「自由・論争」 掲示板

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私的所有/中間共同体/対話的公共圏 YUKI 08/7/14(月) 1:12
左翼的運動の課題〜「革命21」についての苦言も含む YUKI 08/7/14(月) 1:51
温故知新:集団の持つ権力性について YUKI 08/7/15(火) 1:15
まあ、折角のレスですので。 徳永基二 08/7/14(月) 4:17
コミュニケーションの手段と ねこかぶり 08/7/15(火) 0:18
非常に蛇足的な話なんですけど 徳永基二 08/7/15(火) 1:07
蛇足ついでになぜデリダに拘るのか 徳永基二 08/7/16(水) 1:42
Re:蛇足ついでになぜデリダに拘るのか ねこかぶり 08/7/16(水) 16:40
哲学は必要/ポストモダンと新自由主義の親和性について YUKI 08/7/18(金) 0:14
ジュディス・バトラー, ガヤトリ・スピヴァクの「国家を歌うのは誰か?」について 徳永基二 08/7/19(土) 4:42
Re:哲学は必要/ポストモダンと新自由主義の親和性について 徳永基二 08/7/19(土) 12:51
Re:哲学は必要/ポストモダンと新自由主義の親和性について ねこかぶり 08/7/19(土) 23:11
68年について 徳永基二 08/7/20(日) 3:20
68年について ねこかぶり 08/7/21(月) 19:14
「ポストモダニズムなどは最初からどこにも存在しない」について YUKI 08/7/20(日) 7:36
Re:「ポストモダニズム」について 徳永基二 08/7/20(日) 14:02
再びデリダについて 徳永基二 08/7/20(日) 14:55
セクシュアルマイノリティの運動を概観してみる YUKI 08/7/21(月) 4:28
部族化する政治と個人のサブシステム化について 徳永基二 08/7/21(月) 11:59
経済的に弱者でりかつ粒子化した人にとっての社会運動について 徳永基二 08/7/21(月) 12:55
基礎所得-タイムダラーの挑戦 徳永基二 08/7/21(月) 15:36
またまた難しい話をする人ですね。 ねこかぶり 08/7/21(月) 18:10
補足説明 YUKI 08/7/21(月) 17:25
クイア理論とフェミニズム運動について 徳永基二 08/7/22(火) 1:34
ありがとうございます。(そんなに遠くない) YUKI 08/7/22(火) 4:14
「補足説明(YUKIさん)」への質問(本人から) ひびの まこと 08/7/22(火) 23:29
この人を知ってます? YUKI 08/7/22(火) 23:45
あんまり過剰に防衛反応したりする必要はないです ひびの まこと 08/7/28(月) 0:58
私は人との対等な話し合いを重視しています YUKI 08/7/28(月) 4:57
お気楽にやってます ねこかぶり 08/7/28(月) 17:51
自分も若干、補足です 徳永基二 08/7/22(火) 0:09

私的所有/中間共同体/対話的公共圏
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 YUKI WEB  - 08/7/14(月) 1:12 -
  
「1画面以上に及ぶ長大なスレッド」は禁止していた様に記憶しているし、見にくいので、仕切り直したいです。

まず、手始めとして、徳永基二さんの書き込みのうち、私が重要と思ったものを抽出し、コメントします。

---------
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4247;id=01
人々が政治的発言をしたり、デモをしたり、ビラを撒いたり、公開討論や行政に関する情報の公表を求めたり、行政訴訟を起こしたりする権利はそれ自体が財産であり市民であることの証であるということです。

人が人としての権利を持つこと、自由であること、主体的な存在であることとは政治的発言権とイコールなんです。
---------
私の原点になっているのは以上であり、私は「生きることそのものが政治的なこと」と言っています。
http://www.n-yuki.net/index.php?itemid=58&catid=6&catid=6

この言葉はもともとフェミニズムで言われた「個人的なことは政治的である」を拡張した造語です。
しかし、最近良く思うのは、私の感覚は「サバイバー(困難に直面し、生き抜いてきた人)」にしか分かりにくいかも知れません。

また、ここから、最近よく言っている「その人の社会的地位が低いほど政治的発言力も弱い」も導き出せます。

--------
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4247;id=01
政治的発言権=投票権=政治意見を集約することという図式が出来上がっています
(略)
ただ議会があるだけでは民主主義とはいえない。人々がカフェのような場所に集まって政治的意見をぶつけ合えるような環境があるところで、その世俗の意見を法という形に変換するための機関として議会はなければならない。

あくまで世俗の議論がメィンで議会はサブでなければならない。でないと民主主義とはいえない。当然、全員の意見を集約などできなから、社会は多様な行政体が複合的に連携した分権型の社会にならざるえない。勿論その社会には意見の対立もあるのですけど、武力衝突でなく対話を続けている限りその対話の様式それ自体が一つのシステムとなり秩序を形成するようになる。
--------

私はかつて、「市民派議員こそが、市民が政治参加するための窓口にならなければならない。そのためには、議員が率先して、市民と政治について語る場を作り、市民との対話を行わなければならない。」と言ったし、「何でも議員が一人で決める独断専行型ではいけない
。」とも言っています。
これは、後に出てくる「対話的公共圏」と一致しています。
しかし、私の欠点は、「対話的公共圏」を「圧力団体ー選挙ー議会」の枠内で考えていた点です。

-------
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4249;id=01
例えば、デリダ的な視点で対話的公共圏を読み解いたとするとどうでしょうか。すると近代国家が前提としている国家、国民、自治体といった狭い枠組みの範囲を越えるものとして世界市民的な地平が浮かび上がってきます。ヨーロッパの手で生まれた自由、平等、博愛といった理念が民族の枠組みを越え、ヨーロッパ人でないからこそ別な解釈の可能性が生まれ、時にヨーロッパに再帰的に対置される。そしてそれを通じて議論に弁証法的な深みが加わり民主主義はより発展した次の段階へと進展してゆく。そういう地平が見えてくるわけです。
-------

ただし、私は現実的に言えば難しいのではないか?、現に存在する枠、例えば代議制民主主義や大マスメディア中心世界などに乗せざるを得ないのではないか?と思います。

それと、以下は私が意図的に避けていた論点です。

-------
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4247;id=01
こういう社会を作るためには人々にゆとりがなければならない。つまり基礎所得(ベーシックインカム)を必要とするようになる。(アレント的にいうと「私的富が公的生活に加わる条件となった。」)
-------

私にとって、今の政治思想を形作る起点の一つは80年代の障害者運動です。
ただ、この運動をひねくれた視点から見たら、当時の障害者の多くは食べるのに困らないから、次の欲求として社会参加(参画)が現れたと見ることも可能です。

ただ、私も上記の問題は薄々感づいていて、リベラルや「みどり」派の政治家をイマイチ支持できなかったのは、まさに以下の理由です。
と言いながらも以下を書いたのは、現実の社会の中で「何とか希望的観測」を見いだそうとしたからです。
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4289;id=01

--------
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4247;id=01
基礎所得がない社会で左派的主張を行うと、市民活動とは一部生活にゆとりのある層の活動にすぎなくなり、ニートやフリーターは排除される。
ワークシェアリングとは賃金引下げと労働条件の悪化を意味し、セーフティネットとは即戦力の人材育成を、国家から自立的な社会とは私企業の自由を、個人の主体性、自立とは金儲けの自由を意味するようになる。
--------

これを図示したのが以下です。
http://www.n-yuki.net/index.php?itemid=65&catid=8&catid=8

ここで、問題となるのは、今まで労働運動や貧富の差を主題に取り組んできた活動家は、人びとの多様性に関して「後回し」にしがちでした。

これは、後になって、左翼が若者に嫌われた要因の一つになっています。
その上、ジェンダー不平等の延長線上に若者の貧困がある(私の表現では「今まで女性の働き方だった非正規雇用が一般化した」)という点でひずみが出ています。
http://www.n-yuki.net/index.php?itemid=90&catid=7&catid=7
引用なし
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X Mach-O; ja-JP-mac; rv:1.8.1.15) Gecko/...@118x240x206x101.ap118.gyao.ne.jp>

左翼的運動の課題〜「革命21」についての苦言も含む
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 YUKI WEB  - 08/7/14(月) 1:51 -
  
私が思うに、現在、日本で従来の左翼に問われているのは「多様性」概念をどう身につけて行くかです。

これは、『サパティスタ民族解放軍』というメキシコの運動が1999年の段階で以下の発言を行っているのを見れば、「非常に遅れている」と言わざるを得ません。
http://clinamen.ff.tku.ac.jp/EZLN/Marcos_06_99.html

しかし、今、若者のラジカルな運動ー「インディーズ系労組」や『素人の乱』などーが表面化し、これらの運動の中で「多様な生き方」と「貧困(生きさせろ)」が言われる様になって、やっと機運が出てきたと言えるでしょう。

これは、旧左翼性力の中からも『革命21』が誕生し、その中で「多様性」や「リゾーム状」が言われていることにも象徴されます。

しかし、その前に「待った」と言いたいです。

『革命21』について、まず『革命21』と名付けた感性が「古い」との声が挙っています。
「○○21」というのは、企業名や商品名で陳腐化しています。
そして、現実の日本社会で「革命」が単にかけ声だけだ、これでは○○派が盛んに「革命」と言っているのと変わらないとの意見もあります。

次に、機関紙の表現が時代がかっている点があります。
これで多くの人びと、特に若者に対して「理解してくれ」というのは無理があります。
多分、ワンクッション、翻訳が必要だと思います。

それと、よねざわいずみさんが指摘している、多様性と言いながらもセクシュアルマイノリティを除外しているなど、本当に「多様性」を身につけられるのかという点があります。

以上を解消するには、『革命21』参加者たちが、「自分たちの仲間内の世界」だけで固まっているのではなく、若者のラジカルな運動、特に『素人の乱』と交流を深めれば身につけられると思います。
私は、関生支部に関して、デモで『ソウルフラワー・モノノケ・サミット』の音楽を使ったり、水面下で若者の運動に協力していることを知っています。
ただ、それでも言いたいのは、時代感覚と新しい感性を身に付けるにはもっと気持ちを開く必要があるだろうという点です。

最後に蛇足ながら、『革命21』のWebサイトと『素人の乱』のWebサイトを示します。
http://com21.jp/
http://www.shirouto.org/
引用なし
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X Mach-O; ja-JP-mac; rv:1.8.1.15) Gecko/...@118x240x206x101.ap118.gyao.ne.jp>

まあ、折角のレスですので。
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/14(月) 4:17 -
  
掲示板に書かれた文章は大勢に開かれた文章ですので
ある特定の個人に対して書かれたものではないでしょうけど
(そういう意味ではデリダ的に未知の読み手に開かれた〔読解によって意味が確定するとするなら〕未完の文章といえる。)

でもまあ、折角私の文章に触発されたと名指してくれたのでこちらも
勝手にレスを試みてみたいと思います。

>ただし、私は現実的に言えば難しいのではないか?、現に存在する枠、例えば代議制
>民主主義や大マスメディア中心世界などに乗せざるを得ないのではないか?と思いま
>す。

>それと、以下は私が意図的に避けていた論点です。

ネットが登場することでかなり様相が変化してきましたが
世界ではデジタルデバイドが常態化しています。民主主義が最初に生まれた頃の
ようにミニコミ誌などと連携したネットワークが必要です。それにいつでもそう
ですが社会のオルターナティブについて語り合ってる人たちと実際に苦境に立っ
ている人たちが必ずしも一致しない(敢えて知識人VS大衆とは語らないが)
それに、オルターナテイブの提案は現在の社会的主流となっている人たちから
受け入れられないという問題です。(つまり革命の問題です。)

ただ、チャンスがないわけではない。新自由主義の進展と共に社会的包摂から
振り落とされる人が日増しに増えてますから、実は今の社会からうまみを
得ている層こそマイナーであると意識されればひっくり返るかもしれない。


>私が思うに、現在、日本で従来の左翼に問われているのは「多様性」概念をどう身
>につけて行くかです

この問題についていくつかの自分の発言がこれまでいくつかありました。

マルチチュードと経済の問題、それと表現の自由
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4345;id=01
自己レス 80年代という時代について。
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4329;id=01
Re:「革命21」のプログラム素案についての論評
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4338;id=01

かなり複雑ですか。
60年代以降、左翼の間で多様性(マルチチュード)に対する意識が深まったのは
確か。でもその一方でリチャード・ローティの批判のように多様性は意識するけど
古典的な経済的諸問題への意識が一時期薄れたという面も見逃せない。

その狭間を縫って新自由主義が蔓延ってしまった。アメリカのリベラルは今でも
多様性は意識しても階級間格差の問題が等閑にされていると先のルモンドディプロ
は伝えている。

だからといって階級間格差を問題を解決すれば多様性の問題が解決するわけでもない。現代の社会運動は、多様性の問題を一端通過した後に、再び経済の問題を問う
地点に回帰している。(シアトルでの反乱以後の流れは特にそう。だからこれらの
運動に集う人々にこれまでのプロレタリアートでなくマルチチュードという命名が
ネグリよりなされた。)

後、社会主義の理論家としてでなく一オタク発言者としての発言も目立つ。ここでは
フェミニズムに対して複雑な距離があることが示されている。80年代を経過して人間なので上野千鶴子流のフェミニズムの洗礼を受けていることが文章の端々に出ている。だが同時にディープフェミニストやディープエコロジストに対してかなり批判的
なのも確か。ここでは自分の領域を守ろうとする発言も目立つ。

これまで書かなかったことも含めて図示するとこうなる。

資本主義の個人への一定の開放性は認める。だがこれは矛盾とはいえない。自分は
マルキストでなくプルードンゲセル派だから。

上野千鶴子の唱える「女並の労働」は認めるが今の社会でこれを唱えると賃金切り下げ、不正規労働の拡大と同じになる。このことに上野ほど聡い人間が気が付かないのは上野がマルキストで経済に疎いから。

子育てと仕事の両立が可能と思っていることは「自己レス 80年代という時代について。」で書いたとおり。それに自分は恋愛資本主義に批判的。

自分は表現狩り(「児童ポルノ規制法」とか「青少年ネット規制法案」)を批判する
MIAU(http://miau.jp/)と同じ政治的立場に立っている。ただしだからといって児童ポルノを放置せよとは言っていない。ただ二次元に対する規制には反対と言ってる
だけだ。現代のTVアニメにおける二次元の萌え表現は些か度が越えているが、それは
表現規制より(萌え市場やジャパニメーションを煽った連中に対する)産業構造の転換で変化すると思う。要はこの分野でも上記の恋愛資本主義批判がそのまま当てはまる。

因みにミクロなレベルでの権力作用についてより上位の権力に頼って開放すべき
だと思っていない。基本的には法による規制でなく社会的啓蒙活動によるべきもの
だと思う。(これはJSミルの意見)それと社会の多様化による選択の多様性、それを
可能にするだけの経済的基盤と社会的駆け込み寺の用意これらさえあれば解決の付く
問題も多い。

因みに物語の解釈の多義性は認とめているが倫理の多様性も歴史の多様性も認めていない。その辺の問題が
人は罪科を背負うからこそまともな社会を創れる
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4212;id=01

戦後すぐの社会の方が
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4356;id=01

プルードンと国家について
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4219;id=01

識字率と国家
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4300;id=01
あたりに関わってきます。


つまり、先見的な倫理はないけれど、人は過去の失敗から学ぶし、悪い社会を選ばない。よって多様性を放置しても人は正しい結論を選ぶという判断なんです。

因みに私はナラティブな歴史は事実の上にしか築かれないという意見の持ち主です。

(上記の結論と合わせると何が事実かは言い当て可能だし、それが倫理的正しいか
間違いかは普遍性の立場に立てば判断可能だとなる。)
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9) Gecko/2008052906 Firefox/...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

コミュニケーションの手段と
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 ねこかぶり  - 08/7/15(火) 0:18 -
  
▼徳永基二さん:
>ネットが登場することでかなり様相が変化してきましたが
>世界ではデジタルデバイドが常態化しています。民主主義が最初に生まれた頃の
>ようにミニコミ誌などと連携したネットワークが必要です。それにいつでもそう
>ですが社会のオルターナティブについて語り合ってる人たちと実際に苦境に立っ
>ている人たちが必ずしも一致しない(敢えて知識人VS大衆とは語らないが)
>それに、オルターナテイブの提案は現在の社会的主流となっている人たちから
>受け入れられないという問題です。(つまり革命の問題です。)

うーん、オールタナティブに話せる人間とは話さねばならない。
ただ、ほとんどの人間があきらめているのですよね。
それを現在教育の悪と見るかは知見に分かれます。
インターネットという空間があるのだから積極的にオールタナティブに話すべき
なんですけどね。

>ただ、チャンスがないわけではない。新自由主義の進展と共に社会的包摂から
>振り落とされる人が日増しに増えてますから、実は今の社会からうまみを
>得ている層こそマイナーであると意識されればひっくり返るかもしれない。

私は新自由主義こそ悪を感じます。
人々が社会権を持って人間らしく生きる世の中が望ましいです。
コストは多少かかるでしょうけど

>>私が思うに、現在、日本で従来の左翼に問われているのは「多様性」概念をどう身
>>につけて行くかです
>この問題についていくつかの自分の発言がこれまでいくつかありました。

左翼といわず新自由主義を快く思わないケインズ主義者からもそう思えます。
私も新自由主義に対する疑問はいくつも投げかけたつもりです。

>かなり複雑ですか。
>60年代以降、左翼の間で多様性(マルチチュード)に対する意識が深まったのは
>確か。でもその一方でリチャード・ローティの批判のように多様性は意識するけど
>古典的な経済的諸問題への意識が一時期薄れたという面も見逃せない。

私はすべて同じ条件でというのは反対です。
ハンディキャップを持った人なりの表現の仕方があると思うからです。

>その狭間を縫って新自由主義が蔓延ってしまった。アメリカのリベラルは今でも
>多様性は意識しても階級間格差の問題が等閑にされていると先のルモンドディプロ
>は伝えている。
>
>だからといって階級間格差を問題を解決すれば多様性の問題が解決するわけでもない。現代の社会運動は、多様性の問題を一端通過した後に、再び経済の問題を問う
>地点に回帰している。(シアトルでの反乱以後の流れは特にそう。だからこれらの
>運動に集う人々にこれまでのプロレタリアートでなくマルチチュードという命名が
>ネグリよりなされた。)

私は社会主義者じゃないですけど、社会権の存在は認めます。

>後、社会主義の理論家としてでなく一オタク発言者としての発言も目立つ。ここでは
>フェミニズムに対して複雑な距離があることが示されている。80年代を経過して人間なので上野千鶴子流のフェミニズムの洗礼を受けていることが文章の端々に出ている。だが同時にディープフェミニストやディープエコロジストに対してかなり批判的
>なのも確か。ここでは自分の領域を守ろうとする発言も目立つ。

うーん、フェミニズムね‥難しいけど着実に進歩しているんじゃない?
少なくとも先進国では

>これまで書かなかったことも含めて図示するとこうなる。
>
>資本主義の個人への一定の開放性は認める。だがこれは矛盾とはいえない。自分は
>マルキストでなくプルードンゲセル派だから。
>
>上野千鶴子の唱える「女並の労働」は認めるが今の社会でこれを唱えると賃金切り下げ、不正規労働の拡大と同じになる。このことに上野ほど聡い人間が気が付かないのは上野がマルキストで経済に疎いから。
>
>子育てと仕事の両立が可能と思っていることは「自己レス 80年代という時代について。」で書いたとおり。それに自分は恋愛資本主義に批判的。
>
>自分は表現狩り(「児童ポルノ規制法」とか「青少年ネット規制法案」)を批判する
>MIAU(http://miau.jp/)と同じ政治的立場に立っている。ただしだからといって児童ポルノを放置せよとは言っていない。ただ二次元に対する規制には反対と言ってる
>だけだ。現代のTVアニメにおける二次元の萌え表現は些か度が越えているが、それは
>表現規制より(萌え市場やジャパニメーションを煽った連中に対する)産業構造の転換で変化すると思う。要はこの分野でも上記の恋愛資本主義批判がそのまま当てはまる。

同じくです。
二次元に対しては規制すべきじゃないです。
実際の被害者が居ない以上規制するのは間違いです。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)@58x4x92x253.ap58.ftth.ucom.ne.jp>

非常に蛇足的な話なんですけど
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/15(火) 1:07 -
  
社会運動系のこういう場所で哲学的な語りをしていいのかそれは
運動系の人に対して愚弄する行為でないかと不安もあるのですけど、

映画「マトリックス」に関するスレがあるぐらいですので、
それと同じ感覚で書いてみようと思います。みなさん気楽に聞いてくださいませ。

上記スレに書いた
「物語の解釈の多義性は認とめているが倫理の多様性も歴史の多様性も認めていない。」「ナラティブな歴史は事実の上にしか築かれない」

「先見的な倫理はないけれど、人は過去の失敗から学ぶし、悪い社会を選ばない。よって多様性を放置しても人は正しい結論を選ぶ」
は何を根拠に言い出している確信なのかという話です。

実存主義の世界では良く知られているように「ハイデッカーのナチズム加担問題」
というのがあります。この問題を弟子筋に当たる哲学者たち(サルトルやデリダ)
はどう見ているのか?というのが今回の話の根底にある事柄です。

単純にまとめると次のような風になります。

ハイデッカーは死すべき存在の不条理を自覚することで、真の存在のありように気づくと考えた。(この真の存在がハイデッカーにとって「アーリア民族の栄光」や「ナチスの栄光」だったのだろう)

サルトルは存在の不条理は能動的な自己規定で存在を無化することで乗り越えられる
と考えた。(サルトルの場合、自己の選択は脅迫的に選ばなければならないという形で現れた。また他者は眼差しを介して自己を相対化する故に常に敵対的な関係だった。)


デリダの場合、自己決定とは既に過去に誰かが行ったことに対するパロディ、オマージュである。自己の行動は単独で完結することなく常に読み手を介して読まれることで意味を持つようになる。だが行動の影響圏はコミュニケーションネットワークと
同じぐらいの広がりをもって広がっているので、その読み手は無数の未だ来たらざる
未知な他者に開かれているものと見做される。つまり行動の意味は常に未完であり
意味内容とは暫定的なものにすぎない。

サルトルはハイデッカー的存在を無化するが同時に歴史に対してアンガージュせよという脅迫に囚われている。デリダの場合、そういう脅迫はないが、行為の意味内容が
拡散しすぎて否決定、相対主義の迷路にはまり込みそうな気がする。

だが私は90年代のデリダに関してこれと別個な読みが出来るのではないかと考えている。すなわち「正義は脱構築できない。脱構築が正義なのだ」とはどういう意味か


上野千鶴子VS高橋哲哉という有名な論争がある

元朝鮮人慰安婦の人たちからの日本国家に対する損害賠償請求を生じた時、日本では自由主義史観を名乗る人々からあれは単なる商行為であって、国家は関与していなかったと言う反論が生じた。その時、上野と高橋両氏はどちらも元朝鮮人慰安婦の女性の立場から発言したのだが、両者の発言スタンスは違っていた。

「慰安婦」との「交情」を懐かしげに語る元日本兵にとっての「現実」と、「慰安婦」経験を恐怖と抑圧として語る被害者の女性にとっての「現実」との間には、埋めがたい落差がある。関係の当事者の一方が、他方とこれほど落差のある「経験」を持っているとき、両者が「一つの経験」を共有しているといえるだろうか。
「さまざまな歴史」を認めるということは、あれこれの歴史パラダイムの中から、唯一つの真実を選ぶと言うことを意味しない。歴史が、自分の目に見えるものとはまったく違う姿をしている可能性を認める、と言うことだ。(『ナショナリズムとジェンダー』青土社)

この歴史観に二点の点で異議を唱えたのが高橋哲哉である。
「元日本兵」の語る「現実」と元「慰安婦」の語る「現実」は二つの全く違う現実として単に共存しているのではなく、激しく抗争関係になるはずである。「単なる商行為だった。」「唯一の楽しい思い出だった」などという「元日本兵」の物語と、「強姦だった」「犯罪だった」「恐ろしい暴力だった」と言う被害者たちの物語は、平和共存できないだろう。現実に生じているのは、被害者たちが謝罪や保証や責任者処罰まで要求しているということ、つまり、「<商行為>だったのではなく、強姦だったことを認めて、責任をとれ」という要求だろう。もしも歴史が「、自分の目に見えるものとはまったく違う姿をしている可能性を認める」と言うことだけで済むなら「元日本兵」はこう言い放つだろう「なるほどあなた方にとっては強姦に見えたかもしれない。それがあなた方の現実だったことは認めよう。しかし私にとってはあれは商行為以外何者でもなかった。それが私の現実だったので二人は別の歴史を生きたのだ。私は現実に強姦していないのだから、責任を取る必要はない。」

更に高橋は「強者の歴史認識に対する弱者の歴史認識の闘い」という見解にも疑問を表明している。
「ドイツ並びに西ヨーロッパでは「ナチ・ガス室はあった」というのが支配的現実であり、ホロコースト否定論者は「少数派」であるだけでなく、その活動が刑事訴追の対象になりうる「弱者」でもある。このホロコースト否定論者との闘いに上野は正当/不当判断抜きに、どのようにコミットメントするのだろうか?「弱者」や「少数派」との「闘い」も、なんらかの「正しさ」へのコミットメントはやはり必要でないか?」

両方とも『歴史/修正主義』高橋哲哉著 岩波書店

デリダ派に属しているはずの高橋哲哉にとってこのような正義へのコミットメントは
どうやって為すのだろう?

例えば竹田青嗣はデリダ的もの言い「正義は脱構築できない。脱構築が正義なのだ」
を正義とは何かの説明責任を放棄した、直感主義への逆戻りと批判している。

自分はこう思う。「デリダ的解釈の多義性にはハイデッカー的な存在が含んでいない。デリダはサルトルと違ってただ一つを選択してアンガージュしないが存在の無化の方法は引き継いでいる。」

話がこうなら後は簡単だ。このけして選ばない存在の輪郭線を追うてゆけば選択は多様であっても、倫理の輪郭線が見えてくるのだ。

ところで多様な差異あるものが互いの存在を”差異あるもの”として認識しあうためには同じ状況の地平線を共有していなければならない。こういうところも社会構築主義に対して批判したいところである。(つまり解釈のみしかない空間では正しい解釈をめぐっての力の関係すら発生しない。事実がないのだから、互いによく似た物語群があるというだけになってしまう。)
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9) Gecko/2008052906 Firefox/...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

温故知新:集団の持つ権力性について
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 YUKI WEB  - 08/7/15(火) 1:15 -
  
伝統的な左翼では、「権力」と言えば主に「国家権力」を差すでしょう。

しかし、権力というのは人間が二人いれば発生するというのが最近の社会学で主流となっている見方です。

そう見なければ、性差別の問題や、同性愛嫌悪などについて解明できません。

例えば、3人のグループがテレビを見ていて、一人が「同性愛者ってキモイ」と言い、もう一人が同調したとすれば、あと一人が「実はゲイ」という場合はどうでしょう?
多分、その人にとって、他の二人から暴力を受けたと同じ様な感情を抱くでしょう。

従来の左翼の悪い点は、人間個人が本来的に持っている「権力性」に無自覚だという点にあると思います。

これは、最近の若者による労働運動でも告発されています。
有名な「ホッッピー系労組」の例えがそうですが、年長者というのはそれだけで「権力者」であり、若者に対して「俺たちだって苦労したんだぞ、今の若者は・・・」と言うこと自体が権力を振り回したと同じになります。

実は以下の人物は後に特定の候補の選挙運動に関わるなど、結局政治運動に傾倒するのは皮肉です。
ただ、「集団の権力性」を語る上で格好の資料になると思うので添付します。

-------
http://www.hige-toda.com/x/c-board/log/tree_42.htm#187

いわゆる「運動体」に対して以下の様な意見を言っている方がいます。

私の問題意識と重なるので以下に引用します。


要するに、「運動体」内部で意見を集約する際に「少数意見」が排除されるということです。少し以前であれば「反革命」の名の下で押さえつけられることだってあるのです。


「集団の持つ暴力性」や「集団の指導者が持つ権力性」に敏感にならなければなりません。


私としては、そういう少数意見を大切にしたいと考えているので、「円卓会議の文化」を提起している訳です。


以下、引用

-------

http://akaboshi07.blog44.fc2.com/blog-entry-337.html

正直なことを書きます。


 僕は政治的主張を行う運動体の活動にはアレルギーがあり、これまで参加したことはありません。政治的主張をするために人が集まると、どうしても「戦闘的」にならざるを得ないことに抵抗感があるためです。もちろんある程度「戦う」ことは必要なことだし、集団で「ある主張」をするためには、ある程度の「意見の単純化」は必要でしょう。しかし、その集団内部で「主義」が生まれ、外部から孤立して閉鎖的になってしまう恐れも、常に抱えていると思います。


 本来、人間は一人一人が多様な存在であり、ある出来事に出会ったり、人との出会いによって柔軟に、意見や見解は「更新」されて行くべきものだと思います。そうした人々が「ある一つの主張」の下で集団を組むことは、一人一人にとっては、ある程度「集団の持つ暴力性」を受け入れなければなりません。僕はたぶん、そのことに敏感なんだと思います。


 今日、5月17日を「反ホモフォビアの日」に制定しようという運動体「Act Against Homophobia」の活動について。いくつかのブログで紹介されていたために知っていました。しかし僕は今日まで「静観」という態度を取って来ました。運動の主旨である「国際反ホモフォビアの日の制定」には賛同できるのですが、その実際の活動や主張の仕方、集団のあり方について見えにくい部分があり、イマイチ「賛同」に踏み切れなかったからです。


(中略)


 今日、僕は新宿に「Act Against Homophobia」の活動を「見に」行こうと思います。ただここで批判しているだけでは、なにもはじまらないと思うからです。そして、実際に活動している人たちが、どんな人たちなのか。街頭デモンストレーションが、現場でどのようなリアクションをもたらすことになるのかを、自分の目で見てみようと思います。「外の目」と「当事者の目」を往還させながら。


 僕が「運動体」に感じる抵抗感は、ひょっとしたら彼らとまだ「出会っていない」からなのかもしれません。「嫌悪」という感情の原因の一つは、「無知と臆病がもたらす思い込み」だと思うからです。僕は今日、「運動体」という戦い方に感じている自分の「嫌悪」に向き合ってみたいと思います。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X Mach-O; ja-JP-mac; rv:1.8.1.15) Gecko/...@118x240x206x101.ap118.gyao.ne.jp>

蛇足ついでになぜデリダに拘るのか
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/16(水) 1:42 -
  
1968年の系譜にある思想群にはいろんな思想があるのになぜデリダばかり
語っているのか?

勿論、わけのあってのこと。

1、Mフーコ&サィードの場合
Mフーコは知そのものが権力作用をもっており、物事に対してレッテル貼りという
暴力を振るっているのだと考える。確かに重要な視点なのだが、この考え方だと
知を操作し知の権力作用を再生産したり拡張したりできるものと、その知によって
規定されるものの二極分化を促してしまう。

これでは己が思考の有限性を意識してより普遍的な視点へと止揚するといった思想
の展開が不可能であれかこれかという争いばかりが生ずる。

2、ドゥルーズ&ネグリの場合
自我さえ社会的な自己言及システムであると見做した時、その外部、無意識や生の
領域を持ち上げたくなるのはわからないわけではない。だが、ドゥルーズ以前の
生の哲学者たち(ニーチェやアンリ・ベルグソン)がそうだったようにレーベンやら
ビブリオやらは言葉による規定以前の段階なので如何ようにも語ることが可能だ。

使い方一つで新興宗教にもファシストにも左翼勢力にも利用できる。曖昧すぎる
概念なので(スターウォーズの)フォースや(イデオンの)イデと同じようなもの
といってもあまり違いがない。ドゥルーズのばあい、たまたま、彼の言う多種多様性
を大衆の多様性(マルチチュード)、生の意志を民衆の情念と翻訳するネグリのような最良の継承者を得たがそれでも「レーベンとは何か」一義的に語れないという点では変らない。


公平を期すためにデリダの論評もしたい。
「マルクスの亡霊たち」ここでいう亡霊とはかつてマルクス主義の下で語られていた
問題意識そのものがマルクス主義が失効しても失われずに残るという意味だろう。

だが、私は社会主義=マルクス主義などと見做していないので、その残るものをマルクスの亡霊たちと呼ぶことに非常に不快なのだ。(マルクスの亡霊を言うのならプルードンの亡霊はどうなるのか?)

デリダの思考は解釈の多様性を言い立てることで本来ならとっくに墓場送りすべき
思想をいたずらに延命してしまう効果がある。思想には時に認識論的切断や転倒が
必要な瞬間がある。勿論、晩年の丸山眞男が8月革命以後の日本の民主主義を
もう一度、戦前や幕末からの系譜で語りなおそうとしたように思想が突然現れた
ものでなく過去からの系譜の上に成り立っているということはそれなりに重要なのだが、それを前提としたとしてもある特定の知的状況に対して転倒という名の革命
を執行しならない瞬間はあるのだ。

(自分がデリダの倫理的な物事に対するもの言いの背景にサルトル的な無化を見て取るという話はデリダの世界にこの認識論的切断の要素を移植しようという話であると
見てもらっても良いだろう。)
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9) Gecko/2008052906 Firefox/...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

Re:蛇足ついでになぜデリダに拘るのか
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 ねこかぶり  - 08/7/16(水) 16:40 -
  
▼徳永基二さん:
>2、ドゥルーズ&ネグリの場合
>自我さえ社会的な自己言及システムであると見做した時、その外部、無意識や生の
>領域を持ち上げたくなるのはわからないわけではない。だが、ドゥルーズ以前の
>生の哲学者たち(ニーチェやアンリ・ベルグソン)がそうだったようにレーベンやら
>ビブリオやらは言葉による規定以前の段階なので如何ようにも語ることが可能だ。

まぁ、そこらへんは思想の分かれるところです。

>使い方一つで新興宗教にもファシストにも左翼勢力にも利用できる。曖昧すぎる
>概念なので(スターウォーズの)フォースや(イデオンの)イデと同じようなもの
>といってもあまり違いがない。ドゥルーズのばあい、たまたま、彼の言う多種多様性
>を大衆の多様性(マルチチュード)、生の意志を民衆の情念と翻訳するネグリのような
>最良の継承者を得たがそれでも「レーベンとは何か」一義的に語れないという点では変らない。

ある意味それはあてってます。
ただ、それを無視して世界は存在し得ないのえは?
フォースにしろイデにしろ曖昧だけど存在を否定できないものでしょう。

>公平を期すためにデリダの論評もしたい。
>「マルクスの亡霊たち」ここでいう亡霊とはかつてマルクス主義の下で語られていた
>問題意識そのものがマルクス主義が失効しても失われずに残るという意味だろう。

ある意味マルクスは時代の必然だったと思う。
かの時代だからこそそれが存在しえた。ケインズが出てきてからその存在意義が
消えたと

>だが、私は社会主義=マルクス主義などと見做していないので、その残るものをマルクスの亡霊たちと呼ぶことに非常に不快なのだ。(マルクスの亡霊を言うのならプルードンの亡霊はどうなるのか?)

私はマルクス主義でいいと思う。その後のレーニンが時代を書き間違ったと。
当時のロシアの状況を見るにつけそれでよかったと

>デリダの思考は解釈の多様性を言い立てることで本来ならとっくに墓場送りすべき
>思想をいたずらに延命してしまう効果がある。思想には時に認識論的切断や転倒が
>必要な瞬間がある。勿論、晩年の丸山眞男が8月革命以後の日本の民主主義を
>もう一度、戦前や幕末からの系譜で語りなおそうとしたように思想が突然現れた
>ものでなく過去からの系譜の上に成り立っているということはそれなりに重要なのだが、
>それを前提としたとしてもある特定の知的状況に対して転倒という名の革命
>を執行しならない瞬間はあるのだ。
>
>(自分がデリダの倫理的な物事に対するもの言いの背景にサルトル的な無化を見て取ると
>いう話はデリダの世界にこの認識論的切断の要素を移植しようという話であると
>見てもらっても良いだろう。)

不勉強で申し訳ないのだが、時代とはそういうものではないかと思う。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)@58x4x92x253.ap58.ftth.ucom.ne.jp>

哲学は必要/ポストモダンと新自由主義の親和性について
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 YUKI WEB  - 08/7/18(金) 0:14 -
  
徳永基二さん
-------      
社会運動系のこういう場所で哲学的な語りをしていいのかそれは
運動系の人に対して愚弄する行為でないかと不安もあるのですけど、
-------

社会運動の場で哲学についても語り合うのは、世界水準で言えば当たり前のことです。
日本でも特にヨーロッパやアメリカ西海岸の運動から影響を受けている人びとや集団の場合もそういう文化が伝わっています。
しかし、そうでない人びと、その中でも古くからゴリゴリの運動圏でやっている人の場合、どうも避けたがるようです。
とは言うものの、『希望は戦争』をきっかけに巻き起こった議論や、雑誌『ロスジェネ』の創刊など、思想・哲学を煮詰めようとする機運が盛り上がってきていると思います。
さらに、今年G8が通り過ぎた影響で、世界の先進的な運動文化が認知されてきたのもいい傾向でしょう。

今問われているのは、どこかの新左翼党派みたいに単に「革命」と叫ぶのではなく、現代の社会に対する政策であるし、人びとが横の繋がりで集まれる場を作ることではないかと思います。
これに関して、ポストモダンの思想を通り過ぎていれば、得るものも多くあります。

さて、少し前から私が問題としているのは、ポストモダンの思想と新自由主義は親和性がある点です。
その理由は、上の徳永さんの書き込みであった様に、「己が思考の有限性を意識してより普遍的な視点へと止揚するといった思想の展開が不可能であれかこれかという争いばかりが生ずる。」からです。
その結果、各個人が粒子化し、連帯する機会を失い、運動体内で力のある人たち〜往々にして「生活に余裕のある人」ですが〜により、新自由主義者の言い立てる「自由」と同化しやすくなります。
これの顕著な例は、宮台真司さんの『性の自己決定原論』で、この本の価値観を実践しようとすれば、新自由主義者の強調する「自己決定」に乗っかるのが容易という点でしょう。

しかし、ポストモダンの思想と新自由主義の親和性は、人びとの生活に余裕があればこそのもので、多くの人の暮らしが悪化している現状では、むしろ、従来左翼とポストモダンの接近こそに展望がある様に思います。

とは言いながら、私もフーコーとある時期の社会学に対する理解で止まっていて、デリダまでは読んでいないです。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X Mach-O; ja-JP-mac; rv:1.8.1.16) Gecko/...@118x240x206x101.ap118.gyao.ne.jp>

ジュディス・バトラー, ガヤトリ・スピヴァクの「国家を歌うのは誰か?」について
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/19(土) 4:42 -
  
この中でバトラーがやっているアレントの「人間の条件」批判について考えてみる。
確かに「人間の条件」では私的領域による労働を社会的外部に押しやって公的領域における活動から分けている。この考えを女や奴隷を公的領域から排除する思想と批判するのは一見するとその通り。

だが、私はこのアレントの議論を批判する気になれない。何故って、現状を批判するためには現状と違ったオルタナティブを現状から抽出しつつ、かつ現状と対置しなければならない。(それこそ認識論的切断を必要とする。)オルタナティブが最初から現状に含まれている可能性でなければそれは空理空論と化すし、オルタナティブなき現状批判だと逆に脱出の困難さを強調するだけになる。(Mフーコの議論のようになる)

オルターナティブが本来、個人が持って生まれた先天的資質であり、現状は歪めれているだけという語りもある。(ハバーマスのコミュニケーション的合理性の構造主義的説明だとか)だけどこれだと、権力を打倒し開放させすれば自然とその状態に戻ると言ってるのと同じで到達の困難さを楽観化しすぎる。

そもそも市民が市民として当たり前に存在する状況とはかなりユートピア的状況で
成員がその状況を意図的に作ろうと努力しなければ達成できないようなシステムである。そのことは自覚しすぎるほど自覚しておいて間違いはない。

以上のような観点に立った時、労働と活動を峻別し、労働は私的流域で公的領域の活動に至るまでの過程にすぎないと、活動を言上げし、労働を言下げた論理戦略はそれなりに見事だと思う。こう言わなければ労働中心主義からの意図的脱却を図れないだろう。

問題なのはこれが本当にギリシャのポリス政治の実態であったかどうかではない。ここでいう”ギリシャ”とは我々の歴史にはそういう可能性の芽があったという歴史の中から未完の可能性を引っ張り出してくるための装置にすぎない。アレントは奴隷と女性を公的領域から排除したいから労働を私的領域に追いやったのでなく、やれ、労働だ仕事だと四六時中、追い回されている我々の生活が奴隷的で異常だと言いたいため、敢えて私的領域に追いやっているのだ。

現在、機械化が進み、圧倒的な生産力を身につけた我々人類が8時間以上も長時間労働に身をゆだねければならない理由はどこにもないのだ。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9.0.1) Gecko/2008070208 Fire...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

Re:哲学は必要/ポストモダンと新自由主義の親和性について
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/19(土) 12:51 -
  
>少し前から私が問題としているのは、ポストモダンの思想と新自由主義は親和性が
>ある点です。

少し前ですが
「まあ、ちょっとしたレスです。」で
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4272;id=01
「私は現代思想を代表する思想家を敢えてポストモダン的でない形で
引用することにしています。なぜなら、デリダもフーコーもドゥルーズも
およそ現代思想の代表と言われる思想家は『誰もポストモダニストではない。
従ってポストモダニズムなどは最初からどこにも存在しない』にも関わらず
彼らがポストモダニズムの代表であるかのごとく言われているのは
『68年の思想的社会的意義を歪め、新自由主義、保守主義に絡め取るための
陰謀策謀である』と思われるからです。


実際のところ、デリダの言ってる事柄はホミ・ハーバ辺りが言ってる事柄に
非常に近いのですが、それを文化相対主義風に読むと歴史修正主義者や自民族
中心主義者に都合のよいイデオロギーに変化してしまいます。(「全ては
相対主義だ。だから俺の言ってる事が一番正しい。」)だから私は逆にデリダを
普遍主義、ヘーゲル主義者という文脈で引用するわけです。(別な言い方を
すると68年世代の近代批判、価値相対主義を近代の自己批判、自浄作用として
読みとこうとしている。)」

と書きました

実はここで言ってる話は非常に戦略的な話です。(「まあ、ちょっとした」どころでない突っ込みの多さがあり、意図的な読み替えと選択がなされている。)

一つには現代思想とは68年の思想なのか?という問いがあります。そういう囲み方は
本来、保守の側から提起されたものですけれど私は敢えて68年という時代を過去の遺物にせず活性化しながら現代的な状況で受け継ぎ(ジルドゥルーズならこういう視点の取り方を歓迎するだろう。)かつ、思想を大学内に閉じ込めないために有効かなと
思います。

思想を政治的なものとして読み取るべしと言う考え方はガヤトリ・スピヴァグやホミ・ハーバのような論者なら概ね賛同されることでしょう。

(80年代の日本のニューアカデミズムみたいな論理を自分は拒否する。)


後、現代思想のロゴス中心主義批判を相対主義と見做さず、再帰的近代化、普遍主義の文脈で捉えなおす、というのはどうでしょうね。自分に言わせれば今ほどこれが必要とされている時がない。

ジルドゥルーズによる(「アンチオィデップス」や「ミルプラトー」やらの)資本主義批判はMウェーバーやハバーマスの議論に接続可能ですし、接続することでウェーバーやハバーマスの議論が持っている保守性を革新性に転換可能だと思います。

デリダの議論はUベックやアンソニーギディンズの再帰的近代化の論理に接続可能です。(英国ブレア政権は米国の世界支配に加担したために批判されているが、日本の左翼が学ぶべき点はまだ多く持っている。)

普遍主義と読み替えることで旧来の左翼との接続点も発生します。

>今問われているのは、どこかの新左翼党派みたいに単に「革命」と叫ぶのではな
>く、現代の社会に対する政策であるし、人びとが横の繋がりで集まれる場を作るこ
>とではないかと思います。
>これに関して、ポストモダンの思想を通り過ぎていれば、得るものも多くありま
>す。

「だが、新自由主義による階級間格差の固定化が世界規模で
進展する中で、欧米や日本などでは多様なものたちの視点が再び
経済の問題へと回帰してきたように思われる。これは喜ばしい
ことだと思う。経済の問題を解決するだけでは多様なものたちが
多様性を維持したまま共存できるようにはならないし、逆に
多様なものたちに機会を均等化したところで、貧困問題の解決に
はならないからだ」

『マルチチュードと経済の問題、それと表現の自由』
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4345;id=01

経済的なボトムアップをしつつ、多様性ある社会にするためにはどうすればいいのか
複雑な問題なのです。旧来の左翼のやり方だと結局、企業社会の論理に飲み込まれてしまう。その中で多様性を追求するのは難しくなる。多様性を得たければビジネスで実力を示せという話になってしまう。

>フェミニズムの中でも「第三世代フェミニズム」では、単に「女性の解放」でな
>く、今までのフェミニズムが培った成果を生かし、「弱者が弱者のまま開放され
>る」世界を目指そうとしています。
>その中でもエンパワーメントと多様性を前提とした人びとの繋がりを作ることが
>テーマとなっています。

「第二世代」までのフェムニズムの主張は結局、家庭や男女関係にまで資本主義の論理を導入する上で効果的な役割を果たしてしまいました。

日本のクリスマスは1983年より始まった。
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4323;id=01

第二世代の論理もある程度の開放性を持っていたことは否定しません。
(所得が増大することで得られるか開放性は本物ですから)
ですが、その代価が資本主義の論理の蔓延では結局、リスクが自分に返ってきてしまう。

自己レス 80年代という時代について。
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4329;id=01
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9.0.1) Gecko/2008070208 Fire...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

Re:哲学は必要/ポストモダンと新自由主義の親和性について
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 ねこかぶり  - 08/7/19(土) 23:11 -
  
▼徳永基二さん:
>彼らがポストモダニズムの代表であるかのごとく言われているのは
>『68年の思想的社会的意義を歪め、新自由主義、保守主義に絡め取るための
>陰謀策謀である』と思われるからです。

68年主義が何をあわしているか解りませんが。

>実際のところ、デリダの言ってる事柄はホミ・ハーバ辺りが言ってる事柄に
>非常に近いのですが、それを文化相対主義風に読むと歴史修正主義者や自民族
>中心主義者に都合のよいイデオロギーに変化してしまいます。(「全ては
>相対主義だ。だから俺の言ってる事が一番正しい。」)だから私は逆にデリダを
>普遍主義、ヘーゲル主義者という文脈で引用するわけです。(別な言い方を
>すると68年世代の近代批判、価値相対主義を近代の自己批判、自浄作用として
>読みとこうとしている。)」

歴史とは相対主義ですが、経済にいたってはその相対主義を用いてはいけない領域
というものがあるはずです。

一部において徳永さんの意見を支持します。

>一つには現代思想とは68年の思想なのか?という問いがあります。そういう囲み方は
>本来、保守の側から提起されたものですけれど私は敢えて68年という時代を過去の遺物にせず活性化しながら現代的な状況で受け継ぎ(ジルドゥルーズならこういう視点の取り方を歓迎するだろう。)かつ、思想を大学内に閉じ込めないために有効かなと
>思います。

了解しました。

>(80年代の日本のニューアカデミズムみたいな論理を自分は拒否する。)

うーん、不勉強なものでそこら辺は解りかねますが

>後、現代思想のロゴス中心主義批判を相対主義と見做さず、再帰的近代化、普遍主義の
>文脈で捉えなおす、というのはどうでしょうね。自分に言わせれば今ほどこれが必要と
>されている時がない。

私も強く感じます。


>>今問われているのは、どこかの新左翼党派みたいに単に「革命」と叫ぶのではな
>>く、現代の社会に対する政策であるし、人びとが横の繋がりで集まれる場を作るこ
>>とではないかと思います。
>>これに関して、ポストモダンの思想を通り過ぎていれば、得るものも多くありま
>>す。
>「だが、新自由主義による階級間格差の固定化が世界規模で

私の恐れるのはそこです。公教育の無料化で実現できると思います。
少なくとも世代間に受け継がれる格差というものは防がねばなりません。

>進展する中で、欧米や日本などでは多様なものたちの視点が再び
>経済の問題へと回帰してきたように思われる。これは喜ばしい
>ことだと思う。経済の問題を解決するだけでは多様なものたちが
>多様性を維持したまま共存できるようにはならないし、逆に
>多様なものたちに機会を均等化したところで、貧困問題の解決に
>はならないからだ」

能力の格差の寄る格差は仕方がありません。
でも、機会の格差による格差は防がねばなりません。

>経済的なボトムアップをしつつ、多様性ある社会にするためにはどうすればいいのか
>複雑な問題なのです。旧来の左翼のやり方だと結局、企業社会の論理に飲み込まれてしまう。その中で
>多様性を追求するのは難しくなる。多様性を得たければビジネスで実力を示せという話になってしまう。

私は北欧的やり方に希望を持ってます。
高福祉、高負担、公教育の無料化で個人の格差はあっても世代間の格差はなくなると
思います。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)@58x4x92x253.ap58.ftth.ucom.ne.jp>

68年について
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/20(日) 3:20 -
  
いろんな人がいろんな言い方をしています。

いくつかの視点を挙げてみると

1、新しい社会運動を生んだ。
例えばフェミニズム、ブッラクパワー、環境保護運動、産直活動など

2、若者の反乱だった。
これまでの社会、大人になり方について異議申し立てをした。
国家ー企業ー家族こういうものの正常であると思われているあり方そのもの
を疑問を付した。

3、大学で学ぶということの意義を問うた
学ぶ(study)とはなんなのでしょうか?それは権力作用なのかそれとは別個の
何かなのか?とりわけ東大紛争が医学部封鎖から始まった意義は大きい。なぜなら
医学ほど人との関わり方を問う学問はないからです。一方で医学は人を徹底的にもの
として扱う(移植医療、人ES細胞の研究、DNAに関する特許など)その一方で
人を救い出す。その中で研修医が劣悪な労働環境に置かれていることに対する疑問、
それが医学部封鎖闘争へ結びついていったのでした。

4、ベトナムで殺戮を行っている国家のシステムに組み込まれること、その中での
平和を謳歌した市民社会
近代市民社会がこれほどチャレンジを受けたことがあっただろうか?

5、死について考えること
ハイッデッカーやサルトルも考えているのだが、そもそも焼夷弾や原爆で無差別・かつ無目的に人が死ぬということを前にして如何なる思想、如何なる哲学が語れるのか

6、市民運動とは何か
べ兵連の運動は市民が個人として自立的であることと社会運動の関係はどうあるべきなのか最も模索した運動だったと思う。新左翼はそこから何も学ばずにセクト化していったが。

7、開発と地域社会
公害問題にしろ三里塚にしろ、本来豊かになるために行われている開発がこれほど
人々の生活を破壊する桎梏と化した時期はなかった。そもそも豊かさとはなんのだろう?

8、市民社会の外部との関係
入管法闘争に代表される市民社会から排除される者を前にどう立ち向かえば良いのか
それに沖縄は日本の外部なのか?沖縄の基地の暴力に無防備に晒されている市居の
人々の前で本土は何が出来うるのか?


9、運動の意義
豊かになり小市民化してゆく大衆とその中での学生運動組織の孤立、そもそも社会運動はどうあるべきものなんだろう?


10、歴史とは何か
一番最初に主流な歴史に対して忘れ去れたものたちの歴史が認識された時代だった


11、カウンターカルチャー
文化的であり想像的であることがそれ自体、社会に対しての抵抗になりえることが
示された。

これ以外にも68年の意義は多々あるだろうとおもう。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9.0.1) Gecko/2008070208 Fire...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

「ポストモダニズムなどは最初からどこにも存在しない」について
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 YUKI E-MAILWEB  - 08/7/20(日) 7:36 -
  
私が以上の論を言い出したきっかけになったのは、セクシュアルマイノリティの運動に対する違和感です。

それは何かと言えば、最先端の部分は「私は私、あなたはあなた」の世界になってしまい、大衆運動を指向する部分は一致団結を目指すために内部統制を始めようとするからです。
どちらも離れた視点から見れば、国家体制や新自由主義者を助ける働きを持っていると言っても過言ではないため、私としては、どちらにも与することができませんでした。

以下の「ポストモダニズムなどは最初からどこにも存在しない」との視点は、私の知識不足かも知れませんが、今まで抜け落ちていた点だと思います。

>http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=4272;id=01
>「私は現代思想を代表する思想家を敢えてポストモダン的でない形で
>引用することにしています。なぜなら、デリダもフーコーもドゥルーズも
>およそ現代思想の代表と言われる思想家は『誰もポストモダニストではない。
>従ってポストモダニズムなどは最初からどこにも存在しない』にも関わらず
>彼らがポストモダニズムの代表であるかのごとく言われているのは
>『68年の思想的社会的意義を歪め、新自由主義、保守主義に絡め取るための
>陰謀策謀である』と思われるからです。
>
>
>実際のところ、デリダの言ってる事柄はホミ・ハーバ辺りが言ってる事柄に
>非常に近いのですが、それを文化相対主義風に読むと歴史修正主義者や自民族
>中心主義者に都合のよいイデオロギーに変化してしまいます。(「全ては
>相対主義だ。だから俺の言ってる事が一番正しい。」)だから私は逆にデリダを
>普遍主義、ヘーゲル主義者という文脈で引用するわけです。(別な言い方を
>すると68年世代の近代批判、価値相対主義を近代の自己批判、自浄作用として
>読みとこうとしている。)」
引用なし
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X Mach-O; ja-JP-mac; rv:1.8.1.16) Gecko/...@118x240x206x101.ap118.gyao.ne.jp>

Re:「ポストモダニズム」について
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/20(日) 14:02 -
  
>私が以上の論を言い出したきっかけになったのは、セクシュアルマイノリティの運動に対する違和感です。
>
>それは何かと言えば、最先端の部分は「私は私、あなたはあなた」の世界になってしまい、大衆運動を指向する部分は一致団結を目指すために内部統制を始めようとするからです。
>どちらも離れた視点から見れば、国家体制や新自由主義者を助ける働きを持っていると言っても過言ではないため、私としては、どちらにも与することができませんでした。


「私は私、あなたはあなた」は確かに一部、フェミニストの最先端の動きにも感じ取れる視点です。それには私も違和感を持っています。(上野千鶴子と高橋哲哉の論争について触れた時にその問題が政治問題化したときの具体例がある。後、子連れ論争時の林真理子側がアグネスを批判した時の論理にもこれがある。)

ただ、この論理に関する自分の捉えかたは若干、両義的になるのでこれまでYUKIさんの論理にレスを返そうとする時の一つの原動力になっていながら、(多分、YUKIさんの話からは自分は学べる要素が積極的にあると思っているからレスを返したくなる。)表面上問題として現れなかったのかなと思います。

なぜこれまで表面化しなかったか?それは自分がアナキストだからです。

「私は私、あなたはあなた」VS「大衆運動を指向する部分は一致団結を目指すために内部統制を始めようとする」はそのまんま、アナキストVSマルキストの過去の論争に出てくる問いだからです。で、歴史からアナキストが消えてしまった理由も
「私は私、あなたはあなた」という思想自体にある。これでは運動が起こりえない。


「私は私、あなたはあなた」の立場に対しては常に両義的で在らざるえない。一方では「私はあなたの意見には反対だがあなたの発言権は全力で守る」というような民主主義の歴史上で表れた自由のあり方に関する積極性も含まれている。

その一方で「私は私、あなたはあなた」は社会運動を解体し、現状を利用主義的立場に変える契機が含んでいる。これを越えて社会運動としてあるためには戦略的な思考を必要とする。(例えばアナキズムFAQに出てくる「アナキストは社会主義者なのか」「何故、アナキストにとって連帯が重要なのか?」を読めばわかるように)
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/faq/contents.html

つまり自分がアナキストであるという主張するとき、一方で「私は私、あなたはあなた」の考えを対マルキスト用に強調しつつ、他方で「アナキストはアメリカでいうところのリバタニアンではない」「アナキストは政治的連帯を重視する」を経過してきていることを暗に認めているということになる。

「ポストモダン」この考え方で私が言わんとしているのは80年代に一時期流行した
現在でも東浩紀などがその立場であるところの、「大文字のイデオロギーは死んだ。今、物語とは消費されるものであり、その時その時のモードに従って乗り換えてゆくものだ。いや、のるかそるかという逃走戦略こそが未だ資本主義化されていない外部から遊撃的に資本主義のあり方を問うことになる」という議論を指す。80年代の頃はこの議論よりはフェミニズムのほうがまだミクロな政治的次元を意図的に自覚していたから生産性のある議論だった。(そこに惹かれるものがあった。)

80年代にこのタイプを代表した思想家は浅田彰や柄谷行人、中沢新一、栗本慎一郎など。このタイプに議論の欠点は資本主義の外部や差異を見出そうとする動きは結局資本の先兵役を買って出ているだけ。本人たちは自分たちの特権的立場に自覚的でないなど。90年代に入ると「全てが相対的なら私が肯定することが正義だ」と唱える
保守主義者(小林よしのりや藤岡信勝)や「一国平和主義を批判する普通の国家論者」の前に思想として解体していった。

「ポストモダン」と「80年代フェミニズム」はどちらもミーイズムを強化する上で
共犯関係にあると思う。(子連れ論争はその中で起こった。私はミーイズムが置き忘れていったもの-きれいでおしゃれなトレンディドラマのような生活の影にあるものを暴き出す役割を果たした点でアグネスの肩をその時はもった。)

80年代の頃、(学生時代の)自分は脱政治化作用をもつ「ポストモダン」を嫌い、イデオロギーの権力作用をいうMフーコやPブルーデュの議論の中にその脱出ルートを探っていた。

現在の自分にとっての「ポストモダン」的要素とは
『マルクス主義的な議論の持つ欠点について』の中で書いた

「誰のために闘うかで「労働者」「農民」「市民」を持ち出すのはかまわないけど、誰が闘うのかで「労働者」「農民」「市民」を持ち出すと必ず内ゲバに突入する。(お前は真の労働者なのか?)労働者階層出身の革命家が必ずしも労働者のためになる政策をするとは限らないし、ブルジョワ出身だといけないわけでもない。」

や『プルードンと国家について』で書いた

「因みに逃走は重要な反抗手段です。国家いう形がなくても人と理念が生きていれば社会はどこにだって再生できる。たとえ自分が死んでも理念さえ伝達できればいずれの日かその想いを引き継いでくれる人は現れるはず。だから忘却の穴に落ち込まないためにも集団で逃亡するのは大いにありなんです。」

それに上の『68年について』で書いた
「11、カウンターカルチャー
文化的であり想像的であることがそれ自体、社会に対しての抵抗になりえることが
示された。」

などに影響が見られる。

ここで「相対主義」に落ち込まない(『ポストモダン化』しない)ために自分がとってる戦略は大きく分けて三つある。一つはカルチュラルスタデーズに徹底的学ぶというもの。ある思想が受け入れられる背景には最初の発言者が言論の自由、思想の自由に基づいて発言していても受け入れられるだけの社会的構造的要因があるというもの
(すなわち生産諸関係でなく需要諸関係に敏くなるということ)

二つ目は経済的な基盤を重視すること。(社会学的な議論ではいつもこれが欠けているが故に抽象化する。)ただしこれは、否定的な意味でなく肯定的な意味で。否定的な意味とは「『ポストモダニスト』は結局経済的に恵まれた立場からものを言ってるにすぎないではないか」という議論。肯定的というのは『80年代のポストモダニズムは確かにバブル経済を背景にしていたが確かに一定の開放的契機はあった』というもの。前者は階級間闘争しかうまないが、後者は下層階級をどう引き上げるのかという議論になる。例えば子連れ論争を例に取ると、「林真理子は結局めぐまれた立場で発言しているだけでないか」と議論するのと「アグネスを林真理子的立場に引き上げるにはどうすればいいのか」という議論の差。

「ジュディス・バトラー, ガヤトリ・スピヴァクの「国家を歌うのは誰か?」について」の議論の中でバトラーの言ってる議論は結局引き下げ型の論理のような気がする。本来なら「では奴隷や女性たちが公的な場で活動できるようにするにはどうするべきか」が議論されるべきじゃないのか。

で、ここで再び、議論が「私は私、あなたはあなた」VS「大衆運動を指向する部分は一致団結を目指すために内部統制を始めようとする」の議論に戻ってくることになる。


三つ目は上野千鶴子と高橋哲哉の論争で現れた高橋哲哉が問うた決断、判断の問題。
相対主義を説くものは不寛容なものに対しても寛容であるべきなのか?それはどのレベルまでか?という問い。この問いは「飢えた子供の前で文学はなんであるのか」「ナチズムの後で詩は可能か」「無差別無目的な死を前して個人の自由とはなんなのか」というような問いへと繋がってゆく。ここからは死の言上げ(立派にお国のために死んでゆかれました)も可能だし、市民社会のあり方への希求も可能だ。

80年代になぜポストモダンが流行ったかというと、「思想は一度生まれたらそれ独自の独自の生命をもつ」という立場と「個人が何をどう考えどう消費しようが他者に害がないならそれはプライベートだ」というそれ自体ではどちらも肯定されうる議論が重なったことで生じた。この両者が重なると思想は行き場を無くして浮遊する。

後者の立場は自分も一オタクとして時に主張している。(二次元への表現規制問題での自分の立場は正にそう。)問題は他者に迷惑を掛けず辺りにヒントがあると思う。
確かに個人はプライバシーがあるのだが、(それは強調しすぎるほど強調しないとセキュリティや管理の思想に絡めとられる。)同時に個人の存在は社会にリスクを与えずに存在することは不可能だ。個人は存在するだけでリスク(原罪)をもっている。ならどのように自らの存在のリスクをマネージメントするかを問われている。

問題なのは個人のもつリスク(原罪)を容認しながらどうやって他者に寛容であるのか。寛容さそれ自体が戦略的な政治的選択の問題だ。(アナキスト的な革命的主張だ。)要は問題なのは他者のリスクでなく”私の”リスクが問題なのだ。(人に不寛容で自分に甘いのは人の性)
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9.0.1) Gecko/2008070208 Fire...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

再びデリダについて
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/20(日) 14:55 -
  
>「私は私、あなたはあなた」の立場に対しては常に両義的で在らざるえない。

この考え方そのものが非常にデリダ的なのに気が付いてしまった。

デリダ的に見るとどう見えるでしょう
「私は過去、ないしは現在の他者から何がしかのものを負うていて彼らの作り出した
成果によって自分を成り立たせている。だが同時に私は継ぐものであると同時に異端な
ものである。つまり私は彼らの成果をオマージュし、茶化す(パロディ化する)もの
である」

となるわけでしょうか。リスクとは積極的な意味にも否定的な意味にもなりえる。人は他者に負担を掛けるものだが影響力を行使するものでもある。(自己を試すアリーナが豊穣にあるともいえる)

他者から何かを継ぐ、影響化にあるというのは反復や支配を強要する意味にも使えるが
茶化し、リミックスするためのサンプリング材料が豊富にある(自己を表現できる戦略的材料が多い)とも言える。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9.0.1) Gecko/2008070208 Fire...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

セクシュアルマイノリティの運動を概観してみる
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 YUKI E-MAILWEB  - 08/7/21(月) 4:28 -
  
ありがとうございます。
今まで詳しい言及を避けていたセクシュアルマイノリティの運動について概観し
てみます。
これは何もセクシュアルマイノリティという狭い世界だけの話ではなく、様々な
場面に適合可能だと思います。
私自身、今まで「セクシュアルマイノリティの運動」にはあまり関わっていませ
ん。これは、運動そのものに問題があると感じているからです。
だからこそ、私は今まで言及を避けていたものの、この辺で真正面から取り上げ
ることにします。

さて、セクシュアルマイノリティの解放理論として最先端にあるのは「クィア理
論」と呼び、それを学ぶことを「クィアスタディーズ」と言います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%A2%E7%90%86%E8%AB%96

先に私は「哲学を学ぶことも運動の上で必要」と書いたのは、解放運動の成り立
ち上、理論追求が先行しているセクシュアルマイノリティの運動から影響を受け
ているのも確かです。

上のWikipediaを見ても分かる様に、理論自体がフーコーを起源とし、デリダの
影響を強く受けています。
そして、これを実際の社会で実践しようとすれば、「私は私、あなたはあなた」
の世界になります。

ところが、これには落とし穴がありました。
それは、新自由主義に乗っかりやすい点です。

セクシュアルマイノリティの運動体は、自ら運動を作る力がありません。
新自由主義が台頭してくれば、それに乗っかり、自由を拡大しようとする人が現
れるのは当然でしょう。
それが宮台さんの『性の自己決定原論』に代表される部分です。
http://www.arsvi.com/0b/980417.htm

それと、「私は私、あなたはあなた」の世界について、私が問題を感じたのは、
かつてアメリカで議論された「リベラリスト vs コミュニタリアン」の件に通じ
る「リベラル」の問題です。
要するに、個人が粒子化するため、連帯/団結する機会を失う点、そもそも人は
人との関係なしに存在し得ないのではないかとの疑問があります。

その上、安易に実践しようとすれば、運動強者には経済的に恵まれた人が多いた
め、セクシュアルマイノリティの運動自体が「強者のための運動」になってしま
う点です。
ベタに言ってしまえば、セクシュアルマイノリティとして実践できる職種は自由
が大幅に認められやすいIT産業のため、運動自体が「そういう人中心」になって
しまいます。

そう言えば、アナキズム自体が「自分の腕(技術)一本で生きて行く」との「職
人の言い分」に近いというのと成り立ちが似ているかも知れません。

さて、以上の話は置いといて、セクシュアルマイノリティの運動は、それ以外に、
「制度内リベラルに乗っかった」種類の運動、つまり、メディアや自治体の人権
施策に代表される様な種類の運動もあります。

先にも書いた様に、セクシュアルマイノリティの運動体は力が無い、そこで、メディアに乗っかろう、自治体に乗っかろうとする動きもあります。
そうした運動の場合、メディアや自治体「ウケ」が良いように運動の体裁を整え
るために、運動のヘゲモニーを握った者が運動体内部を統制しようとします。

それは、以下に示すwikipediaの『東京プライドパレード』の項目でも批判され
ています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%91%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89

そもそも、セクシュアルマイノリティは10人いれば10人とも違います。それにも
関わらず、「世間ウケのいい当事者」や「世間ウケのいい運動」を作るというの
は、そうでない当事者を抑圧した上でないと成り立たないのです。

さらにタチが悪いことに、そうした運動は利益を生むために、ヘゲモニーを握っ
た当事者や勢力が運動で得られる利益を独占するという問題もあります。

しかし、それらは、結局、体制に乗っかったものでしかないので、突き放した視
点で見れば、体制が当事者を抑圧するシステムの一端を占めているにしか過ぎな
いとも言えるでしょう。

さて、以上の長い話を簡単に言ってしまえば、セクシュアルマイノリティにも金
持ちがいれば貧乏人もいる、それにも関わらず、「セクシュアルマイノリティの
解放」だけで団結できるのかという問いがあるのです。

そこで、私が思うのは、今、沸き起こっている若者によるラジカルな運動に「含
んで超える」方が分かりやすく、有益なんじゃないかという点です。
例えば、『自由と生存のメーデー』というタイトルには、「自由を求めれば生存
が危うくなる、生存の安定を求めれば自由が制約される」現代社会への抗議の意
味が含まれています。

それとも、宮本みち子さんの『若者が社会的弱者に転落する』で明らかになって
いる様に、今の若者の貧困の背景には、「今まで女性の働き方だった非正規雇用
が若者全体に適用された」という部分があります。
つまり、貧困を語る上では、ジェンダー抜きに語れないのは明らかです。
http://shinshomap.info/book/4896916786.html

それにも関わらず、この国の左翼運動はあまりにもジェンダー問題に対して認識
が薄いのに対して、私は今でも腹立たしさを感じているのは確かです。

私自身、若者が弱者に転落する点は、先の宮本さんの本で気付いていたため、か
なり以前から問題化していたにも関わらず、私を頭ごなしに批判する左翼活動家
が何と多かったことでしょうか。

私は従来の左翼活動家が「大きな物語」を追う中、見落として行った小さな問題
を見捨てることができませんでした。
だから、「大きな物語」を追うだけではなく、小さいと思える問題にも目を向け
るのが重要と言ってきました。
確かに私の言い方に幼稚さがあったのは認めます。
しかし、それをあたかも「反革命だ」と言わんばかりの態度を示すのはどうかと
思うのです。

今、社会の様々な部分で軋みが出ています。そうした軋みはまさに「今まで積み
残してきた問題」から起こったものです。
その中で「痛み」を受けている様々な当事者が「声を上げ始めた」というのが今
の状況です。
したがって、社会運動という観点で「今」を見れば、運動の主導権はかつてがん
ばってきた左翼活動家から、多様な当事者に移ってきたのではないかと思います。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X Mach-O; ja-JP-mac; rv:1.8.1.16) Gecko/...@118x240x206x101.ap118.gyao.ne.jp>

部族化する政治と個人のサブシステム化について
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/21(月) 11:59 -
  
今回はあまり使い慣れていない概念を使ってのお話をしてみたいと思う。
自分も現在進行中、ないしはこれから起こりうる可能性に言及しなければならい
時には試行錯誤するものだから。


これがプロバカンダーである私にとっての有効なアジになってるのかわからない。
だけどYUKIさんの出したレスに対して少しでも希望となるものを出せれば
これ幸いだと思う。
(自分が一番恐れているのは、「こういう分析もあるよ」「ふ〜ん」の領域に
入ってしまうこと。社会学はこのパターンに嵌ってしまう分析も多い)

部族化とはミシェル・マフェゾリの提起した概念だ。YUKIさんの提起した話


>先にも書いた様に、セクシュアルマイノリティの運動体は力が無い、そこで、メディ
>アに乗っかろう、自治体に乗っかろうとする動きもあります。
>そうした運動の場合、メディアや自治体「ウケ」が良いように運動の体裁を整え
>るために、運動のヘゲモニーを握った者が運動体内部を統制しようとします。
>さらにタチが悪いことに、そうした運動は利益を生むために、ヘゲモニーを握っ
>た当事者や勢力が運動で得られる利益を独占するという問題もあります。

がいわゆるマフェゾリが指摘する部族化だ。

「身近なものであれ、はるかに遠いものであれ、この図式は、歴史がわれわれに引き渡してくれた様々な政治的大事件に、この上なくよく当てはまる。我々は実在する権力の維持と、Vパレートが<エリートたちの循環>と呼んだものと対面する。

一見すると、これらは対立しているように見える。だが、そのメカニズムは同じだ。やがて革命運動の中に入り込み、時にはその先頭に立ち、次にはエリート主義の原理そのもの、つまり権力の永続という原理を復活させることになるのは、衰微凋落しているエリート構成員の中で最も明晰で、もっともデカダンスでない者たちであるのだから。どんな革命も、この<エリートたちの循環>の具体例はある。そのことはフランス大革命にだろうが、ロシア革命だろうが同じである。68年運動もこの掟から免れることがなかった。

実際、あらゆる分野で社会の指導的立場にいる<68年組>の一人一人を思い出して見ればよくわかる。彼らはよき後継者として、彼らが異議申し立てしたもの、それ自体の保持者になったのである。

「ロマのカーニバル」の中でル・ロワ・ラデゥリーは、自分らの政治行動から出発して、社会的ヒエラルギーの中で、自らの地位と、彼の一族の地位を確保してゆく《時宜に適した権力的な男》であるそのような民衆の指導者の社会的昇進を示している。

同じ学校のメンバー、派閥、あるいは理論的従属といった様々な仲介的《組織体》によって、如何に人々が社会の全体に対する権力の永続性を維持するのか見るためには、行政運営の階層について同様の分析をすることが残されているだろう。聖職者、政治家、官僚、社会の私有化を確保し、この社会の所有を自らに確認することを可能にする彼らの間の戦いも、同じことである!
 
望もうが望むまいと、これが支配的なろうとしている部族的姿勢である。後になって、なんらかの合法化や合理化を作り出すことが出来るが、取りあえずは、自らのために、近親者や親族、拡大した仲間たちのために、権力の独占とその実践を守ることが先決である。以前の著書の中で私はこのような構造的部族性についてのアウトラインを示した。宗教的なもの、政治的なもの、行政的なものはこの問題について、極めて教訓的である。そのどれもが、いかにその事実を否定しようとすればするほど、それぞれの領域において部族的である、ということができる。

単純に次のことを指摘しよう。おかしなことに理論的分析が理解しようとしないことが、ずっと以前から、民衆の良識にとっては自明のことであったということである。そのような良識は、政治的友好関係、イデオロギー的理論的依存関係、あるいは単に《コネ》といったものが、制度的世界に関わりのある人間にとっては必要なのだ、ということを知ってるのである。行政、大学、司法といったその分野がどんなものであれ、そうである。」

「政治的なものの変貌 部族化/小集団化する世界」 ミシェル・マフェゾリ著


こういう事態が良く知られているが故に個人主義的アナキストが政治的なものを忌避するということが発生するわけです。しかしこれだけ示して悦に入ったなら、先の
「こういう分析もあるよ」「ふ〜ん」の領域に入ってしまうことになる。だから別な
観点も示してみたいと思います。勿論、次に示す観点に可能性を見るか単なる上記のような事態へのきれいな言い換えを見るかは人それぞれでしょう。要するに両義的なのです。両義性にあいまいさ、言い繕いを見るか積極的転換の方向を見るのかどちらでも可能です。

「財(収入、職、安全)の配分をめぐっての対立は、古典工業社会の基本的対立をなし、関係する諸制度がその解消策を目指してきたが、リスク社会の出現に伴い、その対立にさらに「負の財」の配分をめぐる対立が覆いかぶさる。負の財の配分を巡る対立は、配分責任をめぐる対立と読み解ける。財の生産リスク(原子力や化学関連の技術、遺伝子研究、環境に対する脅威、過剰な軍備、西側社会以外での窮乏化)をどのように配分し、阻止し、管理し、正当化しうるかをめぐって、それらの対立は噴出している。
 
 社会理論や文化診断の観点から言えば、リスク社会の概念は、工業社会の途上でこれまで産出されてきた脅威が限界を超えてしまった、そういうモダニティの段階を示している。ここでの問題は、これらの脅威が五感で捉えられないだけでなく、我々の想像力を超えるものであること、つまり科学によっては確定できないことである。何が危険かの定義は、常に《認知的》、かつ《社会的》に構築されたものである。近現代社会は、自らの生み出した結果を省察せず、ただ同じ政策を続けてゆく限り、自前のモデルの基盤はその限界に直面することになる。

 工業社会文化に見出す、集合的な、集団に固有の意味供給源(例えば階級意識や進歩に対する信仰)は枯渇し、解体し、魔力を失い始めている。これらの意味供給源は20世紀に至るまで西側の民主制と経済社会を支えてきたが、その喪失は、結果としてすべての意思決定作業を個人に委ねるようになる。このことがまた、「個人化過程」という概念の意味している問題である。

 かつては家族集団や村落共同体の中で、あるいは社会階級や集団の力を借りて克服することの出来た生活暦上の好機や危機、ジレンマを、人々は益々自分でそれに気がつき、解釈し、対処しなければならないのである。確かに家族は以前存在するが、核家族は今まで見たこともないような制度になっている。不平等は益々拡大しているが、階級間の不平等や階級意識は、社会における中心的な位置づけを失っている。更に自我でさえも、もはや自明な自分でなくなり、自己を語る矛盾だらけの言説へと断片化している。

人々は今日、近現代社会の複合性のために、確かな、信頼できる根拠に基づいて必要な意思決定を行なうことなしに、つまり生じうる帰結を考慮することなしに、こうした「リスクをともなう好機」を自分のものにするように求められている。」

「個人化された個人は、つまり自分自身と自分の世界に関する修繕屋は機能主義が想定するような、単純な古典工業社会の「役割演技者」ではもはやない 一人一人は、機能主義の役割モデルが想定する以上に、何の制約もない、複雑な言説による相互作用を通して、組成されてゆく。

逆に現実には、制度がその要目や基盤の点で現実味を失い始め、それゆえ、個人に依存してゆくようになる。労働組合や政党は、「上の方」や「下の方」という階級意識に基づいて綱領や成員資格、権力を作り出してきたために、制度のなかにそうした失われた階級意識を取り戻そうという試みが始まっている。

家族に関する解消しだしたポスト家族的多元論が旧来の概念のボトルの中に注入され、栓をされ、倉庫に収納されてゆく。要するに、互いに反映しあうことのない二重の世界が出現し始めているのである。

つまり「一義的」モダニティと「両義的」モダニティという、二つの異なる時代に属する対立や権力闘争、手段、活動の舞台から構成される混沌とした世界である。一方で政治的空洞化が、他方で、政治的なもの、制度的に依存しない復活が進行しはじめている。個人が社会制度に戻ってきたのである。」

「一見すると、ほとんどすべての事柄が、いま論じたことの反証になっているように見える。政治の舞台で議論されている問題点は政治的なものがきらめきを発することのできる起爆剤を、依然ほとんどもたらしていない。従って政党政治や協調主義といった上部構造から意思決定を引き出すことはますます難しくなり始めている。逆に政党や労働組合、利益団体といった同じような組織体は、体内的にも対外的にも、その分極化的特質と創造的、ユートピア特質をともに失い始めているように見える。

私見ではこうした診断は、政治と国家の同一視、政治と政治システムとの同一視というカテゴリーの誤解に起因している。こうした誤解を訂正しても診断の部分的正しさが失われるわけでないが、やはり診断は正反対になるだろう。議会や政党、労働組合などの、政治の場として規定され、正等に権限を付与された行為主体が執行してゆく舞台の中に、人々は政治を見出そうとしてきたのである。こうした見解においては、かりに政治という時計が止まってしまえば、政治的なものも、全体としてみれば既に時を刻まなくなってゆく。この場合、次の二つの点が見過ごされている。」

「まず、統治装置とその補助機関が行動の自由を失っていることは、社会の考えられる全てのレベルで付随的に行為者の機動性をまさしく高めてゆくこと。つまりサブ政治の活発化によって政治が次第に消滅してゆくのである。政治を上のほうから眺めながら結果を待ち望むだけの人は誰もが政治的なものの有する自己組織性を見過ごしている。この自己組織性は社会の多くの領域を、それどころか全ての領域を--少なくとも潜在的には--「サブ政治」という面から動かしてゆくことができる。」
               
「政治の再創造」ウルリッヒ・ベック著

この後はさすがに長ったらしいから飛ばしますけど、もう一つの点としては、Uベックは既存の工業社会の中で自らを条件付けてきた政治制度や政治主体は二つの異なる時代の前で個々の問題についでお互い矛盾しあう対策をとり始めると言ってます。(自分流に例を挙げると一方で社会のネット化を促進しながらもう一方で知財の囲い込み、言論規制を図る様なちぐはぐな態度)

サブ政治化という概念に既存の政治を超える可能性を見るかそれとも新たな部族化の場所が広がっただけとみるかは人それぞれでしょう。ただ、物事が両義的な時には
可能性もある。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9.0.1) Gecko/2008070208 Fire...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

経済的に弱者でりかつ粒子化した人にとっての社会運動について
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/21(月) 12:55 -
  
二つ目のレスです。だんだん、多様な含みのある内容になってきたため、
単刀直入にレスができなくなってきてるのです。今回の話は非常に
自分に近い所からの話です。

>ところが、これには落とし穴がありました。
>それは、新自由主義に乗っかりやすい点です。
>
>セクシュアルマイノリティの運動体は、自ら運動を作る力がありません。
>新自由主義が台頭してくれば、それに乗っかり、自由を拡大しようとする人が現
>れるのは当然でしょう。
>それが宮台さんの『性の自己決定原論』に代表される部分です。
>http://www.arsvi.com/0b/980417.htm

宮台氏に対して「あんた自身恵まれたところから発言してるだろ」なる批判は
ブルセラ少女にかんする本が出た頃から各方面でおこりました。まあ、そこに
啓発される話が少しでも含む限り、私は言ってることに耳を澄ます事にしています。

彼の言う前提は今から考えると日本人が豊かであった(自己選択権があった)から
成立していた議論です。しかし批判を彼のみにするのは間違いでしょう。彼が最初に
言論界で現れたころ、論壇で活躍していたニユーアカデミズムやフェミニスト全員が
日本人が豊かであることを前提として(コムデギャルソン吉本隆盟の系譜の上で)
議論していたのが事情ですから。

個人はその置かれた社会的制約化から完全に免れて議論できません。だけど少しでも時空を越えて伝達されてくる(郵便的誤配されうる)議論があるならそこから学ぶというのは弱者が自己の立場に埋没しないために意味があることです。

>それと、「私は私、あなたはあなた」の世界について、私が問題を感じたのは、
>かつてアメリカで議論された「リベラリスト vs コミュニタリアン」の件に通じ
>る「リベラル」の問題です。

ルモンドディプロに関する自分の引用を見ればわかるように、アメリカ人は階級分析がまるで出来ないという欠点をもっています。1930年代の頃まではオルターナティブ経済学が活躍する余地があったのですが。(ヘンリージョージやCHダグラスなど)だからといってリチャードローティが揶揄するほど大学左翼全てを無効だとも思いません。いっそのこと1930年代オルターナティブ経済論と現在の大学左翼の理論を重層化して読むというのもアメリカからもう一つの可能性について引き出す手かもしれません。


>要するに、個人が粒子化するため、連帯/団結する機会を失う点、そもそも人は
>人との関係なしに存在し得ないのではないかとの疑問があります。
>
>その上、安易に実践しようとすれば、運動強者には経済的に恵まれた人が多いた
>め、セクシュアルマイノリティの運動自体が「強者のための運動」になってしま
>う点です。
>そこで、私が思うのは、今、沸き起こっている若者によるラジカルな運動に「含
>んで超える」方が分かりやすく、有益なんじゃないかという点です。
>例えば、『自由と生存のメーデー』というタイトルには、「自由を求めれば生存
>が危うくなる、生存の安定を求めれば自由が制約される」現代社会への抗議の意
>味が含まれています。

>それとも、宮本みち子さんの『若者が社会的弱者に転落する』で明らかになって
>いる様に、今の若者の貧困の背景には、「今まで女性の働き方だった非正規雇用
>が若者全体に適用された」という部分があります。
>つまり、貧困を語る上では、ジェンダー抜きに語れないのは明らかです。
>http://shinshomap.info/book/4896916786.html

私は既に若くないですけど(1968年生まれなので今年で41歳)社会的立場から言うと宮本みちこのいう「若者」に非常に近い。


>それにも関わらず、この国の左翼運動はあまりにもジェンダー問題に対して認識
>が薄いのに対して、私は今でも腹立たしさを感じているのは確かです。
>
>私自身、若者が弱者に転落する点は、先の宮本さんの本で気付いていたため、か
>なり以前から問題化していたにも関わらず、私を頭ごなしに批判する左翼活動家
>が何と多かったことでしょうか。
>

この国はマルキストとナショナリストしかいないのかという自分の言い分はその状況への苛立ちです。自分もやたらしつこくマルクスを認めよとアジられて困ってしまいます。まあ、労働組合に入るのは個人の自由ですけど、それを嵩にきてアジられてもね。(主催者自体が「ジャンルを問わず、論争・口ゲンカ・おチャラけ・ボヤキ等、何でもOK」と言ってる掲示板で)

>今、社会の様々な部分で軋みが出ています。そうした軋みはまさに「今まで積み
>残してきた問題」から起こったものです。
>その中で「痛み」を受けている様々な当事者が「声を上げ始めた」というのが今
>の状況です。
>したがって、社会運動という観点で「今」を見れば、運動の主導権はかつてがん
>ばってきた左翼活動家から、多様な当事者に移ってきたのではないかと思います。


さて、自分は何が出来ますやら。自分はプルードンゲセル主義者ですけれど、こんなところで「基礎所得を実現せよ」などと言っても行政まで届きませんわね。ただ、上記のスレにもわかるように対話的公共圏ーサブ政治の活性化が実際起こりつつありますので、そこに何がしかの言葉が届けばたとえここで野垂れ死にしてもそれはそれで本望かと思います。(貧乏な中でさびしく死んでいった社会主義者は数多いですから
官憲に殺されるよりは未だマシな死に方ともいえます。)
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9.0.1) Gecko/2008070208 Fire...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

基礎所得-タイムダラーの挑戦
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/21(月) 15:36 -
  
ここから先は地域通貨の話をします。上記二つスレが折角、私が最初に問うた設問に合わせてマイノリティ運動が経済的強者の運動になってしまうことに対するレスが返されているのに、基礎所得論者であるはずの自分が、「強者の発言にも学ぶべきところがあれば学ぶ」「今は社会的変換点なのだから止む終えぬ」みたいに発言していたのではしゃれになりません。それでも社会主義者だろうか?

ただ、ここで紹介する地域通貨は解決案になっているのか私にも懐疑的です。それで問題を実際に解決した具体例を私自身が知りませんので。

まずはゲセル研で発行しているWAT札(今では電子マネーとしてもネット上のみで
流通してるバージョンもあります。)クレジットの方はなんと誰でもネット上からダウンロードして印刷可能です。(誰でも偽札作り放題です。)では、どうやって信用を形成しているのかというと「手形為替法」に基づいて裏書によって信用を形成いたします。裏書は期限がないサービス提供契約になっています。本人が死ぬと次第に流通しなくなり(どこかに退蔵されて)そのまま効力を失ってゆきます。

WAT市場への参入し方はmixi方式です。誰かが裏書のあるWATを受け取るとその受け取った人の信用が加算されて市場を流通しはじめるという仕組みです。

地域通貨について語る時には二つの語り口が可能です。一つには歴史的に見られる中央銀行への貨幣発行の集中に対してその流れから外れた貨幣について語ること
例えば、1844年のピール条約(銀行券を発行する銀行は金担保かイングランド銀行券を担保としてもつこと)の圧力を跳ね返して独立性を保った北アイルランドの銀行やら、政府通貨の発行で英国本国からの独立性を確保しようとしたマン島の事例

もう一つは利子生み資本のメカニズムに反発して生まれたオルターナティブ通貨の事例です。歴史的に見た場合、アニメ「狼と香辛料」に出てくるように通貨を介さず信用取引を行う行商人は中世にいました。その時の交換比率の点数化をやり易くしたものが通貨です。(マルクスがいうような意味での物象化の結果生まれたわけではない)タイムダラーもそういう通貨の一つです。タイムダラーは前に紹介した中国における高齢者自身でのセル介護のための時間貯蓄と同じ考えから最初は生まれたようです。何かサービスをするとポイントが貯まり、別なサービスが受けられる。今では
非市場経済サービス--育児、麻薬常習者の社会復帰、スポーツのコーチ--など多くで支払われているようです。それにこれで食料配給サービスや公共住宅の賃貸(タイムダラー8点分)も受けられるようになったそうですから、実際生活できてる人もいるでしょう。

この通貨は現在の通貨と違って占有による窮乏状態がないようなので(勿論、利子による貸付もない)相互扶助は良い意味で人を生かすことに役立っているみたいです。
また、ドル支配がメインとなっているところでの隙間流通ですので受けられるサービスも限られており、麻薬や犯罪の支払いには無理なようです。

ゲセル研ではこのタイムダラーの創設者エドガーカーン氏を招いて何回かの泊まりこみ勉強会が過去にありました。エドガーカーンはこのタイムダラーが経済的に有効か検証するためにNBA数理経済学が幅を占めているアメリカを離れてLSB(ロンドン・スクール・オブ・エコニミクスまでわざわざ留学してきたそうです。(ケィンズもここに所属していた。)そこで多くの示唆に富む助言を受け、このアイデアは実現可能であるという確信を得たとか。

エオドガーカーン氏の本は日本でも翻訳されていますけれどそのタイトルが素晴しい
    「この世に役に立たない人はいない」エドガーカーン著 創風出版

(問い合わせ先 特定非営利法人タイムダラーネットワークジャパン
  〒791-8025 愛媛県松山市衣山5丁目1540番地1 )
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9.0.1) Gecko/2008070208 Fire...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

補足説明
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 YUKI E-MAILWEB  - 08/7/21(月) 17:25 -
  
人の長文を読むのは辛いと分かっているので、いかに短くまとめるか工夫しています。
多分、徳永さん以外には分かりにくい部分もあると思うので補足説明します。

◎当事者の最先端について
「クィア理論」を現実の世界で実践しようとすれば、「私は私、あなたはあなた」の世界になる点については、もちろん「運動」の形をしている訳ではありません。
http://www.barairo.net
上記は多分、代表的な当事者でしょう。
ただし、私としては、書いてあることはまともだと思うものの、当人そのものをあまり支持できないのです。
それは、当人が良く言えば、アナキスト、悪く言えばファシストに近いというのが感想だからです。

◎「プチ乙武洋匡」現象について
まず、第一の風景として、自治体の人権施策やメディアに乗っかった部分からは利益が得られます。丁度、「プチ乙武洋匡」と言っていいかも知れません。
私は、それが悪いとは言いませんが、問題点として、「一部の当事者だけがしゃべっている」、その結果、「それ以外の当事者の発言が制約される」という事態が発生します。

以下は厳密には当事者ではないものの、自治体の人権施策で「食っている」例です。
http://homepage2.nifty.com/akira-na/
そもそも「男性の問題」というのはほとんどが「労働問題」であるにも関わらず、それを「ライフスタイルの問題」とするのは欺瞞と言ってもいいと思います。

第二の風景として、当事者団体の目的が「自治体から予算の分配を得る」ことに変質しやすいです。
それは、極端に言えば、「親方日の丸の温情に預かる」ことが目的となり、当事者のために体制と闘うという部分が欠落するため、最も苦しい立場の当事者が見殺しになる結果を招きかねません。
その証拠に、当事者が起こした労働問題に当事者を代表する者や当事者団体は「何もしなかった」ことにも現れています。

◎一部の当事者による運動支配について
「世間ウケのいい運動」にしようとすれば、以下の問題に陥りやすいです。

1.世間ウケのいい当事者イメージを捏造しようとします。例えば、純愛志向のゲイカップルとか、大和撫子的なイメージを体現しているトランスジェンダーなどがそうです。

2.「メディアや大衆にウケのいい当事者を先頭に、ぞろぞろと他の当事者がついてくる」というスタイルになりやすいです。

運動団体などで、上記を実現しようとすれば、ヘゲモニー(主導権)を取った当事者や当事者集団が、他の当事者を統制しようとします。

例えば、先に例示した『東京プライドパレード』で言えば、「東京プライドは、彼ら政治家を単なる参加者としてではなく、バナーを持たせて先頭を歩かせたり、先の参議院選挙で落選した尾辻を、東京プライドが用意した先導車に乗せたり、パレードの最後に各政治家に演説の機会を与えたりなどし、優遇・特別扱いをした」「設立総会の会場を理事の一人赤杉康伸のパートナーである石坂わたるが区議会議員選挙に立候補する中野区に設定した」(wikipedeiaより抜粋)にも現れています。

一方、『自由と生存のメーデー』は「政治家が参加しても発言の機会はあえて与えない」としているし、昨年参加した福島みずほさんに対しても特別扱いしていないなど、その辺は「分かっている」と思います。
※『自由と生存のメーデー』はプレカリアート(非正規雇用労働者)によるデモの名称

以下の批判は大体正論だと思います。ここでやり玉に上がっている当事者がかつて戸田さんの盟友だったというのは皮肉かも知れません。(ただし、今は関係ないと戸田さんに確認を取っています。)
http://barairo.net/works/index.php?p=66
引用なし
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X Mach-O; ja-JP-mac; rv:1.8.1.16) Gecko/...@118x240x206x101.ap118.gyao.ne.jp>

またまた難しい話をする人ですね。
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 ねこかぶり  - 08/7/21(月) 18:10 -
  
尊敬の念をこめて‥
わたしゃ、そんな難しい話をすることは出来ませんので

▼徳永基二さん:
>ここから先は地域通貨の話をします。上記二つスレが折角、私が最初に問うた設問に合わせて
>マイノリティ運動が経済的強者の運動になってしまうことに対するレスが返されているのに、
>基礎所得論者であるはずの自分が、「強者の発言にも学ぶべきところがあれば学ぶ」「今は
>社会的変換点なのだから止む終えぬ」みたいに発言していたのではしゃれになりません。
>それでも社会主義者だろうか?

まぁ、社会主義者かどうかは自分自身の自覚において決めてください。
そもそもわたしも自称ケイジニアンなんですから(笑)

>まずはゲセル研で発行しているWAT札(今では電子マネーとしてもネット上のみで
>流通してるバージョンもあります。)クレジットの方はなんと誰でもネット上からダウンロード
>して印刷可能です。(誰でも偽札作り放題です。)では、どうやって信用を形成しているのか
>というと「手形為替法」に基づいて裏書によって信用を形成いたします。裏書は期限がない
>サービス提供契約になっています。本人が死ぬと次第に流通しなくなり(どこかに退蔵されて)
>そのまま効力を失ってゆきます。

まぁ、相続のない貨幣というのには賛成です。
そもそも経済的格差が相続されるのが問題で、公教育は無料でみな自由に受けられて
自己の能力を社会において十分に発揮できてこそ活力のある社会が生まれるのです。

>地域通貨について語る時には二つの語り口が可能です。一つには歴史的に見られる中央銀行への
>貨幣発行の集中に対してその流れから外れた貨幣について語ること
>例えば、1844年のピール条約(銀行券を発行する銀行は金担保かイングランド銀行券を
>担保としてもつこと)の圧力を跳ね返して独立性を保った北アイルランドの銀行やら、政府通貨
>の発行で英国本国からの独立性を確保しようとしたマン島の事例

地域貨幣にこだわる必要はないと思う。
世代間の格差の相続こそ防がねばならないことだと思う。


>ゲセル研ではこのタイムダラーの創設者エドガーカーン氏を招いて何回かの泊まりこみ勉強会
>が過去にありました。エドガーカーンはこのタイムダラーが経済的に有効か検証するために
>NBA数理経済学が幅を占めているアメリカを離れてLSB(ロンドン・スクール・オブ・
>エコニミクスまでわざわざ留学してきたそうです。(ケィンズもここに所属していた。)
>そこで多くの示唆に富む助言を受け、このアイデアは実現可能であるという確信を得たとか。

私はケインズ主義者(数学者としていい加減な端数切捨ては怒りを覚えるが)なので地域通貨の
意義について無理解なところがあると思うが、現在の資本主義には問題を感じるところである。
私としても解を求めたいのでもう少し具体的な説明をして欲しい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AD%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6
ここに記された数式程度に
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)@58x4x92x253.ap58.ftth.ucom.ne.jp>

68年について
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 ねこかぶり  - 08/7/21(月) 19:14 -
  
▼徳永基二さん:
>1、新しい社会運動を生んだ。
>例えばフェミニズム、ブッラクパワー、環境保護運動、産直活動など

そうですね。

>2、若者の反乱だった。
>これまでの社会、大人になり方について異議申し立てをした。
>国家ー企業ー家族こういうものの正常であると思われているあり方そのもの
>を疑問を付した。

そうですね。

>3、大学で学ぶということの意義を問うた
>学ぶ(study)とはなんなのでしょうか?それは権力作用なのかそれとは別個の
>何かなのか?とりわけ東大紛争が医学部封鎖から始まった意義は大きい。なぜなら
>医学ほど人との関わり方を問う学問はないからです。一方で医学は人を徹底的にもの
>として扱う(移植医療、人ES細胞の研究、DNAに関する特許など)その一方で
>人を救い出す。その中で研修医が劣悪な労働環境に置かれていることに対する疑問、
>それが医学部封鎖闘争へ結びついていったのでした。

それは最近のことで当時じゃなかったのでは?

>4、ベトナムで殺戮を行っている国家のシステムに組み込まれること、その中での
>平和を謳歌した市民社会
>近代市民社会がこれほどチャレンジを受けたことがあっただろうか?

ベトナム戦争が正義のものだったかを決めるのには早すぎるのでは?
ベトナム自体も決めかねているのに

>5、死について考えること
>ハイッデッカーやサルトルも考えているのだが、そもそも焼夷弾や原爆で無差別・かつ無目的に人
>が死ぬということを前にして如何なる思想、如何なる哲学が語れるのか

これについては考えさせられます。
軍人同士(徴兵されたにしろ)が殺しあうのにはまだ正義派感じら
れますが
関係ない一般市民が巻き込まれるのは大きな違和感を感じます。

>6、市民運動とは何か
>べ兵連の運動は市民が個人として自立的であることと社会運動の関係はどうあるべきなのか
>最も模索した運動だったと思う。新左翼はそこから何も学ばずにセクト化していったが。

うーん、私にも新左翼は良くわかりかねます。
あの方たちが何を考えて何を行動したのかを

>7、開発と地域社会
>公害問題にしろ三里塚にしろ、本来豊かになるために行われている開発がこれほど
>人々の生活を破壊する桎梏と化した時期はなかった。そもそも豊かさとはなんのだろう?

人間のためにあるのでしょう。
私はそう思います。

>8、市民社会の外部との関係
>入管法闘争に代表される市民社会から排除される者を前にどう立ち向かえば良いのか
>それに沖縄は日本の外部なのか?沖縄の基地の暴力に無防備に晒されている市居の
>人々の前で本土は何が出来うるのか?

そこらへんはわかりかねますので

>9、運動の意義
>豊かになり小市民化してゆく大衆とその中での学生運動組織の孤立、そもそも社会運動はどう
>あるべきものなんだろう?

運動とは常に大衆と一体にあるべきでしょう。
そこから隔離されたものはたんなるマスタベーションでしょう。

>10、歴史とは何か
>一番最初に主流な歴史に対して忘れ去れたものたちの歴史が認識された時代だった

そうだったのかなぁ‥
私自身体験してないけど、歴史を作るものが作った時代じゃないかなぁ‥
過去への郷愁は解るけどあくまでも郷愁に過ぎないのでは?

>11、カウンターカルチャー
>文化的であり想像的であることがそれ自体、社会に対しての抵抗になりえることが
>示された。

うーん、その時代のアメリカでは次の時代を切り開くだけの能力があった。
マイクロコンピュータをつくり、ネットワークを作り、今の文化を切り開いた
でも日本にそれだけの力があったかなぁ?
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)@58x4x92x253.ap58.ftth.ucom.ne.jp>

自分も若干、補足です
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/22(火) 0:09 -
  
>人の長文を読むのは辛いと分かっているので、いかに短くまとめるか工夫しています。

だらだらと長い文章ばかり書いて申し訳ない。

>問題点として、「一部の当事者だけがしゃべっている」、その結果、「それ以外の当
>事者の発言が制約される」という事態が発生します。

私の話をしている文脈ではないですが、この頃、発言しすぎだなと思っています。
(2ちゃんねるほど速いレスが必要な掲示板でないので、他の人の書き込みを妨害しているわけでないけれど)

>まぁ、社会主義者かどうかは自分自身の自覚において決めてください。

「社会主義者」であるかどうかはアナキストFAQにあるようにかなり厳密な
意味で語っています。

>まぁ、相続のない貨幣というのには賛成です。

現代の貨幣の最大の問題はある人が保有すると別な人が保有から排除されることです。そういう意味ではマルクスの「物象化」論は当たっています。物と資源は有限ですので。当たっていないのは、貨幣がものの如く磨耗しないことです。相続されて
もいいのですけど、持ち越し費用が掛からないと。

>地域貨幣にこだわる必要はないと思う。

”地域”には拘りませんけど、人の能力(この世に役にたたない人はいない)が適切な交換価値に出会わないことには拘らないといけません。これはインフレの薦めではありません。人々がその能力を使って提供できうる分だけの貨幣があればいいので。

数式化のほうが自分の能力からすると難しいです。(算数もまともに出来ませんから)物事を短くしたほうが逆にわかり難くなるいい事例です。

ですけど、数式化は不可能ではないですよ。小野義康教授の論理の範囲内で全て説明可能ですので。

あと、いくつか訂正(突っ込まれる前に)

>LSB(ロンドン・スクール・オブ・エコニミクス
>までわざわざ留学してきたそうです。
>(ケィンズもここに所属していた。)

ケィンズが生きていた時代はLSBはハイエクの拠点だったようでケンブリッジと激しく論争していたそうです。勿論、ケンブリッジ学派のケィンズは在籍してたことはありません。

(私は一般にアメリカ左派以外ではヨーロッパびいきで経済学は戦間期(1917-1935)を除きイギリスのものしか認めない。アメリカに経済学者なんて
いったけ?フリードマン?ああ、そんな名のイカサマ士が居たかな。)

因みに私、タイムダラーの話を例に挙げましたけれど、たまたま、身近にカーン氏が
書いた本があったから取り上げただけで、これに入れ込んでいるわけでもないことも
ここに書いておきます。タイムダラーの件はあまりにアメリカ的事情が関わりすぎているのです。

例えば、
カーン博士はケネディ、ジョンソン政権時代に政権の行政スタッフのメンバーとして活躍した人物である意味パワーエリートである。

アメリカでは学会、財界、司法、弁護士会、NPOなどの人脈の行き来が頻繁で民主と協和が入れ替わるたびにスタッフが大幅に入れ替わってゆく。

レーガン政権下の小さな政府の合言葉の下、予算が減らされ福祉、教育、行政サービスなどの各分野が人をボランティアに頼らざるを得なくなってきている。

アメリカは建国以来の精神でボランティア活動、NPOなどの活動が活発であり、募金も集まりやすい

このところの新自由主義で貧困格差が大幅に出来ており、食料配給制度や公的扶助を当てにしないと生きられない人が増えている

アメリカは日常的な揉め事の結審を陪審員制度に頼っており、弁護士や法律家の活躍範囲が広い

などの件がタイムダラーの普及の背景にあるのです。日本にも地域通貨はありますが
タイムダラーほど行政サービスと結びついた制度になっていません。ただ、西成区みたいなところなら普及する可能性はあります

http://www.osaka-cb.net/shokai/16_model/jigyo_0304_16.html
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9.0.1) Gecko/2008070208 Fire...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

クイア理論とフェミニズム運動について
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/22(火) 1:34 -
  
実のところ、私は第三世代フェミニズムがどんなものか知らないし、クリア理論の内実について知ってるわけではない。(そういう理論があると名前は聞いたことがある)

ところが何故だか知らないが、YUKIさんの関心ごとであるその理論と運動のすぐ脇を自分の語りは何度か素通りしており、いくつかは直撃してしまっているらしい。

例えば上の
「ジュディス・バトラー, ガヤトリ・スピヴァクの「国家を歌うのは誰か?」について」

「蛇足ついでになぜデリダに拘るのか」
「 非常に蛇足的な話なんですけど」
は別にクイア理論を意識して書いたわけでないのだが、その思想傾向に対する
批判となってしまっていて驚かざるをえない。
(世間の狭さ、いや哲学社会学界の思った以上の狭さというべきか)


「基礎所得がない社会で左派的主張を行うと、市民活動とは一部生活にゆとりのある層の活動にすぎなくなり、ニートやフリーターは排除される」
はべつにフェミニストを指して言ったわけでもなく日本の労働組合に対して
「丸山真男をひっぱ叩いてやりたい」を意識しつつ、自分の現状を照らし合わせて
言ってるだけなのだが、いろんな応用範囲を見つけてもらってありがたいことである。

自分が最初に宮台真司を引き合いに出したのは彼の分析力が武器として有効だったからで、彼のブルセラ女子高生について批判したいからでなかった。ところが自分の議論が80年代のニューアカとの対決の中から現代思想を鋭利な刃物に鍛えなおすという形で出来たものである以上、(しかもマルクス主義と対抗するために社会学、経済学、政治学などを含んだ総合理論であったために)図らずも、大学左翼の持ってる特質(マイノリティについて考えると言いながら実際の経済問題について無力な)を暴き出してしまうに至った。(それはなぜかYUKIさんの視点から見るとクイア理論とその運動家に対する批判に見えるらしい。)

自分がYUKIさんへのレスの中で言ってる話は大きくいえば次の点だけである
新自由主義に対抗するためには
「相対主義も含みつつなおかつヘーゲル的な総合理論である必要がある。」
「その話には経済学を含んでいる必要がある。」

私は「明日、ビラを配るから何枚用意して」とか「どこそこでデモを行うから
何人集めよう」などという話はしていないのである。

(要はプロバカンダーという役割の範囲内で議論している。)

だが、困ったことに運動論的な捉え方をされたようだった。それに対してアジテーターの自分が出来うることといえば、そこで話された個別事例を一般にも通じる
汎用論へと抽象化してみせること、だけだった。

だから、私は『東京プライドパレード』とかの件に関してマフェゾリの部族化概念を適用し、これに対する解読剤として個人化した人のサブシステム化なる概念を示したのである。因みに私はリスク社会論ーリスク状況の中で個人が社会から脱属領化され、リスクをこれまでなかったような形での処理を迫られている-までは理解できるがサブシシステムとは具体的にどういう状況なのか知らない。

私が理解できるのはこれまで在ったことか、今の現状かであって、未だ未完の現在進行中出来事を具体的に描写できうるほどの能力値はない。だから丸写しなのだ。

後、付け加えておくなら私も社民党員なので選挙で市会議員の候補の選挙を手伝ったことがある。(岡元幹事長から頼まれたら断れない。)尾辻かな子氏とはその時なんどかニアミス的に出会っている。だが彼女がフェミニズムの中でどういう位置を占めているのか知らないし知る気もない。(私は特定の市会議員を悪し様に言うことはない。)YUKI氏の話から引き出すのは単なる一般的な教訓だけだ。自分が例としてあげたタイムダラーの話にもおそらくYUKI氏の話と同じような構造がありそうなことを
私は示唆した。だが、貨幣を持ってくるためには(たとえそれが銀行券でなくオルターナティブ通貨であっても)何がしかの形で行政と交渉が必要なのも事実だ。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.9.0.1) Gecko/2008070208 Fire...@i219-167-42-192.s02.a027.ap.plala.or.jp>

ありがとうございます。(そんなに遠くない)
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 YUKI E-MAILWEB  - 08/7/22(火) 4:14 -
  
徳永さんと私とでは、この件に対する問題意識ではそれほど遠くないと思います。
私にとっても、この掲示板で徳永さんと出会え、この議論ができたことが良かったです。
ありがとうございます。

さて、私としては『革命21』が多様性を言い出したのは前進だと言いました。

しかし、今の状況では、『革命21』の機関紙『コモンズ』をプレカリアートの運動で最前線に立っている人に見せても、「一部の人で勝手に盛り上がっている」との意見が多いですし、社民党に至っては「利用主義」と罵られています。

もちろん、私はこの状況を良く思っていません。
『革命21』や社民党に関わっている人たちは、この落差を直視する必要があります。

私が思うに、『革命21』や社民党が「本物」になるためには、それこそ、プレカリアートや障害者はもちろん、ニートやセクシュアルマイノリティなど今まで「縁辺」と言われていた人びとが前面に出てしゃべっているくらいでなければいけません。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X Mach-O; ja-JP-mac; rv:1.8.1.16) Gecko/...@118x240x206x101.ap118.gyao.ne.jp>

「補足説明(YUKIさん)」への質問(本人から)
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 ひびの まこと WEB  - 08/7/22(火) 23:29 -
  
YUKIさん、初めまして。
サイトを紹介していただき、ありがとうございます。
ばらいろネット(http://barairo.net/)のひびのです。
ええと、「当人が良く言えば、アナキスト、悪く言えばファシストに近いというのが感想」と書いていただいたのですが、具体的に私のどういった言動からそういう感想をお持ちになったのか、教えてもらえるとうれしいです。他人が私の何を見ているのか、どう見られているのか、その思考の道筋を知りたい、という理由からです。
また同時に、「アナキスト」や「ファシスト」のYUKIさんの定義も教えてもらえるとうれしいです。
(定義次第では、YUKIさんのコメントはワタシ的には最大のほめ言葉になる場合もあるからです)
よろしくお願いします。


▼YUKIさん:
>
>◎当事者の最先端について
>「クィア理論」を現実の世界で実践しようとすれば、「私は私、あなたはあなた」の世界になる点については、もちろん「運動」の形をしている訳ではありません。
>http://www.barairo.net
>上記は多分、代表的な当事者でしょう。
>ただし、私としては、書いてあることはまともだと思うものの、当人そのものをあまり支持できないのです。
>それは、当人が良く言えば、アナキスト、悪く言えばファシストに近いというのが感想だからです。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X 10_4_11; ja-jp) AppleWebKit/525.18 (KH...@219-75-212-10.eonet.ne.jp>

この人を知ってます?
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 YUKI E-MAILWEB  - 08/7/22(火) 23:45 -
  
恐らく、ここはネット世界では辺境の地だと思います。
ま、アクセス解析を調べていれば分かると言えば分かるのですが、大変驚いています。

私としては、単に感性で言っているにしか過ぎないので、あまり深く追求されても困ります。
もし、気に触るのであれば、謝りましょう。

ところで、以下の映像はご存知でしょうか?
http://jp.youtube.com/watch?v=l2C9lv5t0yQ

詳しく説明するのも手間なので、以上の映像の紹介で省略します。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X Mach-O; ja-JP-mac; rv:1.8.1.16) Gecko/...@118x240x206x101.ap118.gyao.ne.jp>

あんまり過剰に防衛反応したりする必要はないです
←back ↑menu ↑top forward→
 ひびの まこと WEB  - 08/7/28(月) 0:58 -
  
YUKIさん

まず、私の書き込みは単純に質問をしています。
あんまり過剰に防衛反応したりする必要はないですよ。

それから、公の場での発言に責任をとるというのは、政治をする者の基本です。
特に、YUKIさんのように、匿名ではなく発言するのであれば、自身の言動に責任をとることは政治の第一歩だと私は思います。

それにそもそも「もし、気に触るのであれば、謝りましょう」という発想は、上からもをの見る見方です。
「気に障るかどうか」は、友人関係の基準ではあったとしても、「論争」をする時に、最も重視される基準ではないです。
自分が書いている/言っている内容が正しかったり自信があれば、自分が批判した相手がどんなに嫌な思いをしても、謝る必要はありません。

もしYUKIさんが、自分が書いた内容を「間違い」「問題がある」と思うのであれば、どこがどう間違いであるか、何故そういう間違いを犯したか、を明らかにして下さい。それが「謝る」ためには最低限必要なことです。
もし今でもご自身がお書きになった内容について自信がある・問題がないと思いであれば、先の私の書き込みにもあるように、具体的に私のどういった言動からYUKIさんの感想をお持ちになったのか、教えてください。
よろしくお願いします。


▼YUKIさん:
>私としては、単に感性で言っているにしか過ぎないので、あまり深く追求されても困ります。
>もし、気に触るのであれば、謝りましょう。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X 10_4_11; ja-jp) AppleWebKit/525.18 (KH...@60-56-60-168.eonet.ne.jp>

私は人との対等な話し合いを重視しています
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 YUKI E-MAILWEB  - 08/7/28(月) 4:57 -
  
ありがとうございます。

抱えている案件が複数あって、多忙だったので、返答がなおざりになってしまいました。

私の場合、人との対等な話し合いを重視しています。

当掲示板では「自由・論争」と銘打っているものの、私としては、他人と論争することを望んでいるのではなく、対等な関係性の中で気持ちや考えのやり取りを行いたいのです。

ネットの掲示板なんてそんなにかしこまったものではないし、ましてや、一部の人が言う「刺すか刺されるか」の様な緊迫したものではないと思っています。
むしろ、ネットは共有地であり、ネットに提示された文章は「みんなの共有物」であり、それを題材にして「ともに語り合う」ところに良さがあるのではないでしょうか。

私自身、よく間違うし、そんなに強くもありません。
したがって、他人から指摘され、自身も修正・変更する必要があると認めた場合は、すみやかに修正・変更していくつもりです。
気に障るのなら直すという態度も、以上の姿勢から出たものです。

さて、ひびのさんの問いに対しては、上記の話と関係があります。
まず、コミュニティを指向しているかどうか、社会と個人との関係性をどう考えているのかという部分で、アナーキストとファシストの両方の要素があるのではないかとの感想を持っています。
これ以上突っ込めば、有名な「リベラル=コミュニタリアン論争」を紹介しなければならないので、詳細は割愛します。
引用なし
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X Mach-O; ja-JP-mac; rv:1.8.1.16) Gecko/...@118x240x206x101.ap118.gyao.ne.jp>

お気楽にやってます
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 ねこかぶり  - 08/7/28(月) 17:51 -
  
▼YUKIさん:
>当掲示板では「自由・論争」と銘打っているものの、私としては、他人と論争することを
>望んでいるのではなく、対等な関係性の中で気持ちや考えのやり取りを行いたいのです。

私もものを言う割に無知なものですので質問ばかりしてます。
まぁ、失礼と思われるなら仕方ないことですが、そういう気持ちは毛頭ないです。
ただ言葉は発した途端自分の意図とはかけ離れた言霊となって他人に解釈されると
だけは意識しております。

>ネットの掲示板なんてそんなにかしこまったものではないし、ましてや、
>一部の人が言う「刺すか刺されるか」の様な緊迫したものではないと思っています。

ですよねぇ

>むしろ、ネットは共有地であり、ネットに提示された文章は「みんなの共有物」で
>あり、それを題材にして「ともに語り合う」ところに良さがあるのではないでしょうか。

御意
しかしながら自分の意図が言葉となった瞬間に自分の意図をかけ離れたものに
なることを注意せねばなりません。

>私自身、よく間違うし、そんなに強くもありません。

わたしもそうです。
間違いは間違いとして認めるのも勇気です。

>したがって、他人から指摘され、自身も修正・変更する必要があると認めた場合は、
>すみやかに修正・変更していくつもりです。
>気に障るのなら直すという態度も、以上の姿勢から出たものです。

御意
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)@58x4x92x253.ap58.ftth.ucom.ne.jp>

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