
>さて、本題に入ります。いきなり、こんなことをお尋ねしてどうかと思ったのですが、当時6年生の娘さんと、奥さまはどうされたのでしょうか。ご無事ならいいのですが。
>
>■戸田第二代会長は、よく語っていました。「日蓮をはじめ、釈尊、キリスト、マホメットといった宗教の創始者たちが一堂に会して『会議』を開けば、話は早いのだ」と。
> それぞれの時代状況は異なるにせよ、創始者たちは共通に「民衆の幸福」を願い、「生命の尊厳」を教え、「平和」という人類の普遍的価値を土台としている。
>
>何のための宗教か。人間の幸福のためにこそ宗教はある。”ある牧師”もこのことをわかって言われたことと思う。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; YTB730; GTB6.6...@softbank218130024026.bbtec.net>

もう16年になるんですね。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/11/16(火) 19:56 -
  
明年平成23年。阪神・淡路大震災から16年になります。
娘さん、奥様ご無事でよかったです。当時私の姉が東灘のマンションに住んでおり悲惨な現実を目の当たりにして、避難生活をしておりました。私は、そこへすぐに駆けつけられなかったことが、負い目となっていました。数ヶ月経ってようやく東灘に電車で入り、駅から姉のマンションヘ。途中、何度も足をすくめ立ち止まっては歩みを進めました。


・・・・・・この掲示板は、宗教と政治について考えるいい機会になりました。戸田さんと谷口さんには感謝しています。・・・・・・こう言っていただけることが何よりです。

多くの語りたいことがあり、新しく「政治と宗教」のスレッドを立ち上げますので中山さん、読者の皆さん投稿お願いします。
引用なし
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