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科学と宗教、その間の壁は破れるのか。 ゆうすけ 10/8/28(土) 22:06

創価学会に向き合うことは「タブー」なのか。 ゆうすけ 10/8/29(日) 23:54
▲大事な提起に感謝。戸田も語りたいですが遅れますのでその点ご了承下さい 戸田 10/8/30(月) 1:26
法華経の励ましのメッセージ。 ゆうすけ 10/8/31(火) 16:58
厳然たる宇宙の調和と秩序 その”普遍なるもの””永遠なるもの” ゆうすけ 10/9/15(水) 1:46

創価学会に向き合うことは「タブー」なのか。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/8/29(日) 23:54 -
  
 ○茂木健一郎氏云く。

もともと、私が「池田大作さんとお話ししてみたい」という希望を抱いた理由の一つは、日本のメディアの中で、「創価学会」、及び池田大作さん御本人の扱われように違和感を抱いていたという点にあります。日本の中で大きな意味合いを持ってきた組織に向き合うことが「タブー」であるような状況はおかしい。そこには、人口的につくられた「壁」がある。そのことによって、大切な対話が閉ざされている。そのように感じてきました。

私は、多方面に大きな影響を及ぼしてきた池田大作さん御本人と対話することで、「壁」を溶かしてみたいと願ったのです。

その過程で、一般のメディアの中で報じられている池田さんの姿とは異なる、一人の人間が浮かび上がってくるのではないかと期待しておりました。その期待は、裏切られませんでした。これまでお手紙をやりとりする中で、池田大作さんのすぐれた学識、人間が生きるということの困難や喜びについての深い洞察が伝わってきました。


 ○対話から学ぶ。対話によって結ぶ。対話には、新たな価値を創造する大いなる力がある。

との視点から、戸田さんにあらためてお聞きしたいのですが、戸田さんの抱く創価学会とはどういう組織でしょうか。現に座談会にも出席され、私が聞いたのは、求めていた戸田さんに対して「壁」となったのが、学会の幹部であると。今もその「壁」はあるのでしょうか。

茂木さんはどんな宗教組織にも関係していませんが、戸田さんは宗教に限らず、さまざまな組織というものが壁になってしまうとお考えでしょうか。組織という括りを離れて、一人の人間として自由に活動することのほうが大切とお考えでしょうか。

最後に、「組織のための人間」ではなく、「人間のための組織」は可能であると思いますか。

お忙しい中、出し抜けに申し訳ありません。新たな価値を見出せるよう、よろしくお願いします。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska199161.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

▲大事な提起に感謝。戸田も語りたいですが遅れますのでその点ご了承下さい
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 戸田 E-MAILWEB  - 10/8/30(月) 1:26 -
  
 谷口さん、とても大事な話を提起してくれてありがとうございます。
 昨日午後2時過ぎから5時前終了まで、びっちり事業仕分けを傍聴撮影したらかなり
疲れて、夜に動画アップや報告をする予定が寝てしまい、さっき起きてやりかけている
ところです。

 谷口さん提起のテーマについて、戸田もぜひ語りたい事があるのですが、たまってい
る作業を先にやらないといけないので、書き込むテンポはだいぶ遅れるだろうと思います。
 その点ご了解下さい。

 とりあえずは谷口さんが論考を進めていって下さい。
 人が真剣に自分の内面にむきあって思索を深め、全国に公開されるHP掲示板にあえ
て自分の考えを公表していくひたむきさ、「身近な人々」にいろんな意味でも「波紋」
を起こし自分に跳ね返ってくる事を正面から受け止めようと覚悟を決めた勇気・・・、
そういうものを、谷口さんの投稿を読む人々は、その人の心がねじ曲がっていなければ、ちゃんと感じるだろうと思います。

 それでは。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; GTB6; .NET CLR...@i222-150-201-10.s04.a027.ap.plala.or.jp>

法華経の励ましのメッセージ。
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/8/31(火) 16:58 -
  
戸田さんが語っていただけることを、楽しみにしています。
話を進めておきます。

「壁」を破れば、新たな視界が開けるーーこのことを、大乗仏教の精髄である法華経は、壮大なドラマを通して示しております。

 
  ○「二処三会」

法華経の舞台構成は、「二処三会」(にしょさんえ)と言われます。これは、二つの場所で三つの会座がもたれることです。

全体の28品(章)のうち、前編の第1章から第10章までは、釈尊は、インドに実在する「霊鷲山」(りょうじゅせん)という岩山で法を説きます。
そして、中編の第11章から第22章では、舞台は一転して「虚空」という大空間に移ります。

ここでは、地球大のスケールの荘厳な宝の塔が出現します。そして、釈尊とともに、一座の衆生も、その虚空会へと引き上げられるのです。おとぎ話のように聞こえる物語の展開は、不可思議な人間生命の大きさとダイナミズムを表現しています。

大地は、いうなれば、生老病死の苦悩が渦巻く現実の世界です。これに対し、虚空とは、仏の広大無辺の境涯です。そこには、時間や空間の制約も超えた、永遠にして自由自在の生命力が満ち溢れています。

虚空会に連なった衆生は、釈尊と同じ尊い境地へ向上していくことができる。譬えるならば、地上において、目の前の壁と悪戦苦闘していた心が、その壁を悠々と見下ろせる天空の高みへ一挙に上昇するのです。学会員の行う朝晩の勤行、唱題がこの虚空会に連なる儀式と言えます。しかし、祈りは時には現実の悩みに押し潰されそうで、壁を悠々と見下ろせるまでにはいかないのが常です。

法華経の後編の第23章から終章では、舞台は、「虚空会」から「霊鷲山」に戻ります。
すなわち、霊鷲山→虚空→霊鷲山という往還になります。


師・釈尊の教えを受けて、自らの尊貴な生命に目覚め、崇高な使命を担い立った弟子たちは、再び悩みの絶えぬ現実世界へ突入して、人々のための行動を貫いていくのです。

                              〜つづく〜
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska198083.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

厳然たる宇宙の調和と秩序 その”普遍なるもの””永遠なるもの”
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 ゆうすけ E-MAIL  - 10/9/15(水) 1:46 -
  
霊鷲山→虚空→霊鷲山という、法華経の舞台構成の話をしましたが、前の投稿で私はこの話が、地球上のことであると思っていました。しかし、もう一歩深く、他の本を読んで宇宙大のスケールで展開された、壮大なドラマであることを新発見しました。
創価学会の教学試験も近くあるので、少し詳しく書いておきます。

  
  ●法華経の「宝塔品」(見宝塔品第11)の、ドラマ。

宇宙のさまざまな国土(惑星・衛星)で法を説いていた、釈尊(釈迦)の分身の諸仏が地球に呼び集められ、釈尊の説法の座に加わります。七宝の塔が大地から湧出して虚空に伸びていくのを人々が見るから、見宝塔品といいます。その後、「嘱累品第22」に至って、再び諸仏がそれぞれの国土、つまり他の天体へと帰っていく。多宝の塔は閉じて元にもどる。

見宝塔品第11から嘱累品第22までの12品は、虚空で説かれたから虚空会といい、前後の霊山会と並べて二処三会という。(前述のとおり)


3,000年前の話である。そのとき、自分がその場所に居合わせたという記憶・・・が確かなら。当時宇宙船もスペースシャトルもなく、いろんな星から諸仏が地球に集まれたとしても、言葉も違うし、姿もそれぞれの星の生物であろうし、数十万の仏・菩薩が拡声器もない時代にどうして釈迦の説法を聞くことができたのかと、その壮大なドラマを本当なのかと疑いもする。しかし、仏法の奥底からこれを見るならば、きわめて自然な儀式である。

すなわち、このドラマは、釈迦己心の生命の広大なるドラマであり、我々の生命にも、仏界という大不思議の生命がある。この生命の力および状態は、想像もできない。しかし、仏界をわれわれの生命に具現することはできる。その生命の宇宙大の尊厳性を示したのが、この宝塔品の儀式なのである。

ここで、釈尊が説いたものは、”宇宙根源の法”であり、あらゆる生命の尊厳性と平等性であった。それは地球上だけでなく、宇宙のあらゆる天体・文明に通用する普遍性と永遠性をもったものである。

その星その星によって、文化も文明も異なる、その”差異”を乗り越える”普遍的精神”を、仏法は与えています。それは同時に、地球だけが”選ばれた唯一の星”だという、地球中心の宇宙観からの脱却でもあります。

さらに、法華経の会座で、”普遍的なる法”を持った諸仏・菩薩が、今度は宇宙のあらゆる場所で法を説くことを誓います。衆生の苦悩の闇を破り、希望の光を与えていく地湧の菩薩の使命がここに厳然と示される。私、谷口がこの仏法を持っていることが、記憶にはなくとも虚空会の儀式に連なっていたという厳然たる事実である。


まさしく「法華経」は宇宙大のスケールで展開された、壮大なる叙事詩である。

われわれ人間は、この宇宙から生まれ、人類の誕生は、宇宙それ自体の進化の厳然たる成果である。そして、人類は、自らを生み出した宇宙を認識しつつ、自身の起源と目的、また、未来への使命に思いをめぐらす存在でもある。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; GTB6.5; .NET CLR 2.0.50727)@ntoska200059.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

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