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報ステが大スクープ!憲法9条(戦争放棄)は幣原喜重郎首相の提案であった事が判明! 戸田 16/3/3(木) 23:27

◎2015年8月、安保法制反対運動勃興の中、幣原氏が戦争調査会設置した業績に光が! 戸田 16/3/4(金) 11:10
★「門真でも・門真だからこそ出来る超党派の護憲共同」の結集軸が「幣原喜重郎」だ! 戸田 16/3/4(金) 13:46
☆2015年9月議会:文教委でも本会議でも幣原業績継承をオール門真ですべしと質問! 戸田 16/3/4(金) 15:14
▲9/16文教委質問を「議事録」で全文紹介する。(原稿には無い発言も結構あるよ) 戸田 16/3/4(金) 15:56

◎2015年8月、安保法制反対運動勃興の中、幣原氏が戦争調査会設置した業績に光が!
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 戸田 E-MAILWEB  - 16/3/4(金) 11:10 -
  
 「2015年8月」と言えば、「憲法破壊の安保法制国会審議」で安保(戦争)法制反対運動が各地各層に燎原の火のように燃え広がり、万余の国会前集会が続き、あの歴史的な「8/30(日)国会12万人結集」がなされた時である。
   ↓↓↓
 http://www.hige-toda.com/_mado04/jieiken/jieiken_index.htm (写真・動画多数)
   ★「55年ぶりの国会前車道占拠」に遭遇し感涙 !赤旗の特報写真は戸田車上から
     撮影! 戸田 - 15/9/1(
   http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=9302;id=#9302

 この「憲法破壊に反対する熱い8月」に、幣原喜重郎の業績に新たな光が当てられた。
それが、「敗戦直後に戦争の原因と実相を調べる調査会を設置した」という業績である。
   ↓↓↓
◎門真の総理=幣原(しではら)さんは戦争の原因と実相を調べる調査会も作っていた!
    戸田 - 15/8/20(木) 3:54 -
  http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=9278#9278

「門真の偉人=幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)」と言えば、降伏直後の総理大臣で、「戦争放棄」の強い情熱を持って平和憲法作定にあたった人として有名だが、
  ◎幣原喜重郎元首相の生誕地(PDF:786.6KB)
      http://www.masse.or.jp/ikkrwebBrowse/material/files/200907_pc3.pdf
実はそれだけでなく、敗戦直後に日本人自身の手で戦争の原因と実相を調べるための調査会=「大東亜戦争調査会」というものを設置した人でもあった!
 その事が阿修羅掲示板記事に書かれていたので、備忘録としてとりあえず投稿しておく。

 この件、「日本近現代史の歴史家」の人が「最近、印象的な史料に出会いました」、と書いているくらいだから(戸田は全くの初耳)、もしかすると門真市立歴史資料館の幣原資料展示でも触れられていないかもしれない。
 門真市の市長や教育長も、議員も市民も、知らないだろうと推測する。
 とても重要な事なので、以下に紹介する。
    ↓↓↓
◎(戦後70年)「あの戦争」とは 日本の近現代史を研究する歴史家・加藤陽子さん:
  「敗戦責任」論は必要不可欠な過程
    http://www.asyura2.com/15/senkyo190/msg/925.html
   投稿者 あっしら 日時 2015 年 8 月 20 日

(戦後70年)「あの戦争」とは 日本の近現代史を研究する歴史家・加藤陽子さん
[朝日新聞]2015年8月5日05時00分

 「あの戦争」とは何だったのか。戦後の70年は日本人にとって、そう自らに問い続ける時代でもあった。そして、70年たった今も、戦争の原因や責任をめぐり、様々な論議が交わされている。私たちはこれから先も、あの戦争の意味を考え続けていくことになるのだろうか。歴史家として戦争を見つめてきた加藤陽子さんに聞いた。
 (中略)
 「占領期の国民がどう考えていたかについては、最近、印象的な史料に出会いました。降伏直後の45年秋に幣原喜重郎内閣が、大東亜戦争調査会というものを設置しています。戦争の原因と実相を日本人の手で調査し、記録に残すことを目的にした機関でした」

 「幣原首相はその記録を『後世国民を反省せしめ納得せしむる』ものにしたい、と発言していました。戦勝国にせよ敗戦国にせよ戦争は引き合うものではないのが現実であり、その参考になる記録にする、とも。

 また、戦前に鉄鋼増産の立案に携わった水津(すいつ)利輔は46年5月に調査会で、『来(きた)るべき平和的、文化的世界に対して日本は一つの贈り物がある』と語っていました。贈り物とは、自ら『失敗原因の報告』をすることである。水津はそう発言しています」

 「連合国側の意向で、後に調査会の試みは中止させられました。ただ私は彼らの発言を読み、身についた言葉だと感じました。日本国民が戦後に到達していた一地点を示すものだと思います」
  ==============================================================
2015年08月04日 (火) [NHK総合]
視点・論点 「シリーズ「戦後70年」 戦前史を学ぶことが なぜ必要か」
東京大学教授 加藤陽子

・・・・以上、戦前の歴史を学ぶことの意味を二点にわたって考えてきました。
 最後の三点目として指摘したいのは、今に連なる戦後というものが、戦前の反省の上に始まった、という歴史的事実の重みです。
 この点について、「戦争調査会」を例に説明しておきましょう。
 戦争調査会は、1945年10月、幣原喜重郎内閣総理大臣を総裁として、内閣に設けられた調査機関でした。

 会の目的は、敗戦の原因と実相を明らかにすることにおかれ、日本の犯した「大なる過誤を、将来において繰り返さないため」に、永続的な調査が必要だとしてスタートしたものでした。
 1946年3月に開かれた第1回の総会で幣原が述べた言葉を紹介しておきましょう。
 まずは、戦争放棄について、こう述べています。

 「今日我々は戦争放棄の宣言を掲ぐる大旗をかざして、国際政局の広漠なる野原を単独に進み行く」ものだと。

 その上で、「戦争の原因及び実相を調査致しまして、其の結果を記録に残し、以て後世国民を反省せしめ、納得せしむるに、充分力あるものに致したい」。記録を残すことの重要性を説いていました。

 また、同年4月の第2回総会における幣原の言葉も大事です。
 「戦勝国にせよ、戦敗国にせよ、戦争が引合うものでない、此の現実なる参考を作る。〔中略〕将来、我々の子孫が戦争を考えないとも限らない。その時の参考に今回の資料が非常に役立つ様な、調査をせねばならぬ」。
 このように幣原は意気込んでいました。

 ただ、不幸なことに、調査会の活動は中止を余儀なくされます。
 連合国軍最高司令官マッカーサーの諮問機関であった対日理事会のうち、ソ連とイギリスの代表が、1946年7月、解散勧告を行ったからです。
 その理由は、「戦争の原因を尋ね、これを処罰する仕事は国際軍事法廷の任務に属する」、というものでした。

 戦争調査会の挫折は、日本国民にとりましても、日本の戦争で惨禍を蒙ったアジアの人々にとりましても不幸なことでした。
 ただ、調査会にかけた幣原が、極めて早い段階で、戦争抛棄の精神を明らかにし、日本人の「反省」の仕方の道筋を付けていたことは注目に値します。
 過ちは繰り返さないと誓い、戦争は引合うものでないとの参考を作るところから、戦後は始まったのです。
   http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/224424.html
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◎関西を歩く:大阪府門真市の門真市立歴史資料館「幣原家の足跡をたずねて」
  http://4travel.jp/travelogue/10924769
 門真市立歴史資料館は門真の歴史に関する資料を収集・保存、展示公開している。常設展「幣原家の足跡をたずねて」は門真市が誇る偉人のコーナーだ。

 幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872−1951年)は日本の外交官、政治家。
 内閣総理大臣(第44代)、外務大臣、衆議院議長(第40代)などを歴任し日本国憲法の草案作成に携わったことで知られている。
 国際協調路線は「幣原外交」とも称され軍部の軍拡自主路線と対立し1931年の満州事変後国際協調路線を唱える幣原は軍部から「 軟弱外交 」と批判を受け辞任に追い込まれた。

 表舞台に返り咲くのは終戦後の1945年昭和天皇の命を受けて首相に就任し連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で憲法草案作成に取り組みその後衆議院議長に就任し現職のまま78歳で亡くなっている。
 門真市立歴史資料館には幣原家ゆかりの史料が約五十点展示されており説明資料も詳しい。
 幣原家は元来 石清水八幡宮 の御幣をつくる家であったそうで門真村の豪農で庄屋だったとのこと。

 大阪府出身の総理大臣経験者は幣原喜重郎(第44代内閣総理大臣)と鈴木貫太郎(第42代内閣総理大臣、海軍大将)の2人。

 鈴木貫太郎は堺市中区伏尾(関宿藩の飛び地)で1868年に生まれ3歳の1871年に本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移し育っているので先祖代々の大阪の地で生まれ育って総理大臣になったのは幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872−1951年)一人だけで、昭和天皇も認める平和主義者であったことで門真市が誇る人物であることはよくわかる。
  (写真は門真市立歴史資料館)
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◎守口門真の謎・疑問・情報を探求するもりかど探偵団。
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  2013年04月26日 第44代内閣総理大臣 幣原喜重郎
   http://tanteidan.seesaa.net/article/357336903.html

 総理大臣になるには・・・なんて考えたこともない中庭です。
 幣原兄弟の顕彰碑は実は幣原さんの家の跡だったんですねぇ。しかも願得寺は幣原が通ってた小学校があったところだったなんて!!毎日30分強かけて通学してたんですねぇ。
 70歳で総理大臣・・・すごいですねぇ。

 今回は改めて門真市出身の偉人、幣原喜重郎のことが学べて良かったです。
 かめっちこと亀田しょうこです
 今日は門真出身の英雄、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)がテーマでした
 この人は第44代内閣総理大臣に就任したすご〜〜い人なのです

 私は門真市立歴史資料館にて常松先生に幣原喜重郎について伺ってきました
 喜重郎は幣原家の次男として生まれ、東京帝国大学(今の東京大学)に進学しました。
 戦前には外交官・外務大臣として「協調外交」を展開し、戦後には44代内閣総理大臣に就任しました。

 実は内閣総理大臣就任を一度は断っていた喜重郎。高齢の身だったからです。
 ですが天皇から再び内閣総理大臣就任を命じられ、44代内閣総理大臣に。
 幣原内閣には次の総理大臣になる吉田茂も入閣していました。
「日本国憲法改正草案要綱」を発表するなど、日本の民主化を実現するために努めました。

 そんな喜重郎の家族や幣原家の歴史について改めて門真市立歴史資料館にある常設展「幣原家」の足跡を訪ねてリポートに

 喜重郎の父は厳格な教育者だったようですが、「田畑を売り払ってでも教育にはお金をおしまない」という方針の愛情たっぷりの素晴らしい父でした・・・
 当時の幣原家を再現した模型や、喜重郎が実際に使っていたステッキなども展示されています

 もっと知りたい方はぜひ行ってみて頂きたいです(入場無料です)
 門真市立歴史資料館 常設展「幣原家」の足跡を訪ねて
 門真市立歴史資料館へのmap↓
http://www.city.kadoma.osaka.jp/kyoiku/shisetsushokai/bunka_shisetsu/rekishi_siryo.html
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; GTB7.5; YTB730...@i60-35-69-37.s04.a027.ap.plala.or.jp>

★「門真でも・門真だからこそ出来る超党派の護憲共同」の結集軸が「幣原喜重郎」だ!
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 戸田 E-MAILWEB  - 16/3/4(金) 13:46 -
  
 「立憲主義破壊・極右全体主義かつ米帝追随売国のアベ政治」に反対する広範な国民運動を作る、自民党や公明党の(今や数少ない)良識的穏健派も含めてそのような結集を作るという「切迫した課題」について、
「門真市ではどうするのか?」、という応用問題が突きつけられている、と戸田は痛感した。

 戸田はいろんな運動情報に日常的に触れ、共産党の赤旗日曜版の読者でもあるから、いくつかの自治体議会で
  A:「安保法制について慎重審議を求める意見書」の採択
      ・自公の議員もそれに賛成して「全会一致」の場合、
      ・「賛成多数で可決」の場合、
  B:「安保法制に反対する意見書」の採択(少数の議会だが)
      ・「全議員賛成」は無かったと思うが、「自民党議員も賛成して可決」のと
       ころはごく少数ながらある。 

という事が起こっているのは知っていた。

◆共産党は盛んに「保守のみなさんとも共同して採択された!」とか、「自民党議員も賛
 成して採択された!」、と宣伝して
 「あなたのまちでも戦争法反対の幅広い共同を進めましょう!」と赤旗で訴える。

 なるほどそれは全く正しい事であり、戸田も以前から考えてきた事だ。

▲問題は、「それを門真市議会で進めるにはどうするのがよいか」、という事である。

1:門真市議会では幸いな事に「アベ政治的な極右派議員」はいない。
  安倍自公癒着政権支持の自民党議員、公明党議員は与党多数派だし、右翼全体主義
 の橋下維新の「公認議員」や「別働隊議員」(緑風クラブ4議員)もいるが、
 それぞれの議員は皆、個人信条としては(理論矛盾しているが)「大枠では穏健保守」
 に分類できる。
  ※緑風クラブの一部に右翼の「日本会議」所属議員や「日本会議と親密な『親学』」
   信奉議員もいるが。

2:しかし、門真市の公明党・自民党・緑風クラブ議員達の今の意識状況では、安保法制
 について「慎重審議を求める意見書」への賛成は全く望めない。
  「安倍政権が正面切って打ち出す重要政策に対して、正面切ってブレーキをかける」
 種類の意見書への賛同に持っていく事は、少なくとも現在の世論状況程度では無理だ。

3:しかし、◆「平和憲法を作った門真の偉人=幣原喜重郎の業績を称える」という事で
 あれば、これに反対する議員は誰もいない。
  ここに「超党派的な護憲共同」の鍵がある!

  「郷土の偉人」の力はやはり偉大である。
  「今の憲法は押しつけ憲法だから変えるべきだ」というデマ政治の上に立つ自民党や
 「日本会議」の議員であっても、「幣原喜重郎なんて反日分子だ!」とか「幣原喜重郎
 の業績を称えるなんてとんでもない!」とかを主張する議員は誰もいない。
   (※他自治体ではそんなバカ右翼議員がいる議会があちこちにあるが。)

4:「安保法制反対」や「アベ政治反対」は無理でも、
 「立憲主義を守ろう」とか、「憲法の平和主義を守ろう」、
 「憲法9条の改悪には反対」
 ぐらいの文言であれば、門真市議会での採択は十分に可能だと思う。

  たしかに自民党は「憲法改正が党是」ではあるが、「幣原喜重郎を輩出した門真市」
 の自民党議員が「立憲主義は守って当然」、「憲法9条の『改悪には反対』」との立場
 に立つ事は十分に可能なはずだ。

 ◆またそれは、自公の市議にとっては、国政レベルでは「壊憲極右・生活破壊のアベ政
  権」の推進役でありしもべでありつつつ、市政レベルでは「壊憲極右派ではない穏健
  良識主義で門真の偉人を大切にする市会議員」としてのイメージを出せる事でもある
  ので、「決して損ではない選択」である。

   ▲政党の上部から締め付けがあったとしても「地域の選挙事情で」という「言い
    訳」も成り立つし(笑)。
   
5:★幣原喜重郎の業績の啓発継承を市が積極的に行なう事が、
    「市民や子ども達に誇りを生み、門真市を愛する気持ちを育む」、
    「門真市の品格と魅力向上にも寄与する」
  事は「誰も否定できない事」である。

 ◆「もともと都市間競争(こんな言葉は戸田は大嫌いだが)で不利な立場にある門真市
  が『魅力ある都市』となって人々を惹きつけるには、幣原喜重郎の全国的な名声を高
  めて、『平和憲法都市=門真市』として都市品格を上げていくべきだ」、
  ・・・・という「論」は、非常に優れていると思うよ!

6:戸田は「アベ政治打倒の広範な共同戦線を作っていく」、という自分の政治的意志を
 全く隠しはしない。

  共同戦線とか統一戦線とかいうものは、「騙し」や「猫なで声」で作るものではなく
 (これ、共産党への当てこすりです)、それぞれの利害や差異の存在を認めあって、
 それぞれが「ウインウイン」になるようにしつつ、
 「それぞれにとって大切に思う『共通の目的』を実現するためのもの」である。

 ■「幣原喜重郎の業績の啓発継承を超党派的に行なう事」は、
   戸田や共産党にとっても、
   門真市の自公民・緑風の議員にとっても、 
   自民党園部市長にとっても、
   門真市行政にとっても、
   もちろん門真市民にとっても、 

  「みんなにとって良い事」としてある。

7:◆「幣原喜重郎の活用」は、「門真市以外のまちでは絶対に出来ない事」、
 「門真市だからこそ出来る事」である。

8:自民党の中道議員や民主党系の森議員が、戸田のこういった呼びかけに呼応して、
 「あえて議会質問をする」という行動に踏み切っているのに、門真市共産党4議員は、
 こういう事に全然興味を示していない模様であるのはなぜだろうか?

  「護憲とアベ政治反対の共同を門真市でどう作るか」、という「応用問題」に取り組
 むだけの能力やセンスを持ち合わせていないためだろう。

  さらに、「自分が発案して実行する能力」が無いだけでなく、ソリの合わない戸田が
 始めた事であっても、「良いものが動き出したら、それを評価して自分も加わってい
 く」、という「度量」も無いのだろう。

  戸田だったら、共産党が超党派的共同を発案発表し、自民党議員もそれに呼応して議
 会質問をしたら、多いに称えて市民にも宣伝していくし、もちろん自分もその動きに参
 加して議会質問していくけれどね。

  門真市共産党はそういうトンチンカンだから、「右翼やウソつき糸らと仲良し関係を
 持ったトポス裁判闘争」を続けているのだろう。
  
  ま、「過ちを改めるのに遅すぎる事はない」と思うので、今後に「かすかな期待」は
 しておこう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; GTB7.5; YTB730...@i60-35-69-37.s04.a027.ap.plala.or.jp>

☆2015年9月議会:文教委でも本会議でも幣原業績継承をオール門真ですべしと質問!
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 戸田 E-MAILWEB  - 16/3/4(金) 15:14 -
  
 通常戸田は、文教委で質問したのと同じ課題を本会議でも質問する事はしない。
 しかし2015年9月議会では違った。
 幣原喜重郎の業績継承について、9/16文教委所管事項質問で行ない、それを土台として、9/25本会議一般質問も行なった。
 それぞれに原稿を紹介していく。
    ↓↓↓
◎2015年9月議会特集 http://www.hige-toda.com/_mado05/2015/gikai/09gikai.html
  動画が沢山載せられている。
  質問・答弁の原稿はPDFで載せられている。 

 ※この9月議会については、掲示板での報告記時は異様に少なくて、質問原稿すら掲載
  されていない。
    ↓↓↓
  明日9/10(水)から9月議会!今晩戸田は三宅教育長への賛成討論作成ほかの作業中!
       戸田 - 15/9/9(水)
    http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=9316;id=#9316
 ほか、わずか4本のみ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【9/16文教委所管事項質問の双方の原稿】
http://www.hige-toda.com/_mado05/2015/gikai/img/151004/bunkyoui/heiharakijyuurou.pdf
  <幣原喜重郎の業績について>

Q1 「門真の偉人=幣原喜重郎」と言えば、降伏直後の総理大臣で、「戦争放棄」の強い
 情熱を持って平和憲法作定にあたった人として有名だが、その業績について、従来一般
 的に知られていた事を説明して欲しい。

A1 幣原喜重郎は、1872 年(明治5年)、門真一番下村において大変教育熱心であった幣
 原家の次男として生まれ、門真小学校で学び、わんぱくな少年時代を過ごした後、当時
 、国の直轄であった大阪中学校で英語の基礎を身につけ、東京の帝国大学に入学しまし
 た。

  卒業後、外務省に入り、外交官として仁川、ロンドン、釜山、ワシントンなど世界各
 地へ赴任の後、51 歳にして外務大臣に就任し、「幣原外交」といわれる平和的な外交を
 展開しました。

  終戦後の 1945 年(昭和 20 年)、73 歳で第 44 代内閣総理大臣に親任、「大阪で生
 まれ育った唯一の総理大臣」として、「日本国憲法改正草案要綱」を発表するなど、
 日本の民主化に尽力した人物です。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Q2 それは門真市の市民や子ども達には、どのような形で伝えられてきたか?
 (いつから、も含んで)・学校の教科書や授業、課外活動において・歴史資料館におい
 て・石碑など・広報その他において・講演会などにおいて

A2 学校教育におきましては、1975 年(昭和 50 年)に小学校社会科の副読本「わたし
 たちの町かどま」に業績を掲載し、3年生の市内めぐりにおいて幣原兄弟顕彰碑を訪れ
 ています。

  歴史資料館におきましては、2000 年(平成 12 年)に特別展を開催し、同年から常
 設展として郷土の偉人の生い立ちに焦点をあてた幣原家の足跡を伝えてまいりました。
  幣原兄弟顕彰碑につきましては、1966 年(昭和 41 年)に建立された後、市内外の
 人が訪れてこられました。

  広報につきましては、折に触れて取り上げておりますが、例えば 2011 年(平成 23
 年)に徳庵道の特集で掲載したほか、幣原喜重郎の生い立ちなどをわかりやすく伝える
 映像を 1996 年(平成8年)に制作し、歴史資料館で見ることができるようにしていま
 す。
  また、2013 年(平成 25 年)に発行した門真市暮らしの便利帳では、門真が誇る偉
 人としてその業績を紹介しています。
  講演会につきましては、2002 年(平成 14 年)に幣原家の方を招き講演会を開催し
 ました。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Q3 戸田掲示板 8/20 投稿で、実はそれだけでなく、敗戦直後に日本人自身の手で戦争の
 原因と実相を調べるための調査会=「大東亜戦争調査会」というものを設置した人でも
 あった!
  この件、「日本近現代史の歴史家」の人が「最近、印象的な史料に出会いました」、
 と書いているくらいだから、もしかすると門真市立歴史資料館の幣原資料展示でも触れ
 られていないかもしれない。門真市の市長や教育長も、議員も市民も、知らないだろう
 と推測する。

  と書いたが、市や歴史資料館の認識としては、どうだったか?
  戸田からの通報の後、調べてもらったが、調べた結果は現在どのようなものか?
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

A3 歴史資料館では、幣原喜重郎個人の実績のみならず、幣原家の歴史や地域の様子、
 家族との関わりなどについて多角的に展示しておりますが、当該調査会については認識
 しておりませんでした。

  調べた結果につきましては、少しご説明が長くなりますが、幣原平和財団が1955 年
 (昭和 30 年)に発行した「幣原喜重郎」や調査会に関する論考によりますと、
  当該調査会は、「敗戦に関して犯した過ちを繰り返さないこと」を目的とし、
 「敗戦・戦争の原因と実相の徹底的な調査」のため、幣原喜重郎内閣が 1945年(昭和
 20 年)11 月に設置しました。

  設置経緯につきましては、戦争責任の調査と追及を求める世論を受け、敗戦原因の調
 査の必要性を指摘していた幣原が、「敗戦ノ原因及実相調査ノ件」として閣議決定し、
 設置され、総裁には幣原自らが就任し、調査方針として、
  戦争の起こった原因を世界史的立場に立って究明すること、
  戦争経過の実情を明確にし、敗戦に導いた真因を追求すること、

  降伏後の日本がどのような困難に直面し、処理したかを明らかにするなどして、
  戦争の顛末について正確な歴史的資料を後世に遺し、恒久的な平和日本を建設するた
  め基本的な指標を導き出すものであること
 を策定しました。

  しかしながら、連合国最高司令官の諮問機関である対日理事会において、ソ連代表が
 戦争の原因調査や戦争扇動者の処罰という任務は極東国際軍事裁判所に属していること
 や、元軍人などが委員として調査に携わっていることを批判し、解散を勧告したことな
 どにより、
  対日理事会での意見対立の長期化を懸念した GHQ の意向に応じ、日本政府は 1946
 年(昭和 21 年)8月に調査会の廃止を内定、9月に廃止されました。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Q4 幣原喜重郎と「大東亜戦争調査会」の一件について、門真市教委として、さらに調査
 を進めて、市民に展示・啓発説明出来るようにしていくべきと思うが、どうか?
  またその推進をする体制や推進のメドはどうか?

A4 調査が十分に行われることなく廃止されたようであるため、新たに展示する資料とし
 てどのようなものがあるかはわかりませんが、常設展のパンフレットに記載している年
 表を充実させたいと考えております。

  歴史資料館の体制につきましては、正職員として生涯学習課長補佐、公民館長、文化
 会館長を兼務する館長が1名、学芸員が1名、非常勤嘱託職員2名の体制でございま
 す。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Q5 とりあえず、「戦後 70 年」の今年中に幣原喜重郎と「大東亜戦争調査会」の一件を
 語れる研究者などに依頼して、門真市内で講演会を持つのが良いと思うが、どうか?
  朝日新聞記事に載った「日本の近現代史を研究する歴史家・加藤陽子さん」などに依
 頼してはどうか?

A5 郷土の偉人である幣原喜重郎の業績を、市民の皆さんにわかりやすく伝えることによ
 り、幣原喜重郎が目指した「永久不滅の平和」について考えていただくとともに、市民
 が本市に対して誇りと愛着を持つことができる環境を醸成する取り組みを検討してまい
 ります。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Q6 門真市やその周辺で、幣原喜重郎の業績を調査研究している団体個人はどのようにな
 っているか? 歴史資料館・民間のグループや郷土史家、研究者など

A6 独自に調査研究している方はおられるかもしれませんが、門真市周辺で幣原喜重郎の
 業績の調査研究を行っている団体や個人について把握できておりません。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Q7 幣原喜重郎の業績の啓発継承を市が積極的に行なう事が、門真の市民や子ども達に誇
 りを生み、「門真市を愛する気持ち」をより育み、門真市の品格と魅力向上にも寄与す
 ると確信するが、教委の認識はどうか?

A7 郷土の偉人である幣原喜重郎の業績を伝えることにより、市民が本市に対して誇りと
 愛着を持つことができる環境を醸成することは大変重要なことであると考えておりま
 す。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Q8 今年度内にでも、新たに認識された業績の紹介を中心とした講演会などの啓発企画が
 出来るよう、市長部局にも働きかけて予算が出るようにして欲しいがどうか?

  今後はせめて年に1回は幣原喜重郎に関連する市民向け行事をやるようにする、
 例えば「幣原喜重郎平和フェスタ」とか「幣原喜重郎平和憲法祭り」とか
 「幣原喜重郎の業績展示講演会」をやったり、「平和憲法制定首相のまち=門真市」を
 「門真市の魅力」として打ち出したりする事については、どう考えるか?

A8 これまでにも先ほどご答弁したような内容を実施してまいりましたが、今後も引き続
 き、市民大学等の場を活用するほか、郷土の偉人である幣原喜重郎の業績を伝える新た
 な取り組みにつきましても、関係部署へ働きかけたいと考えております
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【9/25本会議一般質問の双方の原稿】
http://www.hige-toda.com/_mado05/2015/gikai/img/151004/02heiharamondai.pdf

 さて、私が喪服で登壇した理由の2番目は、安倍自公政権とその与党および「次世代」
等の追随者達によって、立憲主義と国会民主主義が殺されてしまった事への強い怒りの表
現です。
憲法違反が明らかな、「米軍戦争への積極加担」の「戦争法案」が、9月19日土曜日
の午前2時に参院本会議で可決され、成立させられてしまいました。

しかし、本会議採決の前提として、「9/17 の参院特別委員会で可決された」と与党や
マスコミが認定しているわけですが、
 実際には、現場で委員長からの発言が全く聞こえておらず、かつまた、特別委員会に所
属しない与党議員と国会議員ですらない秘書らが大挙して委員長席周辺に押し寄せ、
野党を暴力で排除して事を進めたという、

「部外者乱入による、特別委員会の違法な蹂躙」がなされ、「特別委員会での採決」自体
は不存在である、という酷さです。

これは、戦争利潤を追求して止まないアメリカの軍産複合体に追随する事に自分の利益を感じる、日本の支配勢力が、長年に渡って日本国憲法への攻撃を続けてきた結果でもあるわけですが、
 平和憲法作成の大功労者たる幣原喜重郎首相を生みだした、この門真市においては、
それに追随することなく、逆に、門真市民の誇りにかけて、幣原喜重郎の偉大な業績を積
極的に自覚し、継承していくべきである、と考えます。

氏の偉業に敬意を払って立憲主義を守り、憲法9条を維持する事について、他ならぬこの門真市においては、自民党の市長であれ議員であれ、みなが同意できるはずだ、と私は確
信しており、その見地から、

<項目2;日本人自らの戦争検証をも実行した「門真の偉人」幣原喜重郎の業績の啓発継 承について>
の質問を、以下のように行なうものです。
 
Q1:「門真の偉人=幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)」と言えば、降伏直後の総理
 大臣で、「戦争放棄」の強い情熱を持って平和憲法作定にあたった人として有名だが、
 実はそれだけでなく、敗戦直後に日本人自身の手で戦争の原因と実相を調べるための調
 査会=「大東亜戦争調 査会」というものを設置した人でもあった。

  それについて、私が 9/16 文教委所管事項質問で取り上げたが、幣原喜重郎氏のそれら
 の業績について、市が 現在認識しているところを、少し詳し目に述べてもらいたい。

A1:まず、幣原喜重郎氏の業績についてであります。
   幣原喜重郎氏は、1872 年(明治5年)、門真一番下村において大変教育熱心であっ
 た幣原家の次男として生まれ、願得寺内に設立された門真小学校で学び、わんぱくな少
 年時代を過ごした後、当時、国の直轄であった大阪中学校で英語の基礎を身につけ、
 東京の帝国大学に入学されました。

  卒業後、外務省に入り、外交官として仁川、ロンドン、釜山、ワシントンなど世界各
 地へ赴任の後、51 歳にして外務大臣に就任し、「幣原外交」といわれる平和的な外交を
 展開されたものでございます。

  終戦後の 1945 年(昭和 20 年)、73 歳で第 44 代内閣総理大臣に親任、「大阪で生
 まれ育った唯一の総理大臣」として、「日本国憲法改正草案要綱」を発表するなど、
 日本の民主化に尽力した人物でございます。

  次に、戸田議員ご質問にもありました「大東亜戦争調査会」の設置につきまして、御答
 弁申し上げます。
 幣原平和財団が 1955 年(昭和 30 年)に発行した「幣原喜重郎」や大東亜戦争調査会
 に関する論考によりますと、

   当該調査会は、「敗戦に関して犯した過ちを繰り返さないこと」を目的とし、
 「敗戦・戦争の原因と実相の徹底的な調査」のため、幣原喜重郎内閣が 1945 年(昭和
 20 年)11 月に設置されたものでございます。

  本調査会の設置経緯につきましては、戦争責任の調査と追及を求める世論を受け、
 敗戦原因の調査の必要性を指摘していた幣原内閣総理大臣が、「敗戦ノ原因及実相調査
 ノ件」として閣議決定し、設置され、
 総裁には幣原内閣総理大臣自らが就任されたものでございます。

  また、調査方針として、戦争の起こった原因を世界史的立場に立って究明すること、
 戦争経過の実情を明確にし、敗戦に導いた真因を追求すること、降伏後の日本がどのよ
 うな困難に直面し、処理したかを明らかにするなどして、
 戦争の顛末について正確な歴史的資料を後世に遺し、恒久的な平和日本を建設するため
 基本的な指標を導き出すものであることとされたところでございます。

  しかしながら、連合国最高司令官の諮問機関である対日理事会において、ソ連代表が
 戦争の原因調査や戦争扇動者の処罰という任務は極東国際軍事裁判所に属していること
 や、元軍人などが委員として調査に携わっていることを批判するとともに、委員会の解
 散を勧告したことなどにより、
  対日理事会での意見対立の長期化を懸念したGHQ の意向に応じ、日本政府は 1946 年
 (昭和 21 年)8月に調査会の廃止を内定し、9月に廃止されたものでございます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Q2:幣原喜重郎の業績の啓発継承を市が積極的に行なう事が、門真の市民や子ども達に
 誇りを生み、「門真市を愛する気持ち」をより育み、門真市の品格と魅力向上にも寄与
 するし、
 「立憲主義の民主主義国家の主権者」としての自覚の発揚にも寄与する、と私は確信し
 ており、自民党の園部市長もきっと同じ認識を持っていると思うが、どうか?

A2:郷土の偉人であり、門真市の誇りである元内閣総理大臣幣原喜重郎氏の業績を、
 子どもからお年寄りまで、広く市民に伝えることは、本市に対する誇りと愛着を持つこ
 とができる環境の醸成につながるものであり、
  かつ、大変重要なことであり、門真市の品格と魅力の向上にも寄与し、
 また、「立憲主義の民主主義国家の主権者」としての自覚の発揚にも寄与するものと考
 えております。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Q3:早期に、新たに認識された業績の紹介を中心とした講演会などの啓発企画が出来る
 よう、園部市長の気持ちを示してもらいたいがどうか?

  せめて年に1回は、幣原喜重郎に関連する市民向け行事、例えば「幣原喜重郎平和フ
 ェスタ」とか「幣原喜重郎平和憲法祭り」とか、「幣原喜重郎の業績展示講演会」など
 をやったり、
 「平和憲法制定首相のまち=門真市」を「門真市の魅力」として打ち出したりする事が
 良いと思うが、園部市長はどう考えるか?

A3:これまでにも、歴史資料館におきましては、2000 年(平成 12 年)に特別展を開催
 し、同年から常設展として郷土の偉人の生い立ちに焦点をあてた幣原家の足跡を伝えて
 まいりました。
  また、2013 年(平成 25 年)に発行した門真市暮らしの便利帳では、門真が誇る偉人
 としてその業績を紹介しており、講演会につきましては、2002 年(平成 14 年)に幣原
 家の方を招き講演会を開催しているところでございます。

  今後におきましては、郷土の偉人である幣原喜重郎氏を多くの市民にも知っていただ
 けるよう、業績を伝える新たな取組につきまして、検討してまいりたいと考えておりま
 す。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; GTB7.5; YTB730...@i60-35-69-37.s04.a027.ap.plala.or.jp>

▲9/16文教委質問を「議事録」で全文紹介する。(原稿には無い発言も結構あるよ)
←back ↑menu ↑top forward→
 戸田 E-MAILWEB  - 16/3/4(金) 15:56 -
  
 門真市議会議事録から、該当分を全文紹介する。
【9/16文教委所管事項質問の幣原喜重郎業績についての部分】
  (アドレスはコピー貼りしてもうまくいかないようなので省略する)

◆戸田 委員
 ・・・次に、2番目の幣原喜重郎の件ですね。
 項目的に言うと、「幣原喜重郎の新たにわかった業績の啓発継承などについて」とい
う質問に移ります。
  門真市の偉人、幣原喜重郎と言えば、降伏直後の総理大臣で、戦争放棄を強い情熱を
持って、平和憲法作成に当たった人として有名ですけれども、まずはその業績について、
従来一般的に知られていることを詳しく説明してください。

◎牧薗 生涯学習課長
  幣原喜重郎は、1872年、明治5年、門真一番下村において、大変教育熱心であっ
 た幣原家の次男として生まれ、門真小学校で学び、わんぱくな少年時代を過ごした後、
 当時、国の直轄であった大阪中学校で英語の基礎を身につけ、東京の帝国大学に入学し
 ました。

  卒業後、外務省に入り、外交官として、仁川、ロンドン、釜山、ワシントンなど世界
 各地へ赴任の後、51歳にして外務大臣に就任、幣原外交と言われる平和的な外交を展
 開しました。
  終戦後の1945年、昭和20年、73歳で第44代内閣総理大臣に親任、「大阪で
 生まれ育った唯一の総理大臣」として、日本国憲法改正草案要綱を発表するなど日本の
 民主化に尽力した人物です。
-------------------------------------------------------------
◆戸田 委員
  そうですね、大阪府で生まれ育った唯一の総理大臣なんです。
それがよりによってというか、門真市の出身なんです。すばらしい郷土の偉人と言わな
ければならないと思いますね。
 
さて、そういった門真市の市民や子どもたちには幣原喜重郎氏の業績や人となりとは
どのように伝えられてきたのか、いつからということも含めまして、
 学校の教科書や授業、課外活動において、あるいは歴史資料館において、石碑など、
 広報その他において、講演会などについて回答願います。
       ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◎牧薗 生涯学習課長
  学校教育におきましては、1975年、昭和50年に、小学校社会科の副読本「わた
 したちの町かどま」に業績を掲載し、3年生の市内めぐりにおいて、幣原兄弟顕彰碑を
 訪れています。
  歴史資料館におきましては、2000年、平成12年に特別展を開催し、同年から
 常設展として、郷土の偉人の生い立ちに焦点を当てた幣原家の足跡を伝えてまいりまし
 た。
  幣原兄弟顕彰碑につきましては、1966年、昭和41年に建立された後、市内外の
 人が訪れて来られました。

  広報につきましては、折に触れて取り上げておりますが、例えば2011年、平成
 23年に徳庵道の特集で掲載したほか、幣原喜重郎の生い立ちなどがわかりやすく伝え
 る映像を1996年、平成8年に制作し、歴史資料館で見ることができるようにしてい
 ます。
 
  また、2013年、平成25年に発行した門真市暮らしの便利帳では、「門真が誇る
 偉人」として、その業績を紹介しています。
  講演会につきましては、2002年、平成14年に幣原家の方を招き講演会を開催し
 ました。
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆戸田 委員
  どうもありがとうございます。
  ここで、ちょっと気がつきますのは、幣原喜重郎、これだけすごい抜きん出た人物で
 あるにもかかわらず、地元門真で紹介されていったというのは、戦後から20年から
 30年ぐらいたってからなんですね。
  地元の学校の副読本に載ったのは1975年からですから、戦後もう30年たってい
 ますね。
  そのほかいろいろな業績が市民にどんどん伝えられていくというのは大分時間がたっ
 ている。

  これはなぜかと思うに、一つは、例えば田中角栄さんが典型ですが、「地元で橋をつ
 くった」、「何をつくった」、「どさっと経済実利を与えた」、という人では全くな
 い。
  総理をやっている時間も短かったということもあっただろうし、その後の憲法のいろ
 んなそういうことがあったでしょうけども、東京で暮らしていたということもあったで
 しょう。
  御遺族の方がもう門真に住んでないということもあったでしょう。

  しかし、これほど抜きん出た人が、地元門真での啓発継承というのは、実はかなり出
 遅れていると。
  今も「ものすごい有名人」というのは、まだ残念ながらまだ言えない、という状況に
 私の感覚としてはありますけれども、これは今後もっと盛り立てていくべき人物だと思
 って、次の質問にいきます。

  さて、私のホームページの掲示板の8月20日の投稿で、実は幣原さんの功績はこれ
 だけじゃなくて、敗戦直後に日本人自身の手で戦争の原因と実相を調べるための調査委
 員会、すなわち「大東亜戦争調査会」というものを設置した人物であったと。

  この件については、これは朝日新聞に載っていたんですが、日本近現代史の歴史家と
 いう研究者の人が、「最近、印象的な資料に出会いました」と、こう書いているぐらい
 ですので、
  もしかしたら門真市立歴史資料館の幣原資料展示でも触れられていないかもしれませ
 ん。
  門真市の市長や教育長も議員も市民も知らないだろうと推測します、

 と書きましたけれども、市や歴史資料館の認識としては、実際はどうなったんでしょう
 か。
  私からの通報後、調べてもらいましたけども、調べた結果は現在どのようなことがわ
 かったのでしょうか、お答えください。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◎牧薗 生涯学習課長
  歴史資料館では、幣原喜重郎個人の実績のみならず、幣原家の歴史や地域の様子、
 家族とのかかわりなどについて多角的に展示しておりますが、当該調査会については認
 識しておりませんでした。

  調べた結果につきましては、少しご御説明が長くなりますが、幣原平和財団が195
 5年、昭和30年に発行した幣原喜重郎や調査会に関する論考によりますと、当該調査
 会は、敗戦に関して犯した過ちを繰り返さないことを目的とし、
  敗戦・戦争の原因と実相の徹底的な調査のため、幣原喜重郎内閣が1945年、昭和
 20年11月に設置しました。

  設置経緯につきましては、戦争責任の調査と追及を求める世論を受け、敗戦原因の調
 査の必要性を指摘していた幣原が、敗戦ノ原因及実相調査ノ件として、閣議決定し、設
 置され、
 総裁には幣原みずからが就任し、
 調査方針として、
  戦争の起こった原因を世界史的立場に立って究明すること。
  戦争経過の実情を明確にし、敗戦に導いた真因を追求すること。
  降伏後の日本がどのような困難に直面し、処理したかを明らかにするなどして、戦争
  のてんまつについて正確な歴史的資料を後世に残し、恒久的な平和日本を建設するた
  め、基本的な指標を導き出すものであること
 を策定しました。
 
  しかしながら、連合国最高司令官の諮問機関である対日理事会において、ソ連代表が
 戦争の原因調査や戦争扇動者の処罰という任務は極東国際軍事裁判所に属していること
 や、
  元軍人などが委員として調査に携わっていることを批判し、解散を勧告したことなど
 により、
  対日理事会での意見対立の長期化を懸念したGHQの意向に応じ、日本政府は、
 1946年、昭和21年8月に調査会の廃止を内定、6月に廃止されました。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆戸田 委員
  どうもありがとうございました。
  この戦争責任の問題については、私自身も含めて日本のリベラルと言われているほと
 んどの人たちも、「日本人みずから戦争責任を裁く」、「戦争を検証する」ということ
 ができないままに極東軍事東京裁判で裁かれてしまったので、
  それで戦争の追求、検証が極めて不十分なままに戦後が過ぎたんだという論調、考え
 なんですね。

  しかしながら、これを見ますと、当時の総理大臣みずからが「戦争の検証をしっかり
 やろう」ということを発案して、みずから陣頭指揮をとって調査会をつくったと、
 これはやっぱりすごく大きな事実だったと思いますね。

  もちろん保守政治家ですから、戦後の戦争責任なんていうのは考えもつかなかったで
 しょう。
  しかしながら、平和外交の旗手としてやっていた政権の中枢に一時おった人ですか
 ら、当時の戦争推進遂行の勢力、軍部や財閥、その意向を受けた政治家たちがいかにデ
 タラメなことをやって日本を過ちに導いたのかというのを、まさに切歯扼腕する思いで
 左遷されて冷や飯を食っていた。

  そして、自分がまさに危惧したとおり、とんでもない敗戦になって、日本はぼろぼろ
 になったという強い怒りも非常に持ったはずであります。
  戦前の日本というのは、戦後、「日本を取り戻そう」とかいう人らがワアワア言って
 いるみたいに、「打って一丸戦争に行った」とは実は言えない。

  政権中枢のビルのど真ん中で白昼堂々と日本刀で幹部を斬り崩す、永田鉄山斬殺事件
 とか、2・26事件とか、あるいはアヘンを商売して中国に行く……

○佐藤 委員長
  戸田委員、内容をできるだけ要約して。

◆戸田 委員
  はい。そういうふうないろんな、軍隊の中での派閥の争いとか、いろんなことがぐち
 ゃぐちゃになって、結果としては、全体としては極めて無責任な体制。
  今の東京オリンピック体制の何百倍、何千倍も無責任な責任をとらない体制で敗戦を
 迎えた。

  そのことに対する憤り、あるいは自分の力不足、自責の念等々も踏まえて、こういう
 ことを提起されたはずなんでありますね。
  こういうことの意義というのはとても大きくて、しかもそれを近代史の専門家の方で
 すら、本はちゃんとあるんですけども、それに焦点を当てるというか、照明を当てると
 いうことが極めてなかったということぐらいですから、市が知らなくてもある意味当然
 なんですけどね。

  今後ぜひこれ照明を当てて、みんなの共有財産にしていきたいと思いまして、次の質
 問に移りますが、

  4番目。
  幣原喜重郎と大東亜戦争調査会の一件について、門真市教委として、さらに調査を進
 めて、市民に展示・啓発説明できるようにしていくべきと思いますが、どうでしょう
 か。
  また、それを推進する体制とか推進のめどというのは、今のところどんなものなんで
 しょうか。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◎牧薗 生涯学習課長
  調査が十分に行われることなく廃止されたようであるため、新たに展示する資料とし
 てどのようなものがあるかはわかりませんが、常設展のパンフレットに記載している年
 表を充実させたいと考えております。

  歴史資料館の体制につきましては、正職員として、生涯学習課長補佐、公民館長、
 文化会館長を兼務する館長が1名、学芸員が1名、非常勤嘱託職員2名の体制でござい
 ます。
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆戸田 委員
  人員削減体制の折、課長補佐と公民館長と文化会館長が同じ人が兼ねていると。
  大変なことですね。
  学芸員は1人だけ、非常勤嘱託職員が2名ということですけども、なるべくならば、
 若干の嘱託経験者も雇い入れることを含めてぜひ頑張っていただきたいということを要
 望して次に移ります。

  5番目。
  とりあえず戦後70年である今年のうちに、幣原喜重郎と大東亜戦争調査会の一件を
 語られる研究者などに依頼して、門真市内で講演会を持つのがよいと考えるんですけど
 も、どうでしょうか。
  朝日新聞記事に載っていた日本の近現代史を研究する歴史家、加藤陽子さんなどに依
 頼するということについてはいかがお考えでしょうか。

◎牧薗 生涯学習課長
  郷土の偉人である幣原喜重郎の業績を市民の皆さんにわかりやすく伝えることによ
 り、幣原喜重郎が目指した永久不滅の平和について考えていただくとともに、市民が
 本市に対して誇りと愛着を持つことができる環境を醸成する取り組みを検討してまい
 ります。
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆戸田 委員
  どうも「今年中」とか、あるいは「今年度中」とかとも言いにくい、言えないという
 のは残念ですけれども、できるだけ早くやってほしいと要望します。

  さて、6番目。
  門真市やその周辺で幣原喜重郎氏の業績を調査研究している団体、個人はどのように
 なっているでしょうか。
  歴史資料館や民間のグループ、郷土史家、研究者などについてお答えください。

◎牧薗 生涯学習課長
  独自に調査研究している方はおられるかもしれませんが、門真市周辺で幣原喜重郎の
 業績の調査研究を行っている団体や個人については把握できておりません。
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆戸田 委員
  このお答えはちょっと意外だったんですね。
  これだけの偉人であれば、歴史ファンみたいな歴史マニアみたいな人が何人かいらっ
 しゃるのかなと思ったら、どうもそうじゃないという現状がわかりました。

  次、7番目。
  幣原喜重郎氏の業績の啓発継承を市が積極的に行うことが、門真の市民や子どもたち
 に誇りを生み、門真市を愛する気持ちをより育み、門真市の品格と魅力向上にも寄与す
 ると私は確信するんですけれども、
  教委としての認識はいかがでしょうか。

◎牧薗 生涯学習課長
  郷土の偉人である幣原喜重郎の業績を伝えることにより、市民が本市に対して誇りと
 愛着を持つことができる環境を醸成することは大変重要なことであると考えておりま
 す。
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆戸田 委員
  この項目、最後の質問として、8番目。
  今年は無理でも、せめて今年度内にでも新たに認識された業績の紹介を中心とした講
 演会などの啓発企画ができるよう、市長部局にも働きかけて予算が出るようにしてほし
 いと思いますが、どうでしょうか。

  今後はせめて年に1回は、幣原喜重郎氏に関連する市民向け行事をやるようにする
 と。
  例えば「幣原喜重郎平和フェスタ」とか、「幣原喜重郎平和憲法祭り」とか、「幣原
 喜重郎の業績展示講演会」などをやったり、
 「平和憲法制定首相のまち、門真市」を門真市の魅力として打ち出したりすることにつ
 いてはどのようにお考えでしょうか。

◎牧薗 生涯学習課長
  これまでにも先ほど御答弁したような内容を実施してまいりましたが、今後も引き続
 き市民大学等の場を活用するほか、郷土の偉人である幣原喜重郎の業績を伝える新たな
 取り組みにつきましても、関係部署へ働きかけたいと考えております。
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆戸田 委員
  了承します、ぜひよろしくお願いしたい。
  門真市の与党の議員の方、自民党であれ、公明党であれ、こういうことには反対され
 ない。
  「郷土の偉人」としての幣原喜重郎を盛り立てていこう、というお考えにおいて、
 私は共通するものと思っているんですね。
  まだじかに問い合わせしていませんけども。

  そういうことも含めて超党派的な取り組みが十分可能なことであるということを指摘
 して次の質問にいきます。
 
  次、保育園の問題で、公立保育園・幼稚園の耐震化工事の見通しについてでありま
 す。・・・・・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; GTB7.5; YTB730...@i60-35-69-37.s04.a027.ap.plala.or.jp>

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