「自由・論争」 掲示板

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私的所有について 徳永基二 08/7/2(水) 3:16

識字率と国家 徳永基二 08/7/6(日) 23:50
それからのことは ねこかぶり 08/7/7(月) 0:30
中世でも 「まつろわぬ民」は存在した YUKI 08/7/7(月) 1:03
Re:中世でも 「まつろわぬ民」は存在した 徳永基二 08/7/7(月) 2:31
つきはなすということ ねこかぶり 08/7/7(月) 1:35
Re:つきはなすということ 徳永基二 08/7/12(土) 11:39
否定できませんなぁ ねこかぶり 08/7/13(日) 0:46
戦後すぐの社会の方が 徳永基二 08/7/13(日) 23:09

識字率と国家
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/6(日) 23:50 -
  
左翼の間には知っての如くイバンイリッチの『脱学校』と言う本があります。

自分は社民党員ですけど、自分が社民党に入るきっかけとなったのは
保坂展人さんがまだ議員になる前に彼のところに出かけていってそこで
社会新報の記者と知り合ったことがきっかけです。

保坂さんは知っての如く「偏差値裁判」を起こした人で、彼のように
現代の学校教育のあり方に疑問をもつ人たちから「東京シューレ」の
ような教育機関がうまれました。

日本は明治維新に入る前も識字率が高い国で農民も寺小屋などに通って
文字を学んでいました。学校が生まれる以前は教会や寺などが文字を
教え古典文学を温存する機関となっていたというのは既に書きました。

田舎が遅れていて迷信深いというのは首都権力を機軸にものを考えた
時の話です。(こういうのがサバルタンスタディーズの考え方です。)

日本で学校制度が引かれた時に大勢の人間がそれに抵抗しましたが、それは
学校制度の裏に徴兵制への人材育成の意図を農民たちが読み取ったからです。

昔の学校には非行に走る若者はいなくて代わりに番長と呼ばれる不良がのさばって
いました。彼らはいわゆる地域社会に足場を置き、良い学校、良い会社という路線に
反逆するアウトノミアでした。

西洋ではガリレオ裁判のように教会が巨大な政治権力をもっていた
時代もあったので教会と科学は常に対立していたように見られがちです。

ですがイスラム世界や日本のような仏教世界では必ずしも両者は対立関係
というわけではありません。

欧米でもビックバン理論のガモフ博士、メンデルの法則のメンデルの如く
宗教関係者で科学者もいます。

宗教が科学的事実を歪めてはいけませんが、市場と技術の暴走に横槍を入れる
勢力が必要なのも事実です。(だからといって、人格神を信じず、人間の作った
近代法を宗教法人より上におく考えは変える気はないが)

学問の自由や学校の自治という考えは元々、学校が教会から派生した制度だから
生まれた考え方です。

封建制度は確かに身分制度でしたが出家はそこからドロップアウトする方法
だったことを思い出す必要もあります。(日本では江戸時代以後、檀家制度
に組み込まれて、宗教勢力は出家者の自治組織でなくなっていった。そもそも
家族ぐるみで入信したり、先祖供養を説いたり、死後の成仏を説くなどどれも
本来のゴ−ダマシッタルダの思想とはかけ離れている。)

後、これも既に書いたことですが、百年ほど前(明治時代だ。)の日本には
書生といわれる若者が数多く居て、これらの若者を受け入れられるほどの大
家族をもった先生方というものが普通に存在しました。

もっと昔になると宮本武蔵のように土蔵に篭ったり、山に篭ってて晴耕雨読
に明け暮れる老大家が大勢居ました。(今で言うとオタクだろう。)例えば
アイザックニュートンもそういう人です。後、発明家のエジソンはいわゆる
落ちこぼれでまともに学校に通ってなかったことも思い出すべきですね。

ということで何が言いたいのかと言うと、政教分離を説くなら学校も政治から
分離してなければ話にならないということです。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9) Gecko/2008052906 Firefox/...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

それからのことは
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 ねこかぶり  - 08/7/7(月) 0:30 -
  
▼徳永基二さん:
>左翼の間には知っての如くイバンイリッチの『脱学校』と言う本があります。

私は左翼ではないですが、親戚の中には元社会党国会議員が居ます。
#ま、私の身元はその筋にはばればれでしょうから
私はその本を知らないが言いたいことは大体解ります。
で、いま酔っ払って明日動かなきゃいけないので‥

>自分は社民党員ですけど、自分が社民党に入るきっかけとなったのは
>保坂展人さんがまだ議員になる前に彼のところに出かけていってそこで
>社会新報の記者と知り合ったことがきっかけです。

なるほど‥
彼はいい議員です。
今でも
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/
で興味深いメッセージを発信してます。

ま、酔っ払いの戯言ということで本格的な返事は明日ということで‥

#ある意味、資本主義者と社会主義者で価値を共有しなければいけない時代なのかもね。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)@58x4x92x253.ap58.ftth.ucom.ne.jp>

中世でも 「まつろわぬ民」は存在した
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 YUKI WEB  - 08/7/7(月) 1:03 -
  
網野善彦によれば、中世でもドロップアウトした人びと〜「まつろわぬ民」〜が存在していた様です。
身分制度が固定化されたのは封建制度が出来た後のことで、それ以前は以外とアナーキーだったということが分かっています。

詳しくは、『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』(平凡社ライブラリー/1996/網野善彦)が分かりやすいです。
http://www.excite.co.jp/book/product/ASIN_458276150X/
引用なし
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X Mach-O; ja-JP-mac; rv:1.8.1.15) Gecko/...@118x240x206x101.ap118.gyao.ne.jp>

つきはなすということ
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 ねこかぶり  - 08/7/7(月) 1:35 -
  
あえて漢字で書かなかったのですが、民主主義的教育で最後に必用なのは「つきはなす」と
いう行為じゃないですかねぇ(同意を求める)
知識を学習するレベル(高校教育レベル)まで進んだらあとは自分で判断できる能力を
持ち合わせなきゃいけないと思うのですよね。少なくとも1つの外国語(主に英語)を
最低限解釈する能力持ち合わせているなら自分に必要な知識は自分で得ることが出来る。
そこまでが義務教育の終了じゃないかな?
その後は本人次第
でも公教育としての博士課程までの最低限(寮とか奨学金の借金があるにしても)の無料化
ま、生活保護(社会権)とそこらへんがここ10年で切り捨てられてきた気がするのですよね。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)@58x4x92x253.ap58.ftth.ucom.ne.jp>

Re:中世でも 「まつろわぬ民」は存在した
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/7(月) 2:31 -
  
中沢新一の「僕の叔父さん 網野善彦」はなかなか面白くて読ませる本でした。
1968年1月のエンタープライズ寄航阻止に立ち上がった三派全学連が投石しているの
を見て、新一氏の父が「あそこで機動隊に向かって石を投げていたのは単に政治かぶれの学生なんかじゃなく、もっと大きな意思に突き動かされているものでないかのか。その意思とはマルクスとかレーニンとか毛沢東思想なんかよりもっと根源的な人類の原初から立ち上がってくるものでないのか」と言ったのを聞いて

『蒙古襲来』の冒頭部分で飛礫の話をしてるとか(そういえば『カムイ伝』にもツブテというキャラがいたっけ)

それで更に面白いのは網野善彦がアジールの思想を形成する過程で、新一の父の弟、護人氏(当時、中国派で農本主義者)と新一の父(ソ連派)の大論争があったとか。

護人氏は農村に理想的な共同体を見出し、科学技術はそういった社会と結びついた時に理想的な社会形態ができると訴えたのに対して父は若い頃、航空機設計の技術者であったことも手伝って、科学技術の問題解決能力の柔軟性を信じ、科学を強力な道徳に従わせれば返って社会の停滞を招く。それに農村とは歴史的な産物で農村が形成される以前にあった社会にこそ次の時代が学ばなければいけない理想があるはずでないか?と反論。

この論争中から網野善彦は非農民の系譜に関する思考を構想したとか。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9) Gecko/2008052906 Firefox/...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

Re:つきはなすということ
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/12(土) 11:39 -
  
教育の目的が自己判断のできる人間を育てることそれはその通りなのですけど。

自己判断→リスクマネージメント→自己責任論と
このところの「新自由主義の蔓延」の前で本来、社会システムの構造的欠陥
(直裁にいうと人間使い捨て社会)の結果もたらされる事柄を
全て個人の問題に転科しようという社会的もの言いが増えている。


後、日本にはいわゆるオーバードクターが1万人以上居る。博士課程まで
取ったが仕事がないという人がザラ。かつての全共闘で問われた問いが
まるで生きていない。そもそも大学まで出てものを考えられる人になると
いうことと企業社会、日本株式会社の中で即戦力の人材になるということ
の間がどうにも埋まらない。

日本のように外圧の目を意識しつつ上からの近代化を行い、富国強兵
を目指して企業社会を構築してきた。そのための人材育成機関として
学校があるという社会システムのありようと、分権化した中世の社会の
狭間を縫って台頭したブルジョワ対話的公共圏の自己と社会のありよう
を問う啓蒙主義、その啓蒙主義に基づいた市民革命と市民社会
の成熟を担う目的で生まれてきた社会科学の思想との間のギャップ。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9) Gecko/2008052906 Firefox/...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

否定できませんなぁ
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 ねこかぶり  - 08/7/13(日) 0:46 -
  
オーバードクターの状況を見ると否定出来ませんなぁ‥
それだけ日本経済界の器量の狭さをみせつけているような‥

▼徳永基二さん:
>教育の目的が自己判断のできる人間を育てることそれはその通りなのですけど。

それを目指すべきなんですけどね。
でも、ご指摘の通りオーバードクターの行く末を見ているとね。未来は暗いと

>自己判断→リスクマネージメント→自己責任論と
>このところの「新自由主義の蔓延」の前で本来、社会システムの構造的欠陥
>(直裁にいうと人間使い捨て社会)の結果もたらされる事柄を
>全て個人の問題に転科しようという社会的もの言いが増えている。

そこが問題なんですよね。
社会としてコストをかけた人材を使わないで捨ててしまうのはもったいないと
私はケイジニアンですのでそういう人材にも適材適所をと思うのですが‥

>後、日本にはいわゆるオーバードクターが1万人以上居る。博士課程まで
>取ったが仕事がないという人がザラ。かつての全共闘で問われた問いが
>まるで生きていない。そもそも大学まで出てものを考えられる人になると
>いうことと企業社会、日本株式会社の中で即戦力の人材になるということ
>の間がどうにも埋まらない。

そうなんですよね。
将来的には有望でも、即戦力にはならないと

>日本のように外圧の目を意識しつつ上からの近代化を行い、富国強兵
>を目指して企業社会を構築してきた。そのための人材育成機関として
>学校があるという社会システムのありようと、分権化した中世の社会の
>狭間を縫って台頭したブルジョワ対話的公共圏の自己と社会のありよう
>を問う啓蒙主義、その啓蒙主義に基づいた市民革命と市民社会
>の成熟を担う目的で生まれてきた社会科学の思想との間のギャップ。

うーん、そこらへん、1945で途切れてしますのですよね。
変わらないのは官僚主義の世の中‥
社会システム均衡を保つには難しいのですよねぇ
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)@58x4x92x253.ap58.ftth.ucom.ne.jp>

戦後すぐの社会の方が
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/13(日) 23:09 -
  
>うーん、そこらへん、1945で途切れてしますのですよね。
>変わらないのは官僚主義の世の中‥
>社会システム均衡を保つには難しいのですよねぇ

戦後すぐの社会は可能性に満ちた社会でした。新しくできた民主主義
社会の下、多くの可能性が芽吹いていましたし。

そういう意味では赤木智弘の「丸山真男をひっぱたきたい」で言ってる
ことはよくわかる。ただし、そこで評価するのは国家総動員体制で社会階層
を越えて労働力が動員された(国家社会主義の見かけ上の平等性)ではなく
丸山が唱えた「8月革命説」におけるそれでなんだけれども。

心の声---
{社会的上層部を吹っ飛ばすためには戦争や革命でないとダメなのだろうか??}

今から考えると明治維新直後の政府も8月革命の次に優れていたと思う。
確かに徳川について行った旧幕臣の多くは食えずに路頭に彷徨ったのだが
その一方で優秀な人材ならたとえこの間まで敵方の武将であろうが政府高官
として迎え入れたのだから。(榎本孝明とか勝海舟とか)西南戦争のおり
なんかなんと旧会津藩士を反乱鎮圧のための官軍として使ったりした。

だからといって維新政府の見かけ上の能力主義を高く買うことはしないが。
(所詮、西洋列強に対して中央集権・富国強兵に役立つ人材だけを登用した
だけで真に個人の能力の前面開花を民主主義の名の下で目指したものではない。)

心の声---
{やはり日本国内だけでは真の民主主義は実現不可能なのだろうか??}

維新政府を高く買うと司馬遼太郎史観に陥る。また、維新政府のイデオロギー
の欺瞞性を見据えていないと中島岳志のような神風連の評価(「右翼とは天皇
を絶対者とすれば全ての人間が一般化されて平等になる思想だ」)となる。

私は誰か一なるカリスマの前での平等など認めないし(天皇の変わりに毛沢東
やレーニンでも認めない)、国家による労働力の動員や学校制度、ケインズ的な
投資政策による産業育成、囲われた機密情報や特許・著作権、中央集権的な
銀行団を中心とした産業団制度、これらをみな私人の権利を法人の権利に
屈服させる民主主義上の敵対勢力だと思う。

心の声---
{しかし、上記の民主主義には革命が必要だという話とどう辻褄を合わせるのか}

基礎所得は本来、均等に無償提供されてしかるべきだし、そこになんらかの
形での有益性ないしは収益率のついての判断を差し挟んではならない。なぜなら
個人の活動が社会にどのような意味を持つのか直裁には判断できないからだ。

例えば私は17世紀のブルジョワ対話的公共圏を高く評価したけどよく考えれば
当時の文脈で考えればヒマ人が茶店で駄弁っていただけのどうでもよい無駄な
活動だ。それに何か重要な意味を与えているのはただ現在の文脈においてだ。

勿論、個人の活動には明らかに犯罪的な行為もあるだろう。だから時に法によって
規制を受けるだろう。だが法は最小限のものであり、個人の活動は原則自由で
あってしかるべきだ。それに個人が破壊的な衝動に取り付かれるのは社会の側に
個人を阻害するような何がしかの欠陥があるからだと自分は思う。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9) Gecko/2008052906 Firefox/...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

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