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君が代強制問題で:権力追随俗論への分かり易い批判点〜good2ndの日記から 戸田 06/12/10(日) 9:40
●判決で「精神的損害についての賠償命令」が出たことの意味:野田正彰氏 戸田 06/12/10(日) 9:58
●教員むしばむ『君が代神経症』:判決で認定された野田医師意見書の内容 戸田 06/12/10(日) 10:13
●広島事件の真相;君が代斉唱反対の校長を教育長らが自殺に追い込んだ! 戸田 06/12/10(日) 12:03
▽単位詐欺問題と日の丸官僚校長の腐敗。高校生自体の「責任」をも考える 戸田 06/12/10(日) 12:13
▲教育学自破壊の教基法改悪に沈黙の教育学者の腐敗。関係全諸法法改悪がすぐそこに 戸田 06/12/10(日) 12:33
▽心理学の歪み:インチキ研究の増大。「こころの教育」等のウソ臭さ 戸田 06/12/10(日) 12:38
◎教育基本法:平和主義と個人の確立。制定時に深い論議で否定されたものは・・ 戸田 06/12/10(日) 12:50
☆「国民全体に対し責任を負う」ことの意味と「させる教育」論の誤り 戸田 06/12/10(日) 13:07
▽畏敬の念と点数競争、厖大な評価項目の強制がもたらすものは・・ 戸田 06/12/10(日) 13:19
☆9/21判決の重み:野田鑑定書の証拠採用は上級審にも大きな縛りに! 戸田 06/12/10(日) 15:40
▽酷くなる心身症状。自責念の悲惨なメカニズム。強制は「いじめ定義」そのもの! 戸田 06/12/10(日) 15:52
●門真でも教師の受けている圧迫は同じ!教委は強制・圧迫を止めよ! 戸田 06/12/10(日) 16:05
Re:▽酷くなる心身症状。自責念の悲惨なメカニズム。強制は「いじめ定義」そのもの! 門真を良くして欲しい元市民 06/12/27(水) 2:26
↑教師憎しで筋違いな文句付けで平気な神経では門真は良くできませんよ 戸田 07/1/21(日) 11:16
◇9/21判決全文は「ニュースforPJ」HPで。このHP情報豊富で絶対お勧め! 戸田 06/12/10(日) 18:31

君が代強制問題で:権力追随俗論への分かり易い批判点〜good2ndの日記から
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 9:40 -
  
 日の丸・君が代押し付け問題を調べていたら面白いブログにあたったので、紹介します。
以下に批判されている俗論のほとんどは、公明党や緑風クラブなどの与党議員が門真市議会
でよく言っていることです。(民主党系の改革クラブも同様)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
good2ndの日記 http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20060923/1158980242
2006-09-23■自由を大事にしない人の多さに驚く

 国旗・国歌を拒否した教員に対する処分を違法とした判決を批判する声の多さが、ちょっと
意外でした。ここまでとはね。もちろん評価する声も多いので、かなり意見の分かれる問題だ
ってことはよくわかります。それにしても、学校の先生も嫌われてるんだなぁ…。

      国旗・国歌と「日本」の同一視
「国旗・国歌を拒否するのは日本を拒否しているのと同じ」「なぜ自分の国を愛せないのか」
から、「自分の国の国旗・国歌を敬うのは当り前」までバリエーションがありますが。
 象徴をその実体と同一視してしまう、という。あるいはそれは自然なことなのかもしれませ
んけど、「日本が嫌いだから拒否する」という主張ではないはずです。
にもかかわらず「いや、本当は日本が嫌いだからだろう」と決めつけてしまう。
 こういう人達が、何かあったときに自由を求める人を「非国民!」と呼ぶんだろうなぁ。

       自主と強制の区別がつかない
 「スポーツの国際試合などでは、歌うのが当然」
 これと比較しちゃう思考回路には、唖然とする他ありません。スポーツの大会で歌わなかっ
た観客は、処分されるべきなんですかね?
      代案
 「君が代が嫌なら別の国歌を提案しろ」とういやつ。やろうとしてる人もいるみたいです。
だけど、代案なんて出す必要ないです。単に「歌わない」という選択ができるのだから。

 続けて「世界のどこでも国歌を大事にしてる」と言われることもあります。様々な国で様々
な事情があるので、そんな単純なはずはないと思うのですが。しかし言いたいことは「こんな
変なこと言う奴がいるのは日本だけ」ということみたい。
「国歌・国曲のない国はない」とか。他人と同じじゃないと安心できない、という日本人ら
しいと言えばあまりに日本人らしい感覚。「はやく普通の国になりたぁーい」みたいな。
いーじゃんべつに国歌なくたって。スポーツの大会でも「いや、ウチは歌ないんでパスします」でいいじゃん。ユニークで素敵だと思うけどな、そういうのも。まぁ、僕自身がそう主張
するつもりはないですが、そういう可能性は絶対容認されないんだろうなぁ。

    「公務員は業務命令に従え」
 「歌うのが嫌なら教師をやめろ」「公務員なんだから国や都の方針に従え」というやつ。
 これは結構衝撃ですよ。そんなに上意下達が好きなのか。
 君が代を歌うために教師になったわけじゃないでしょ。「実は人にものを教えるのが嫌でた
まらない」とか言うなら、教師やめたほうがいいと思うけど。
 教師になるなら式典でそういう場面があるのはわかってたはず、という人もいますが、国旗
・国歌を、「処分」してでも強要するようになったのは比較的最近のことだし、学校の行事で
そういう場面があっても強要されることはなかったわけです。ちょっと嫌なこともあるけど、
年に数回我慢すればいいことだし、強要されるなんてことはないだろう、というふうに思って
たんじゃないでしょうかね。

 先生のくせにルールを守らないのは子供のためによくない、という人も。
 だけど今回の事例が言っていることは「不当なルールに従う義務はない」ということです。
憲法で保証された自由や教育基本法での「不当な支配の排除」のほうが、ルールとしては上位
にあるってことが、理解できていないのではないか。
 憲法に反するような指導やら命令やらには、従う必要なんかないのです(もちろん今後の裁
判では、反してるかどうかが争われるんでしょうが)。

 ですから「とにかく命令なんだから従え」という人は、一見秩序を大事にしようとしている
ように見えますが、法の上下関係など無視してしまっているわけです。あるいは、法や政府の
通達はすべて正しいはずだと思ってるのか(お上大好きなのか)。
 子供にとっても、不当な命令に従う必要がないと教えるのは非常に大事なことです。僕は、
それは礼儀なんかよりずっと大事だと思う。
 あと、この人達は当然、良心的兵役拒否なんて許さないんだろうな…。

    自由よりマナーが大事な人
 式典で君が代を歌うのがそんなにご立派な「マナー」だとは思いませんが、そこは讓るとして。「当たり前のマナーが守れない」とか「わがまま」とか「身勝手」とか。
 「自由」がこれほど平然と非難されてしまう、これには寒気がしてきます。
 式を積極的に妨害したなら処分されても当然でしょう。だけど「皆が歌ってるときに歌わない」だけのことを、そこまで「迷惑」と思うなんてね。異分子が存在すること自体が、彼らは
不愉快で許せないんでしょうね…。

 結局、彼らは自由よりマナーのほうが大事なんだろうな、と思う。僕には自由のほうが圧倒
的に大事ですけどね。と言うとすぐ「何をやっても許されるのか」と言われそうだけど。 
皆と同じようにしてほしい、と説得するのは構わない。だけどそうしない人を、積極的に妨害
しているわけでもないのに罰することはできない。それは許されない。

 他人の自由を阻害しない限り自由にしていい、それが近代社会の獲得した自由という価値だ
と思います。これって最も基本的な価値観のはずなのですが、それがあんまり大事にされてな
いんだな、と思って暗い気分になるわけです。なんだか。

   3万円ももらいやがって
 まぁあれだ、君が貧乏なのは政治が悪いからだよきっと。
 どうも、教員だから、公務員だからということで非難する人が多いという印象を受けます。
見ていて嫌だなー、と思うのは、政府や都のような所から発せられる「力」に対する鈍感さ、
です。自分にその「力」が向けられる可能性をまったく想定していない。まるで他人事で、
「オマエらちゃんとしろ」というだけ。それがたまらなく気持ち悪いんですよね。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20060925/1159151909
2006-09-25■びっくりしたよもう…

 こないだのエントリが、あんなにブックマークされるなんて。気が動転しちゃいますよ。
はー。深呼吸深呼吸。
 ブクマコメントやトラックバックを見ると、やはり意見の分かれる問題なんだな、と改めて
思いました。褒めてくれた人もいたので、嬉しいです。ありがとうございます。で、ちょっと
誤解されたかな?というところが若干あるので、補足しておきます。

 まず、とりあげたような意見を表明している人は実際に結構いますよ。個別に実例を挙げる
ことはしませんが、はてな以外のほうが目立つというのが僕の印象です。テクノラティでも Yahoo ブログ検索でもいいですが、結構ずらずら出てきます。実在しない仮想的、とは僕は
思っていません。
 マナーですが、僕だって普通にマナーを守って生活してますし、周囲にもマナーを守ること
を期待してます。だけどそのマナーが嫌だという人を、強制力をもって、内心の自由や信条を
曲げさせて、屈服させてまで従わせるのは、やはりこれは間違ってると思うのです。

 また、日の丸君が代の拒否が、もしも式典に対する積極的な妨害として表現されるなら、僕
は支持しません。適切な処分も必要でしょう。ただ今度は「積極的」の範囲が問題になるでし
ょうけど。
 あと注記に書いたことですが、僕は実生活で期待されている責任も義務もそこそこ果たして
社会生活を送ってます。ご心配なく。「自由と責任がセット」「権利と義務がセット」という
観念って、別に有史以来ずっとあったわけじゃないだろうと思うし、だったらどこかで発生し
たんだろうな、それはどこだろうって疑問です。

 「自由」より「妥当性」の問題、というブクマコメントがありましたが、本来ならそういう
問題のはずなんだと僕も思います。つまり、公務員の権利は確かに制限されていますが(スト
ができないとかね)、その制限は必要かつ合理的でなければならないはずです。いくら制限し
てもいいわけじゃない。
 だから式典での君が代斉唱の強制が、そういう制限として(憲法や教基法に照らして)マト
モかどうかってことで、もちろん僕にはマトモとは思えません。が、これまでの裁判を見ると
、今後の裁判では「いやマトモだよ」という判決が出る可能性はかなりあると思います。それ
から、マトモだと言う側の説得的な議論も読んでみたいとも思います。

 なんですが、「反日だ」とか「マナーだから守れ」とか「嫌ならやめろ」とか、そういう批
判が多いのは嫌だ、ということです。そしてそこには「自由」の軽視があるのではないか、と
思ったんです。

 それから、子供にはいろんなことを強制してるくせに、という話が出てきてますね。もう全
然判決とは関係ないと思うんだけど、これはもうちょっとややこしい話ではあると思います。

 ただ、僕達の社会では子供の自由はかなり制限されていて、それは学校に限らない、という
ところは無視してほしくないです。酒も煙草もエロ本もダメなんだし。子供にだって不当な命
令に従わない権利はあると思いますが、大人と同じだけの自由を認めるのは子供のためにもよ
くない、ということが基本的に合意されていると考えます。

 学校でなされている子供に対する指導が、それぞれマトモかどうか、不当でないかどうか、
というのは、それこそ個別に批判していくしかないのではないでしょうか。あるいはもっと根
本的に学校制度そのものがいかんというなら、何かいいアイデアが出てくれば面白いと思いま
す。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@i58-89-133-247.s04.a027.ap.plala.or.jp>

●判決で「精神的損害についての賠償命令」が出たことの意味:野田正彰氏
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 9:58 -
  
パワー・トゥ・ザ・ピープル!! http://wind.ap.teacup.com/people/1090.html
 東京地裁判決を受けて、共同代表のお一人である野田正彰さん(精神科医)からメッセージ
を寄せていただきました。

●強制されるのは、良心の教師への暴力である

 九月二一日、東京都教育委員会による「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱する
よう義務づける通達について、憲法十九条の思想・良心の自由に違反し、教育基本法十条一項
の「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負う」にも違反すると
、東京地裁は判断した。
 その上で、通達違反を理由にした処分の禁止と、強制による精神的損害に対し、一人当り
三万円の賠償を都教委と東京都に命じた。

 ほとんどの新聞はこの判決を一面トップで報じ、後日、社説で解説している。
 ただし違憲料決の意義を述べるのみで、精神的損害についての賠償命令が出たことの意味に
気付いている記事、解説は皆無だった。

 通達による強制が始まって時間があまり過ぎていなければ、憲法・教育基本法違反の判断
で十分であった。だが通達の以前から強制は始まっており、その後の永い月日にわたって教育
委員会は教職員を精神的にも、身体的にも苦しめ続けてきた。

 私は強制の経過と、抑圧について「精神医学的意見書」を提出し、身体化された症状(消化
器の症状、頭痛、肩の痛み、全身塀息、持病の悪化、不眠、悪夢、夜驚など)および、感情の
不安定、抑うつ、自己像の変化について詳しく述べた。絶対にしてはいけないと考えている
ことを強制されるのは、良心の教師への暴力である。

 判決は「精神的損害を被ったことが認められる」と明確に述べ、東京都と都教委による加害
を認めたのである。

 これほども長時間にわたって精神的抑圧、教育委員会による教師いじめが行われてきたに
もかかわらず、緊急避難も認めず、この執勘な加害を容認してきた罪は多くの市民にあり、
十分に抗議してこなかった責任はマスコミにある。
 私は、思想・良心の自由を踏みにじる強制力が教師の精神をいかに破壊しているか、指摘
してすでに七年になる。この判決をもとに、権力による精神的加害に鈍感な社会について、
批判を鋭くしてほしい。
                             (関西学院大学・野田正彰)
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@i58-89-133-247.s04.a027.ap.plala.or.jp>

●教員むしばむ『君が代神経症』:判決で認定された野田医師意見書の内容
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 10:13 -
  
パワー・トゥ・ザ・ピープル!! http://wind.ap.teacup.com/applet/people/752/trackback
2006/3/23 教員むしばむ『君が代神経症』  VII有効資料

 野田正彰・関西学院大学教授(比較文化精神医学)の意見書が『東京新聞(06.3.23)
朝刊』「こちら特報部」に大きく取り上げられている。
 都の04年度の精神性疾患休職277人(在職者全体に占める割合0.48%。
(全国平均0.39%))
 教育意欲の破壊、「考える先生ほど辛い」、企業なら、職場の総点検を行う事態とも。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜                   
        教員むしばむ『君が代神経症』

 公立学校の教員で病気休職、とりわけ極度のストレス障害など精神疾患が増えている。
 背景として卒業・入学式の「日の丸・君が代」強制が見過ごせない。東京都をはじめ、
君が代斉唱を強制する教育行政が、教員らの精神をむしばんでいる側面もある。
 精神科医の野田正彰・関西学院大学教授が、教員らから聞き取り調査した分析結果から見
える実態とは−。 (松井 学)

「のどから胃にかけて太い杭(くい)を打ち込まれるような痛みが断続的に襲ってくる状」。
野田氏が、面談したある美術担当の女性教員は、心の苦しさをこう打ち明けた。
女性教員は、教員になった理由を「感じる、考える、つくり出すという創造的な人間の活動
の力を美術教育で育てたい。それは社会を再生させる鍵になる」と語った。

 しかし、そうした教育を許さない状況が生まれてきた。都立校教職員の君が代斉唱参加を義
務づけた二〇〇三年十月の「10・23通達」が出た後、君が代斉唱で立つ(斉唱)か座る
(拒否)かを考え続けた。
 結局、「座らない」という結論を出したが、生徒に「先生言ってることとやってることが違
う」と言われたら教員としてはおしまいだ、と苦しんだ。

 教委−校長−教員−生徒との上意下達の押しつけが、卒業式にとどまらず日常的に現場を支
配するのは、「教育の息の根を止めるやり方」と反発する気持ちは強い。だが、病気を抱えた
両親を扶養し、職を失うわけにはいかない家庭状況もあった。起立を選んだが、それで苦しみ
が解消する問題ではなかった。

■生徒の不起立も教職員の「責任」

 ここ数年、都立校の卒業・入学式では、子どもたちに君が代斉唱を強制するのはおかしいと
考えて、「国歌斉唱」時に不起立を選んだ教員ら三百人以上が、職務命令違反などとして処分
されてきた。不起立教員には「君が代は好きだが、教育に強制はなじまない」と考える人も含
まれる。思想信条や良心にまで踏み込んで、強要するのはおかしいという考えだった。

 ところが都教委は今月十三日、ある都立定時制高校卒業式で卒業生十数人の大半が君が代斉
唱で起立しなかったことを受け、新たに全都立学校長あてに「適正に児童・生徒を指導するこ
とを、教職員に徹底する」よう求める通達を出した。

「10・23通達」以後の流れからみれば、今度は生徒をすべて立たせ、歌わせようとして
いると映る。ある卒業生は話す。「自分たちが歌わなければ、先生が結果責任を負わされる」

 こうした息苦しさを増す教育現場が、教員らの精神にどう影響するのか。野田氏が精神科医
の視点で、精神疾患による病気休職経験者も含めて任意に面談した七人から聞き取った意見書
が先月末、東京地裁に提出された。先の女性教員はこの一人だ。

 日の丸・君が代を強制する都教委の通達や職務命令に対しては、都立校教員ら二百二十八人
(現在は約四百人)が原告となり、〇四年一月、都教委と都を相手取り事前救済を求めた訴訟
を同地裁に起こした(強制に従う義務がなく、処分もしてはならないことを確認する「予防訴
訟」)。意見書の七人も原告だ。

 野田氏は先の女性教員について「本来、急性ストレス障害は一過性だ。ところが、『君が代』
強制は毎年、卒業式、入学式、周年行事等のたびに繰り返される。不安が取れることがない」
と分析する。

■「自ら命を絶つ」イメージ浮かぶ

 クリスチャンとして、「君主」を讃(たた)える歌を歌うことができないと考える男性教員
の場合は、不起立したことで減給、異動といった不利益や、「再発防止研修」を受ける立場に
なった。自分の将来について、次の卒業式まで何とか持つのだろうかという不安感を持つ。
 一番の心配は、自分で自分の命を絶つのではないかとの思いで、「首をつっているイメージ
が浮かんでくる」という。

 神経症の診断を受けて薬をのみ、自分の感受性を鈍らせることで対応しているが、「自殺念
慮で、手段や具体的イメージまで浮かんでくるのは極めて危険だ」と野田氏は心配する。

 音楽教員の女性は、「10・23通達」以降は「歩いていても『君が代』が聞こえてくる」
ようになった。卒業式でピアノ伴奏をする音楽教員は、特に生徒に斉唱強制を促しかねない
“加害者”の立場にもなりうる。

 女性教員は、音楽準備室に入り込んでくる虫(カメムシ)が「都教委に見え、見張りに来た
と感じる」ような思いに襲われる。

 すでに精神疾患によって病気休職を取った男性教員の場合は、自らの教育の集大成と考えて
きた卒業生の「答辞」が廃止されたことが最大のきっかけで、落ち込み、睡眠も取れなくなっ
た。
 この学校で答辞が廃止されたのは、〇三年度の卒業式で、代表の在日朝鮮人生徒と日本人生
徒が「日の丸・君が代の強制には納得できない」と答辞で述べたことが原因とされた。

 別のクリスチャンの女性教員は、職を失うか、従順に従うかとの葛藤(かっとう)がある。「以前、『君が代神経症』という言葉を聞いた時は、少し大げさではないか、自分はそのよう
な状態になるほど純粋ではないからと聞き流していた。しかし、今はそれが身近なことに感じ
ている」

 文部科学省によると、東京都の公立校教職員で精神性疾患による休職者は
 〇三年度が二百五十九人(病気休職全体は四百三十三人)、
 〇四年度は二百七十七人(同四百六十四人)いる。
約五万八千人の在職者全体に占める割合は〇四年度が0・48%(全国平均0・39%)だ。
 さまざまな教育改革に追われ、肉体・精神的な多忙から全国的に増加傾向を示すが、都は
全国平均を上回っている。

 野田氏は「わずか七人に会っただけだが、いずれの人も極度のストレス障害の状態にあった
」と病気休職に至るケースが氷山の一角だと明らかにする。「どうしようもない吐き気」とい
った身体の症状、感情の不安定、抑うつ、「自分は無用な人間だという感覚」といった自己像
の変化が共通の症状という。

■企業なら職場の総点検行う事態

 意見書をまとめて、野田氏は「(精神疾患の多さは)企業なら大問題であり、人事の役員は
各職場のマネジメントの総点検を行うに違いない。倒れる社員が続出する企業から、優れた製
品もサービスも生まれないからだ。
 ところが教育行政は教育改革と叫んでいれば、教育意欲の破壊は無視される。
 不健康のデータは何が起きているか物語って余りある」と指摘する。

 教育現場に詳しい大内裕和・松山大学助教授(教育社会学)は「考える先生ほどつらい。
教員は子どもに教えるという仕事の性質上、自分の価値観、思想・良心と無関係ではいられな
い」と述べ、こう推測する。

 「今年の卒業式で初めて不起立した人もいる。生徒への強制にまで事態が進めば、教育の否
定だと考える教員が新たに出てきた。このまま見過ごしてはいけないという認識や、連帯の動
きが広がっているのではないか
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@i58-89-133-247.s04.a027.ap.plala.or.jp>

●広島事件の真相;君が代斉唱反対の校長を教育長らが自殺に追い込んだ!
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 12:03 -
  
  日刊ベリタ 2006年12月04日掲載  
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200612040923571

 「学校・子どもの危機と教育基本法の改悪 野田正彰氏(関西学院大学教授・精神科医)
が緊急反対行動を訴える」より抜粋
 
▽世羅高校校長自殺の真相 
 
 この愛国主義だとか教育の強制の一つの区切りをつくった国旗・国家法のそしてそれを誘
導した、広島の世羅高校校長の自殺の問題もまさにその典型であります。
 私もいろんなところで聞きますが、多くの市民の頭に焼き付いているのは間違った認識です。
 教職員組合と解放同盟の圧力によって、その板ばさみになって、あの校長は死んだというつ
くり話が浸透しているわけです。国会でそういうことを言った議員もいましたし、それを宣伝
した全マスコミに責任があります。 
 
 しかし、事実は全く違います。私の『させられる教育』(岩波書店)に詳細に書いてありま
す。亡くなった校長は「君が代」をやる意志は全くありませんでした。
 だから、文科省からきた辰野裕一教育長に対して手紙を書いています。「私は解放教育、
人権教育をやってきた人間として、身分制を称える歌を歌えということは、自分の中で、教育
者として矛盾を感じます。この矛盾をどういうふうに解決したらいいのかお教えください」と
いうものです。

 そして、彼は辰野教育長に散々脅される中で、当時の広島県はホウ・レン・ソウ(統一教会
がやっている報告・連絡・相談)とかなんとかで、それを強制して毎日、卒業式の君が代実施
に向けてどう取り組んでいるか、教育委員会に報告せよと言われていました。

 その中で、彼は学校の先生方に、授業を終わって5時過ぎたらお帰りください、と職員会議
をしている振りをしますからといって、職員会議室の電気をつけて9時10時まで一人で残って、電話がつながらないようにさせてですね、夜更けに一人帰っていたのです。 
 
 その人の帰ったところに教育委員会が電話をかけてきて、今日はどうだったかと聞く、それ
が辛くてうずくまって電話に出なかったそうです。そして、夜中になってから電話をかけてい
るんですよ、今日も何もありませんでした、って。

 亡くなる前の日は土曜日です。土曜日の夜でも電話がかかってくる。彼は、夜中の1時半に
なって電話を取って、今日も会議で卒業式のことをしております、と言って電話を切っている
んです。
 その彼のところに日曜日の朝、教育委員会の人事の課長か誰かが押しかけて行ってですね、
その1時間半後かに納屋で首を吊っているんです。これは明らかに殺人です。 
 
 私は今回の本(『子どもが見ている背中』の序文の書き出しでもこう書きました。「『君が
代』斉唱を拒んだ石川敏浩校長を、文部省から送り込まれてきた辰野裕一・広島県教育長らが
自殺に追いやった」。ただ、この1行を入れるために私は岩波の編集者と1ヶ月間ケンカしな
ければならなかった。
 「これは言いすぎだ」といって、ここまで言わなくても分かっているんだから、こういうき
つい表現はやめてくれませんかと言われました。やっと押し切りましたけども。
 新聞社に至っては、この1行は絶対に入れさせません。延々と削れないかと言ってきます。
これくらいですね、マスコミが事実をゆがめたことを隠そうとしています。 
 
 歴史は何十年前もたとえば満州事変がでっち上げられたこと、そういうことではなくっても
、この社会は事実をつくり変えて、それを利用するそういう社会が連綿とつづいてきているわ
けです。
 この石川先生の死は、もちろん辛いという意味もあるが、君が代に対する抗議であった。
 それを逆に国旗・国歌が法律で決まっていなかったから、死んだという話にすり替えるんで
す。これほど権力がやっていることは汚いことであるわけです。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@i58-89-133-247.s04.a027.ap.plala.or.jp>

▽単位詐欺問題と日の丸官僚校長の腐敗。高校生自体の「責任」をも考える
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 12:13 -
  
日刊ベリタ 2006年12月04日掲載  
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200612040923571

 「学校・子どもの危機と教育基本法の改悪 野田正彰氏(関西学院大学教授・精神科医)
が緊急反対行動を訴える」より抜粋 

▽単位詐欺問題 
 
 今回の単位詐欺問題でも、一貫して同じパターンでやっているといえます。構図は同じです
。全部校長がやったという形で言っています。とんでもないわけで、私は10日前に広島の問
題を聞いて書きました。
 広島は、2001年8月に外部からの通報で単位詐欺問題が出されているんです。

 このときの教育長は、常磐というやはり文科省から来た人物です。それまでは文部省からき
た元特殊教育課長だった辰野氏です。彼により文部省直轄の是正指導が入っているから、いか
なる脱法行為も許さない、学校の先生方を追い込んでいきました。

 しかし、その彼の下で、単位詐欺は進行していたのです。そして、01年8月バラされて県
立14校がそうであることが発覚しております。 
 
 そういった辰野氏も常磐氏も本省に帰っているんです。帰った人間がやっていて、今回の問
題が起こったときに文科省からきている関教育長の下で広島の教育委員会は、5年前にあった
から広島県は今回ありません、と言いました。それが2週間たってから暴露されたんですね。
 暴露されたのは府中高校です。
 その校長たるやこの春まで長いこと辰野の下で、県教委の指導第2課の校務指導官であり、
ナンバー2のポストにいた男が校長に行っているんです。 
 
 これは全部グルじゃないでしょうか。
 文科省と教育委員会とそして,そのエージェントであって教師いじめに功績のあった人が校
長に行ってやっている問題であります。
 その盗人が問題の処理をする、というそれが教育再生であるといわれている、こんな狂った
社会の問題の捉え方はないと思いますが、それがまかり通っています。
 そして、いろいろな論評を見ていながら思うのは、一番私たちの社会が忘れていることは、
子どもたちの問題だということです。 
 
▽高校生に責任はないか 
 
 生徒たちの問題ですね、高校生にはなんの罪もない、可哀そうだと。試験が迫っているから
そういう話ばかりになっています。受験生に迷惑をかけてはいけない。本当でしょうか。
 高校生は罪がないんでしょうか。私はそうは思いません。
 高校生には明らかに責任があるし、罪があると思います。彼ら全員とは言わないけれど、
一部の高校生は知っていたはずです。
 他の学校に行っている中学時代の友だちとか予備校などで聞いて、どうもおかしい、いろい
ろ知っていたはずであります。親も知っていたはずです。
 それが、受験のための科目に絞るということを、それをうまくやっていると思っているわけ
です。 
 
 こういった校長は、マスコミには書いてありませんが、多くの地方の進学校の校長には、県
教委からお褒めのいい人間が行っているわけです。けっして学校の先生方が民主的に選んだ人
間が校長ではありませんから。そういうことも社会的に問題にされていない。
 その上に、子どもは責任がない、そんなはずがありませんね。高校生には明らかに責任があ
ります。
 しかし、その責任は100パーセントではないでしょう。2〜3割でしょう。あとの7〜8
割はこの子どもたちに指導要領がどういうふうになっていて、カリキュラムがどうであるかを
伝えなかった学校の先生方と校長の責任があります。 
 
 なぜそういうことを言うかといいますと、55年前に「児童は、人として尊ばれる。児童は
、社会の一員として重んじられる」、「すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会
の一員としての責任を自主的に果たすように、みちびかれる」と「児童憲章」を制定し、そし
て、今90年代には子どもの権利条約を批准している国です。

 この条約を見れば、はっきりと子どもが情報を知る権利、そして、思想・信条の自由の権利
、そして、意見表明をする権利を明記しています。国連・子どもの権利委員会は、日本では、
こういった子どもの意見表明権が軽視されているからそれを改めろということを批准後勧告さ
れている社会です。 
 
そういう中で高校生たちが一体なぜこの問題を知ることができなかったのか、知らすことをし
なかったのか、そういう責任が学校教育の中にあります。
 しかし、そんな話は全然出てきません。そして高校生たちはイノセントであると、無罪であ
ると、という話になっております。

 一体、20歳になったら突然、真っ黒けの大人になるはずがないでしょう。それまではピュ
アなニューボーンベイビーみたいな子どもがいてですね、突然安倍晋三氏のような人間になる
とかですね、そういうことはありえないです。

 それこそ、子どもの権利条約の中に書いてある基本思想はですね、人間は生まれたときから
基本的人権を持っており、そしてそれを発達と共に、そういった権利が広がっていく、その年
齢ごとに基本的人権は保障されないといけないということを明記しています。 
 
 しかし、私たちの社会は、そんなことはこれっぽちも大事なことと思っていないんです。
 付け焼刃の人権の意識であるがゆえに、この問題が起こったときに、子どもにはなぜこの情
報が伝わっていなくて、子どもたちの意思決定がないがしろにされてきていたという問題点を
話し合っていません。
 ここに、私たちが政府によって、社会によって捉えられている現代の非常に恣意的な歪んだ
矛盾した子ども像がよく表れているんじゃないかと思います。 
 
 現代の子ども像というのをひとことで言うと、イノセントな無垢な子どもとモンスターのよ
うな子どもとかが並存ですね。電車に乗っていて突然かなづちを振り上げたりするというんで
すね。
 そういうことをキャンペーンして、何をするかわからない鬼のような子ども、道徳心がない
何をするかわからないという子ども像とそれからイノセントな子どもがいて、だから学校では
クラブ活動に打ち込みなさいと。非行に走ったらいけないから、クラブ活動をやりなさい式の
、これもイノセントな子ども像です。

 何かに打ち込んでいる少年、少女の姿は尊いといって、市民として子どもを育てる、子ども
が成長をしていくんだということを認めるということではないんですね。 
 
 学校、中等教育の中で靖国の問題にしても、北朝鮮の問題にしても、核の問題にしても一つ
一つ自分なりに情報に接近して、意見をつくっていく、そういう教育が完全に阻害されていま
す。
 その阻害というのは、無垢な子どもとモンスターの子どもに揺れ動いて、この矛盾を使い分
けする現代の社会の視線の中で、子ども像はつくられていっていると思います。 
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@i58-89-133-247.s04.a027.ap.plala.or.jp>

▲教育学自破壊の教基法改悪に沈黙の教育学者の腐敗。関係全諸法法改悪がすぐそこに
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 12:33 -
  
日刊ベリタ 2006年12月04日掲載  
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200612040923571
 野田正彰氏(関西学院大学教授・精神科医)の訴えより抜粋を続ける 

▽沈黙する教育学者 
 
 さて、教育基本法問題に入っていきます。状況は、強行採決するのかどうか予断を許しませ
んが、それに対して、国会前でハンストその他座り込みも行っております。教職員組合では、
日教組などが動員しながらよくがんばっています。そういった動きと外からの世論の動きに加
えて、一つは9月21日の予防(君が代強制反対)訴訟の勝訴というのもありますし、あるい
は安倍政権がべったりになっているアメリカの上院、下院選挙の動きとかそういうのがありま
す。
 キチッと闘いをつづければ、五分五分に闘いをできるのではないかと思います。そういう中
で教育基本法の問題を話したいと思います。 
 
 この教育基本法改悪の動きに対して、社会の動きの中で事態の何が、数年前と全然違うのか
なと、20年前30年前と全然違うのかなと思うんですね。一つは、一体、教育学部とか教育
学者は何をしているんだろうかと思います。みなさんもそう思われないでしょうか。
 みなさんが学んだ母校の先生たちは、一体何をしているんでしょうか。

 大きな大学の戦前からあった総合大学の教育学部というのは全部戦後つくられたんですね。
ご存知のように旧制の国家のための高等師範学校ではなくて、教育のあり方について研究し、
批判するための学部として教育学部というのはつくられたんです。
 それから同時にかつての師範学校も学芸大学として、その後70年代に教育学部と名前を変
えていきますが、教育研究その他の内容を変えたはずです。 
 
 つまり戦後、教育学というのは出発したんです。国家のための、子どもたちを叩いて殴って
型に入れるような教育ではなく、市民をつくるための教育はどうあるべきか、そして国家が教
育に介入することに対して、批判的な研究を行うためにつくられた学部であり、研究が教育学
であります。

 しかし今、この自分たちの拠って立つ学問の基盤そのものを覆そうとする法律がつくられよ
うとしているときに、何一つ反対の声明が行われていません。教育系の学部、大学で反対を言
ったところを私は一つも知りません。新聞でも報道されていませんからゼロだろうと思います。
 
 そして、周りを見ますと、たとえば私の住んでいる京都の京大の教育学部とか同志社の教育
学科とかを見ますと、およそ現代の教育のあり方について研究している学者はほとんどゼロで
すね。
 なんか「現代の映像」だとかですね、わけのわからん遊びの研究ばかりが名前に並んでいま
す。遊びが全部悪いとは言いませんけど、本業をやってから少し遊んでくれと言いたくなるよ
う状況にあるわけです。 
 
 そういう状況でたとえば、私の知っている限りでは大内和裕さん(松山大学)のような人だ
けですよね。そして、年配の堀尾輝久さんとか、大田尭さんのような皆さんと同じ上がり組み
の人が闘っているだけでですね。中間層は何一つものを言わない。だから、ちょっと堀尾さん
にいやみを言いますけど、あなたはいったい何を、誰に教えてきたんでしょうね。と言いたく
なるんですけど、まあこれは酷ですけど。 
 
 教育学者、教育学部が自分の存在を覆されるにもかかわらず、黙っています。
 この教育基本法が「改正」されたあと、教育関係のすべての法律が来年から横並びに変えら
れていくんですね。
 まず学校教育法が変えられるでしょう。次に地方教育行政法が変えられます。社会教育法も
変えられます。学習指導要領も当然変えてきます。それは、今よりももっと強く国家主義の方
向で変わってきます、それは教育基本法が変わったからという理由にして。

 それから図書館法にしても博物館法にしても変えてきます。当然、今主張しているけども教
育職員の免許制度も変えてきます。
 全部変えるんです。そういうのが軒並みこれからつづこうとしているのに、日本の教育学者
とか社会は、なんとなく呑気に構えている、我関せず、です。これほどボケた社会であります。
引用なし
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▽心理学の歪み:インチキ研究の増大。「こころの教育」等のウソ臭さ
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 12:38 -
  
日刊ベリタ 2006年12月04日掲載  
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200612040923571
 野田正彰氏(関西学院大学教授・精神科医)の訴えより抜粋を続ける 

▽心理学の歪み 
 
 それからもう一つは、現在の教育学とか教育関係者ですね、ものすごく心理主義、心理学者
が増えています。心理学のインチキ研究がたくさん増えています。心理学のゆがみには二つあ
ると思います。
 一つは、とにかく子どもと人格の全面的な付き合いをしていない人たちが、それが何かここ
ろというのを一つの部分として取り出して、テクニカルに操作ができるような、そういう発想
を広めていってるし、本人もそう思い込んでいるようですね、そのゆがみ。 

 もう一つは、心理学のグループがもっている統計的処理への無自覚的なのめりこみです。
さまざまな問題を全部統計的な処理をなしながら数値計算ができると思っています。アンケー
トをとってそれを5点評価するとか点数をつけたりして、その平均値をとって統計的処理をし
て、偏差値をとったら結論を出せる、おおよそ教育がもっていたものと思想が違います。 
 
 教育がもっていた基本的思想というのは、一回かぎりの人と人との出会いですね、人と人と
の人格のつきあいを大事にするというのが教育の基本なのです。それに少しは統計的処理とか
、人間の内面の心理的分析とか入れてもいいでしょう。
 しかし、常にそういったマスで人間との関係性を処理していく動きに対して、批判をもつの
が教育学のはずです。
 しかし今、教育学の中ですごく幅を利かせているのは心理関係です。さかんに人間を数字的
に処理しようとする動きに無自覚であります。これがコンピュータリゼイションの動きと合わ
さって、学校現場で先生方の多忙化を進行させているわけです。
 私は、いかにいい加減かを感じたことも、山のようにあります。 
 
 今年の春、毎日新聞の人と一緒に、佐世保の少女が同級生の首を切った小学校の「その後
1年」ということで行きました。
 学校もひどかったけど、その話をしている余裕はありませんが、ひどかったのは長崎県教育
委員会が1年間かけやった対応というのに絶句しました。

 長崎県の教育委員会は、1年半前かな突き落とし事件があってそのあと、例によってこころ
の教育だとか、カウンセラーの派遣とか、命の大切さっていうバカ3点セットを述べていまし
た。そのあとまたこの事件が起こってるわけです。
 そしてそこに東京学芸大学の助教授が、長崎県教育委員会に行って、子どものこころのチェ
ック表とかをつくっています。 
 
 20項目にわたってチェックの項目が並んでいます。たとえば、この子が自分の感情、怒り
、悲しみ、その他の感情を年齢に応じて・・・、ことばにして表現する力をもっているか、
とか、この子は、怒り、悲しみ、その他の感情を表現する力が年齢よりも劣って幼稚であるか
、あるいはこの子は、悲しいとか辛いという思いを、先生に伝えることができると思っている
か、とかずっと20項目並んでいます。 
 
 見ただけで私は、ゲーッとします。
 こういう形で平均化して人間の関係性をチェックさせる、そういう思想の下劣さにゾッとし
ますが、そういうのが並んでいるんです。
 そして、1年後にあった結論は大真面目にこう書いてありました。
 「このテストによって学校は楽しくなくても、それに負けないで生きる子どもが少し増えて
いる」と書いてあるんですよ。いい加減にしてくれと思いますけど、それをキチッとゴシック
で書いてありました。平気で書いてあるんですね。

 それに加えて、しかしながら先生の負担は少し増えているという声もある、と書いてありま
すよ。これが無責任社会の実態であります。数値化がずっと進行していってるわけです。 
引用なし
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◎教育基本法:平和主義と個人の確立。制定時に深い論議で否定されたものは・・
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 12:50 -
  
日刊ベリタ 2006年12月04日掲載  
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200612040923571

 「学校・子どもの危機と教育基本法の改悪 野田正彰氏(関西学院大学教授・精神科医)
が緊急反対行動を訴える」より抜粋 

▽教育基本法二つの柱──平和主義と個人の確立 
 
 これら一連の動きと教育基本法は、全然違うものだったということを、私は教育基本法を読
みながら、もう一度キチンと確認しておく必要があると思います。
 皆さんに回っている政府案との対比表を見てください。私は対比表は好きではありません。
教育基本法は非常に短くすっきりしていて頭に入りやすい。対比表にすると間が抜けてしまう
から別表にしたほうがいいと思います。
 釈迦に説法で私は分野が違いますから、そんなことをいう資格はありませんが、教育基本法
には二つの柱があると素人ながら思います。 
 
 一つは、前文に書かれた平和憲法の理想の実現は、まず教育によって行うと、これは交戦国
家、戦争国家であった日本の近代に対する強い反省のもとに書かれた文章ですよね。
 しかも、そういった戦争をしない平和のために貢献する人間は、単に政府や外交の問題とい
うだけではなくて、そういった人を長い時間をかけて教育の中でつくっていく、そういう市民
によってつくられた社会が、国際平和に貢献していくという思いでつくられている。 
 
 それから二つ目の柱は、個人の確立であります。
 私は、日教組の運動とか戦後の運動が「教え子を再び戦場に送るな」という一番目の柱につ
いては運動してきたが、個人の確立と書かれている面については、二番目の柱はちょっと弱か
ったと思います。 
 
▽教育刷新委員会の議論―個人の確立があっての公共 
 
 しかし、教育基本法前文では、「個人の尊厳を重んじ」「個性豊かな文化」と述べてですね
、個、個別性ということを非常にキチッと強調しています。そして第2条教育の方針では「自
発的精神を養い」と繰り返し強調しています。
 これほどまでに執拗に人間の個別性、個人を尊ぶ、そしてそういった個人が確立することに
よって、多様性を認める社会、多様な人間と人間が願ってつくっていく社会をイメージしてい
るわけです。 
 
 この二つを柱にした教育基本法の成立に関して、盛んにデマを流して、憲法がつくられたと
きに、GHQによってつくられた、そういっている人がいますが、教育基本法がつくられた過
程が記録されています。教育刷新委員会(審議会)のちに中央教育審議会と変わりますが、こ
の刷新委員会の全会議録が公表されています。しばらく手に入りませんでしたが、岩波書店か
ら全13巻で最近再刊されました。

 その文章を見ていくと、当時いかに深い討論の中でこの文章を確立していったかがわかりま
す。たとえば、当時の東京文理科大学長兼東京高等師範学校の校長であった務台理作さんが言
っていることをちょっとだけ紹介します。 
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
 人格の完成ということですが、そういう倫理的な言葉を使わないで、矢張り個人ということ
が大事だと思います。個人の尊厳とか、価値、そういうようなものを自覚さすようなこと、こ
れは個人を犠牲にしないということをよく現わすことと思います。
 個人を一番犠牲にするのは、誤った精神主義じゃないかと思います。つまり学行一致とか、
修練だとか言って学校にやたらに喰いこんで行った、ああいう教育が非常な禍をしたと思いま
す。
 個人を犠牲にせず、個人の自由というものを飽く迄尊重するという精神、そういう精神に教
育の理念が基づく。之をどういう言葉で言ったらいいか、私にも見当がつかないのですが、
兎に角それを見ることに依って、教育に関する者に実際に反省を促すような実感を持った言葉
が要るのじゃないかと、こういうように考えております。(第3回議事速記録) 
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
 こういうふうに言っています。あるいは別に第5回ではこんなことも繰り返し言われていま
す。これも務台さんのことばをつづけますと 

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
 私はこういうことを思いますが。公に仕えるということは非常に大事なんです。併し殊に国
際関係に立ったり、この非常な経済の難関を背負ったりして行くような為には、ただ精神的な
公に仕うということだけじゃいけない。もっと具体的に、近代的な意味で公に仕えるというこ
とでなければならぬと思うのですが、本当に公に仕える人間を作るには、やっぱり個人という
ものを一度確立出来るような段階を経なければならない。それが今迄日本に欠けていたのでは
ないか。
 西洋なんかは、やはりルネッサンスで、前回もいわれたように個人というものを発見して確
立した。それでああいう革命なども起っておる。そういうものを経て近代国家が出来、所謂近
代的公というものが成立したのですが、日本にはそういう西洋のような段階を歴史的に持って
いない。
 遅れ馳せだけれどもやっぱり西洋のように、個人意識と言うものを確立するという順序を経
て、公に行かないと、又すぐ反動化する。公に仕えるということで、非常に個人が縛られてし
まうというようなことが起りはしないか。(第5回議事速記録)と。 
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

▽教育基本法を葬るための「改正」案 
 
 こういう議論を積み重ねる中で確立したことばです。つまり、現在の自民・公明、民主の案
はですね、60年前の教育基本法の刷新会議、これぐらい全部記録されているのに、彼らがや
ったことは、誰が言ったのか、全然分かりません。60年経っていかに社会が歪んだか、遅れ
たかということです。情報公開と全く違うことが行われております。 
 
 そして今、政府案に書かれています公共心とか全部この議論の中で否定されたことが登場し
てるんです。ということは、教育基本法改定案ではなくて教育基本法を葬るための案であると
いうことです。反革命の案が現在登場しているということを、私たちはちゃんと見ないといけ
ないわけです。 
 
 当時の議論の中でなかった状況が起こっていて、それを付け加えるんだったらまだしも、
すべて議論、討論され、そういうものはいけない、そういうものは戦前の戦争国家で国民を国
家のパーツとして部品としてつくる教育につながったんだ、と議論されたことが、その条項が
今回の「改正」案に登場しているわけです。それくらい反革命的な教育基本法案です。 
引用なし
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☆「国民全体に対し責任を負う」ことの意味と「させる教育」論の誤り
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 13:07 -
  
日刊ベリタ 2006年12月04日掲載  
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200612040923571
 「学校・子どもの危機と教育基本法の改悪 野田正彰氏(関西学院大学教授・精神科医)
が緊急反対行動を訴える」より抜粋 
 
▽「国民全体に対し責任を負う」いうことの意味 
 
 私は2点あげましたけれども、後何点もあげていくことができます。たとえば、3点目にあ
げろといわれれば、社会において国家が介入するべきではない領域をいくつかちゃんともって
いなければならない、こういう思想の中で教育もまた、国家が介入すべきでなくって、個々の
教育する人間によって行われるものであるという国家の介入を拒否する条項であります。
 たとえば、今回の予防訴訟判決の教育基本法10条違反だといわれている教育というのは、
「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきも
のである。」という表現になっています。 
 
 「国民全体に対して」は、いろいろな議論があります。
 当時の表現で精一杯の表現だったと思われます。素直に読んだら、一体何のことかと言いた
くなることでもあります。

 「国民全体に対して責任を負う」そんなことが簡単にできるんですかと、「国民全体」って
どこにいるんでしょうか。一人ひとりの先生が国民全体に向き合うなんてことが、一体どうや
ってできるんですか、とまぜかえっしたくなります。
 しかし、ここに書いてあることは一人ひとりの教育にあたる人間が、自分の責任において創
意工夫をしながら、どのような市民に育ってもらうかと希望をもってぶつかっていく、それを
認めよ、ということですね。 
 
 それぞれの先生が長いこと勤めている間には、何となく意欲がなくなって疲れるときもある
でしょう。あるいは右寄りの先生も、左寄りの先生もいるでしょう。そういったことが問題で
はなくて、その先生が人格を懸けて子どもたちと全面的に付き合っていくこと、それを導いた
ことが、この条項に込められた意思です。
 そういうことが現在の教育基本法の論議にすべて忘れられています。 
 
▽横行する「させる教育」論 
 
 そういう現在の教育論のすべてに忘れられていることそして、私が言っていることの違い
は、お前も教育論を言っているじゃないかといわれるけど、私は数多の教育論とは違うと思っ
ています。 
 文芸春秋とかいろんなメデイアが教育論特集をしていますが、それらは全部「させる教育」
論です。私はしない教育論です。
 私は「させる教育論」を言っているつもりはありません。
 
 私は、教育はするものだと思います。
 自分が自分の子どもとか、回りの人にするものであります。それから学校の先生がするもの
であります。回りの人たちは自分のしない教育についてする人たちに支援することができるだ
けです。

 代わってさせるという教育論が、自分も子どもだったから、教育を受けたから、自分もでき
ると思ってですね、そして、自分のアイデアのもとに、させる、ということがずっと言われて
いるんです。

 しかし、教育はするもんであって、しない人たちは、している人たちに感謝しながら援助す
ることはできても、させるということは言うべきではないのです。 
 文科省とか文科学大臣とか教育委員会とか、しない人がさせる、と言っています。

 こういったことと違ってここに書いてある10条は、個々の先生が自分の創意工夫の中で、
主体的に子どもと関わって、そのことが尊いことだ、と国民が認めてそれを支えていく、とい
う条項であります。
 それがすりかえられて、「させる・させられる教育」論というのがすべてに横行していると
思います。 
 
 たとえば、夫婦が自分の妻、自分の夫なりが、完全な夫であるとか妻であるとか、議論する
人はいないです。いたらおかしいですね。そうでなくて、こんなところが好きだとか、こんな
悪い面があるとか、どうあろうとそこには一個の人格を言っているんです。
 しかし抽象化された夫があって、それがいいとか、悪いとか、それは崩壊しているとか、再
生しないといけないとかですね、そんなバカなことを、こういう基本的なことが食い違ったま
ま展開されているのが、日本の教育論だろうと思います。

 個々の先生が教育をしているのですから、それに対して感謝しながらそれをどうやって支え
ていくことができるのか、それについて話をするのはわかります。だけど、させるということ
を延々と言い、そのさせ方がどうだとかが議論されている社会の歪みというのを強く感じます。
引用なし
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▽畏敬の念と点数競争、厖大な評価項目の強制がもたらすものは・・
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 13:19 -
  
日刊ベリタ 2006年12月04日掲載  
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200612040923571
 「学校・子どもの危機と教育基本法の改悪 野田正彰氏(関西学院大学教授・精神科医)
が緊急反対行動を訴える」より抜粋 

▽畏敬の念への強制 
 
 こういう教育基本法のもっている平和と個人の確立に対応しながら、その二つとも根本から
掘り崩す動きがこの20年、80年代から着々と行われてきたと思います。今それがフラッシ
ュバックというかスピードを上げて行われている。一つは平和憲法の理想の実現は教育によっ
て行われるという主張に対してですね、その掘り崩しは、愛国心と国家主義のイデオロギーで
行っています。 
 
 一連のやってきたことは河合隼雄氏たちが「こころのノート」を配布して使用を強制し、道
徳教育を強要しています。それから僧侶たちとも一体になって宗教的情操の涵養の主張を行っ
ています。そして、日本の伝統なるものへの崇拝を、これはたとえば、京都では河合隼雄氏ら
の延長で京都の歴史検定というテキストをつくってばらまいております。
 今私たちは、それの裁判を起こしたところです。

 それから日の丸のバラまきと君が代斉唱、そして非合理的、神秘的なものへの畏敬の念への
強制が進行しています。学習指導要領の理科教育の中に自然、自然現象を学んで、そしてその
次の行には自然に対する、さまざまな現象に対する畏敬の念を養うと書いてあります。 
 
 教育というのは、私たちはさまざまな今分かっていることは何か、分かっていないことは何
かということを知って、そして分かっていない問題について自分なりの問いを出しながら一生
かけてその問いを深めていく、それが生きていくことの喜びのはずであります。
 
 しかし、日本の教育は違うんですね。風がどうやって吹くのか、川はどんなふうに流れてい
るか、その程度のことをちょっと覚えたら後は一気に神秘現象に飛びなさいと。そしてさまざ
まな自然を統合しているものに、なんらかの摂理があるんだということで畏敬の念を持ちなさ
いという話になってしまう。
 そしてそれが神道の天皇制の話に飛躍できるような体制を教えなさいというようなことが、
平気で学習指導要領の中に書いてあります。 
 
 その程度の認識ですから、カルトの占いがはやり、そして血液型診断とかなんとかに浮かれ
、平気になるんですね。そういう体制というのは、必ず学校教育と通底していると思います。
 こういったことが愛国心と国家主義イデオロギーのセットで進行している。平和憲法実現と
しての教育の掘り崩しが行われています。 
 
▽強いられる点数競争 
 
 それから二番目の個人の確立、市民としての個人の確立ですね、教育基本法が主張したもの
の掘り崩しは、競争と格差拡大の中で、着実に行われています。
 競争が何故に悪いのかと言う人がいます。少しぐらい考えてみたらいいと思いますけど、競
争には二つあります。他者と行う競争と、自己の限界に対するチャレンジとしての競争であり
ます。

 本来の競争というのは、自分の限界を気づいて、その限界を超えて自分の可能性がひろがっ
ていくことの喜びとしての競争は意味があります。しかし、他者との競争というのは、そこに
政治権力の意図があって、競争の仕方のルールがつくられていて、そこで人と争うのが競争で
あります。 
 
 学校教育の中でスポーツ云々ですね、戦争の遊びから発達したスポーツが盛んに煽られて、
地域で何番目の学校になったとか、言ってですね、全国総体に行ったとか、国体に行ったとか
、オリンピックで1番だったとかそういった形での競争のイデオロギーが日常化されていると
言える思います。
 ここでも、する運動ではなく見る運動に変わっていますね。そして、一定ルールがつくられ
た中、競争しあうことがいいと思っている。 

 しかし、あえて競争と言う言葉を使うならですね、本来の競争と言うのは、自分の限界に気
づいてそして、その限界に絶望するんではなくて、それが日々変っていくことを視点が広がっ
ていくことの喜びが競争の意味です。

 そういったものではなくて、非常に知識の限定された教科書の習熟競争とか、紙のテストの
点数競争とかそういったものが競争だと思い込まれています。そして、それを全国一律の順位
で点数化していくという日本的情報化にパソコンが使われていますね。
 このパソコンがまさしく教師を統制するための手段としてつかわれているというのが現状だ
と思います。 
 
▽272項目に及ぶ成績評価表 
 
 京都市の教育長門川氏が教育破壊会議のメンバーになったそうですが、私の今度の本の中に
、京都でやられている成績表のことを書いています。兵庫は京都市ほどではないでしょうから
、こんなことは進行していないと思いますが。
 
 京都市の小学校、中学校での通知表は最近の電気製品のマニュアルのようです。15ページ
のA4版で表になっています。
 たとえば国語を開くと「春を伝える」という項目について、「国語への関心・意欲・態度」
、「話すこと・聞くこと」、「書くこと」、「読むこと」、「言語事項」の5項目について、
観点別評価が記され、それについてABCで点数がつくことになっています。
 国語だけで11項目の採点。社会、数学、理科、英語・・・と9教科について、それぞれ複
雑な評点項目が続き、総項目67について、点数が記されています。 
 
 それは1学期についてだけであり、2学期69項目、3学期74項目と指導要項ごとに採点
され、数えると210項目について評価がつけられていました。さらに学年末の総評価も各教
科ごとに観点別評価と評定なるもの62項目について、評価が記されています。
 つまり、1学期の総評価項目数は272項目に及びます。一人の人間が272項目にわたっ
て評価されているんですよね。

これは子どもの側に立っていいましたけれど、評価する側の先生の側に立ったら272×40
人ですよ。子どものことなんかは、どれくらいわかっているか知りませんけど、こんなことが
出来るのでしょうか。 
 
 これで許されるならまだしも、京都市はさらに副表をつけろということになっています。
これで、文句を言ってきた親がいたら学校の先生は説明責任があるから、この成績表をつけた
根拠になるさらに詳しい副表をつけろということになっています。
 たとえば、小学校6年生の「整数」「分数のたし算ひき算」などマトリックスの表になって
います。そして読みますと意味は何のことか全然わかりません。
 
 たとえば、「数量や図形についての知識・理解」ではこんなふうに書いてあります。「整数
についての感覚を豊かにし倍数・約数と公倍数・公約数の意味やそれぞれの求め方を理解して
いる」か、それから、「分数のたし算・ひき算」では「分数についての感覚を豊かにし・・」
、「立体」では「立体についての感覚を豊かにし・・・」です

 いったいどうやって感覚を豊かににするのかなと思いますし、つけている人もどれくらい感
覚が豊かなのかわからないですけれど、こういうことを平気でやっています。 
 
 この副表の項目を数えますと、これもマトリックスになっていますから数えて見ますと、小
学校6年生の1学期の副表の評価項目は180項目あります。40人の生徒を担当しますと
180×40、7200項目です。
 子どもの顔がやっと覚えられるかどうかなのに、7200項目の評価をつけてその上で絶対
評価をつけて成績表を渡す、というようなことがなぜできるのか。これはパソコンに向かって
やるからできるんですね。 

 こういったことが行われているわけで、これこそ教育基本法に書かれた人間と人間のふれあ
い、そして、個別の人間性を大切にする個の確立、個人の確立ですね、あれくらい教育刷新委
員会・審議会で議論したことを180度違った方向に、私たちの社会が進んできていることを
物語っています。 
引用なし
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☆9/21判決の重み:野田鑑定書の証拠採用は上級審にも大きな縛りに!
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 15:40 -
  
日刊ベリタ 2006年12月04日掲載  
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200612040923571
 「学校・子どもの危機と教育基本法の改悪 野田正彰氏(関西学院大学教授・精神科医)
が緊急反対行動を訴える」より抜粋 
 
▽予防訴訟の9.21勝訴判決の意義 
 
 こういう教育基本法改悪の中で、9月21日に東京地裁で旗・歌の予防訴訟(国歌斉唱義
務不存在確認等請求事件)で勝訴しました。
 なんで東京のときだけ騒がれるのかなと私も思います。広島のとき、あるいは沖縄のとき
騒がれないで、反対している先生方も含めて、相変わらず東京中心主義だなと苦々しい思い
もあります。

 私がいろいろなことで関わっている、たとえば根津さんとか佐藤さんが苦しんでいたとき
に、東京の高教組のある執行委員は、「あれはね三多摩地域の人たちのやり方が下手だから」
というようなことを平気で言っていました。
 それから「うまく都教委とやればあんなふうに処分されないですよね」とかその調子のこと
を言う人がいっぱいいました。
 それから各地のたとえば広島のきびしい弾圧状況の中で、多くの県の組合役員や先生方は、
「同じ国のことと思えません」とか「戦前のようですね」とかそういうことを言っていたわけ
です。 
 
 敵は一つなんですね。文科省にくっついて動かしている文教族であります。
 にもかかわらず先生方はそれを絞ってみることがなく、自分のとこは火がついていないと
いいながら、順々に攻め落とされてきたのがここに至ったわけです。 
 
 まあそれはそれとして、東京の都立学校の先生方が足元に火がついて予防訴訟というのを起
こしました。
 この判決は9月21日に東京地裁で出て、手元の資料にコピーが出ておりますが、
「憲法19条の思想・良心の自由に違反し、国民全体に対し直接責任を負って行うものであっ
て、教育行政による不当な支配は許されないという教育基本法第10条に違反している」と
判決が出たんですね。
 弁護団もそれはそれでいいんですが、このことを強調しています。だけど忘れないでほしい
ことがあります。それは私が関与したから言いたいという意味ではありません。 
 
 判決はそのことに加えて、重要なことがもう一つあります。
 判決文に「国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱するか否か、ピアノ伴奏をす
るか否かの岐路に立たされたこと、あるいは自らの思想・良心に反して本件通達及び之に基づ
く各校長の職務命令に従わされたことにより、精神的損害を被ったことが認められる。」と
書いています。
 
 そして、「これらの損害額は、前記違法行為の態様、被害の程度等を総合考慮すれば、一人
当たり3万円を下らないものとするのが相当であり、当該判断を覆すに足りる証拠は存在しな
い。」と書いています。 
 
 3万円には何の根拠もありません。原告が一応3万円と請求していたからです。判決文も
3万円以下ではないとしました。
 そして、この裁判でいかに学校の先生方を心身ともにいたぶったかということを、私が鑑定
意見書として出したのが証拠として全面採用されています。だから最終弁論でも、70ページ
にわたって私の意見書を土台にして、それぞれの先生が精神的にいかに傷ついたかを整理して
述べています。それが全部証拠として採用されたんですね。 
 
 私もこの6,7年間にわたって先生方の抑圧の中での苦しみを聞き、そしていろいろな証言
をし、裁判の書証も書いてきました。
 われながら教育学者ではないのに、なんでこんなことに関わることになったのかな、と悲し
い思いもありますけれども、しかし、順々に書いていくたびに、憤りも強くなりましたし、文
章も整理され、この最後のときにはかなりすっきりした文章になっていると思います。今回の
本に入れてあります、それがやっと全面採用になりました。 

 その採用されたことで忘れてもらってはならないことは、裁判官は、このことを明記するこ
とによって、たぶん控訴審でどうするかということを考えたと思います。
 現在の最高裁判所の司法行政の中では、判決文に憲法違反と書いてもですね、上級審で覆さ
れる可能性が非常に高いです。
 しかし、私の鑑定意見書を証拠として採用したことは事実ですから、それを覆すということ
は容易でなくなります。

 つまりたとえて言いますと、自衛隊が憲法違反かどうか裁判を起こしてもですね、なかなか
判決してくれません。かつての長沼ナイキ基地訴訟(1973年、福島判決)のような時代は
とっくの昔になりました。
 しかし、自衛隊がどっかの民家に爆弾を落として人をぶっ殺した場合、これは違憲かどうか
ではなくて、殺人、傷害致死の事実として証拠採用されます。 
 
 同じことでして憲法違反かどうかとか、教育基本法10条違反、とくにこの10条を今、
明確に変えようとしていますから、変えられたら裁判は効果がないと却下されるでしょう。
 裁判所は、しかし、証拠として採用されたものは、それに対して、事実はないということ
を証明しなければなりません。

 そのためには私と対抗できるだけの精神科医をさがしてきて、そして事実と違うということ
を論証しなければいけない。それは大変難しいことです、彼らにとっては。
 私はこの鑑定意見書の中で、03年の10.23通達で突然ではなくて、その前からずっと
長期にわたって、学校の先生方に拷問を加えてきたんだということを立証しております。
引用なし
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▽酷くなる心身症状。自責念の悲惨なメカニズム。強制は「いじめ定義」そのもの!
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 15:52 -
  
日刊ベリタ 2006年12月04日掲載  
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200612040923571
 「学校・子どもの危機と教育基本法の改悪 野田正彰氏(関西学院大学教授・精神科医)
が緊急反対行動を訴える」より抜粋 
 
▽心身に杭を打たれるーある美術教師の場合 
 
 その症状を整理して、身体化された症状と感情の不安定と抑うつ気分、抑うつ状態ですね、
それから自己像の変化の4点にわたって整理しながら、訴えた人たちの思いをずっと書いて
あります。
 この訴えている人たちは闘っているんだから自分の弱い面を外に語るということはしてきま
せんでした。
 皆さんもきっとそうだと思います。

 日本の社会は、そういった権力と闘っているときに自分の悲鳴を弱音として、精神の傷とか
身体の軋みを混同していますから。そういったものを気づいてはいけない、あるいは気づいて
も人に言ってはいけないという思いがあります。

 しかし、そういったものを綿々と聞き取って整理していこうとし始めますと、もう全部の先
生方が10分ぐらいの聞き取りが始まってから涙を流し泣きつづけるという状態でありました
。私もかなり辛いインタビューがつづきました。 
 
 たとえば、ある美術の先生は、自分はこういった人間の創造性が抑圧されて共感が乏しく
なっていく時代の中で、美術の教師として人間の創造性を豊かにすることが自分の使命だと
思って働いてきた。
 しかし、それが年々軽んじられて、授業数も減らされるし、バカにされる状況の中でがんば
ってきた人だけども、自分はその教育の歪みの中で不安を覚えていた。そこに10.23の通
達がきたと。 
 
 そのとき自分は立ちはしない。しかし、もし立ってしまったら、子どもたちに自分の思いを
表現しながら生きなさい、と言ってきた私の教育者としての姿はどうなるんだろうかと、私は
立ったときには、最早次の瞬間から子どもたちの前に一つの統一された人格の人間として、子
どもに顔を向けることはできなくなると思いました。
 そして、しかし、だから座ろうと思ったんだけど、座ろうと思うと同時に座れば、当然処分
がくる。そしたら遠くの学校に飛ばされる、一連のセットですね。

 そして病気のお母さんの世話ができなくなる。それから1回だけではすまないから順々に座
っていけば、4回で辞めさせられるが、使命として思ってきた美術教師は奪われる。そう思っ
てですね、仕方ないから立つかと思った。
 職員会議中に椅子に座っていることができなくなり、立とうと決めたときに彼女は腰掛から
崩れ落ちたこともあった。それを彼女は、私に泣きながら訴えた。 
 
 ほんとにからだの中に大きな杭が食道から胃に打ち込まれる痛みを私は感じた。けっして
比喩で言っているのではないんです、と。
 多くの人たちはいやなものをさせられる症状を消化器の症状として訴えます。毒を飲まされ
るということですね。
 そういう形で不快なものを無理やり飲まされる、からだの中に突っ込まれる、どうしようも
ない吐き気、いやなものを吐き出したい、そういった症状、吐き気、嘔吐ですね、胃腸の重い
感じや痛み、下痢と便秘が交替するそういった消化器の過敏症状、そういったものがたくさん
の人に見られます。
 それから、胸部の圧迫感ですね、こういった身体化された症状が非常に強い、そして、精神
面では感情が不安定になっていきます。 
 
 怒りとか自責念とか自己破壊的イメージ、本来ですね、悪に対して向かっているのだから、
自責念などもつはずがないです。
 しかし、闘っている多くの人間は、自分を責めます。それはたとえばこういったことを覆す
だけの力がないということを、自分に責めたりします。
 
 あるいは日本的な文化の中で、こういう人がいます。「あなたはいいでしょう、座ることで
いいでしょう。でも座ることで学校の混乱はどうするんですか」「右翼が言ってきたりして学
校の名誉はどうなるんですか」などとそういうことを言われる。 
 
 そういったときもキチンと反論しましたけれども、それは心の中に残ってなんとなく今まで
と同じように話すことができなくなっている自分がいたり、そういう形で自分を責めて、自己
破壊的なイメージに満たされて、死を思ったりします。
 泣きやすくなったり、常に校長や教育委員会に呼び出されて、それに必死になって闘ってい
るけれど、闘っている自分がフラッシュバックのようにイメージされてくるとかですね。 
 
 それから、抑うつ的なんですね。曇りなく教育に打ち込むことが最早できない、自分のやっ
ていることが部分的には一生懸命やっているつもりだけれど、基本的には意味がないんじゃな
いかと思われてくる。
 こんな教育の中で、意欲が低下し、空虚感、焦燥感に陥って、そして自己像が変化し、同僚
との交流を控える傾向とか恥辱感とか絶望感、自分は無用な人間だという感覚、取り返しのつ
かない被害の感覚、喪失感。

 とりわけ生徒たちへの贖罪感、将来への不安こういったものが絡んでいきます。
 先生方はこれまで自分は校長の暴力に対し抗議し、教育委員会と闘っていると思うからです
ね、自分の苦しさを訴えてきませんでした。訴えたらいけないと思ってきたわけです。
 自分よりよほど辛い人がいるだろうからから、だけども私は違うと思ってきた。しかし、
実際は精神科とか内科に行って、睡眠薬とかもらいながら耐えてきているわけです。 
 
 こういった状況を今回の裁判は、キチッと精神的な被害であると認めました。
 こういった症状は、私の精神科医としての私見によれば、悪いですけど強姦された人の精神
症状と全く同じです。
 あるいは人質となって死をさまよった被害者の精神症状と同じです。
 こういったことが権力によって行われているわけです。

 文科省のいじめ定義というのはですね、読みますと何を言っているかと思います。みなさん
知っていますか。文科省のいじめ定義は。「強者による弱者への不当な圧力」と言っているん
ですね。それは、その圧力は身体的であれ、言語的であれ加えられている者が、その本人がそ
のために苦しむこと、と書いてありますよ。
 1センチも1ミリもこの日の丸・君が代の強制でやっていることからズレていません。

 そういうことが公権力によって、平気で行われているわけです。教育を破壊しているのは
文科省です。 
引用なし
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●門真でも教師の受けている圧迫は同じ!教委は強制・圧迫を止めよ!
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 16:05 -
  
 大阪府、門真市では確かに東京都ほど苛烈な形は取っていない。君が代の起立斉唱を「職
務命令」としては「まだ」していないし、職務命令違反としての処分も「まだ」やってはい
ない。
 しかし、卒業式・入学式に君が代の起立斉唱を強制していること、年々その「指導」を強
化して、不起立状況を調査して不起立教員の氏名を調べるなどして圧迫を加えていること、
「国旗国歌法」と学習指導要領をタテにして教員には不起立の自由はない、としていること
など、共通点だらけである。

 門真市教委は、9/21東京地裁判決や野田氏の意見をよく読んで、こういった強制施策をす
ぐに取りやめるべきである。当面、来春の卒業式・入学式に向けて、従来の強制方策を取り
やめよ!

 そしてもうひとつ、「この執勘な加害を容認してきた罪は多くの市民にあり、十分に抗議
してこなかった責任はマスコミにある。」という部分は市民もしかと考えるべきである。
引用なし
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◇9/21判決全文は「ニュースforPJ」HPで。このHP情報豊富で絶対お勧め!
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 戸田 E-MAILWEB  - 06/12/10(日) 18:31 -
  
 9/21判決の全文をインターネット検索したら、「News for the People in Japan」HP
http://www.news-pj.net/#anchor01 が出てきました。
 タイトルで上げた「ニュースforPJ」のことです。

 このHP、様々な運動情報、判決、HP等々載っていて非常に便利なHPです。戸田はさっ
そく「お気に入り」に登録しました。
 戸田HPのリンク集にも入れておきましょう。(吉岡君よろしく)
 門真の教育委員会も、戸田の文教常任委員会質問に備えておいて下さい。

 なお、「予防訴訟」の訴状全文の方は検索できていませんが、判決文全文があれば行政上の
対策や議会質問の対策としては十分だろうと思います。
引用なし
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Re:▽酷くなる心身症状。自責念の悲惨なメカニズム。強制は「いじめ定義」そのもの!
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 門真を良くして欲しい元市民  - 06/12/27(水) 2:26 -
  
教育を与える立場、教師の立場からしか物を見られていないようですので、教育を受ける立場にいた者としてひと言述べさせてください。

私自身、ン年前に門真の公立小中学校に通いました。小中学校では、一度たりとも国歌を学んだことはありませんし、当然歌詞が何を意味しているのかさえ教えてもらった記憶もありません。それが良いのか悪いのか判断さえさせてもらえなかったと思っています。意図的に・・・。歌詞の意味、その背景を全て学んだ上で、その善し悪しを判断することこそが、児童個人の尊重につながるのではないでしょうか。

一教師の個人的な思想でもって、児童に基本的な教育を行わないこと。これこそが、教師という児童に対する上位の立場を利用した、暴力ではないかと思っています。

どうか一個人の凝り固まった思想だけで、弱者たる児童の権利を奪うことのない、もっと広い視野をもった教育者を目指して欲しいと願います。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@nttkyo602055.tkyo.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>

↑教師憎しで筋違いな文句付けで平気な神経では門真は良くできませんよ
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 戸田 E-MAILWEB  - 07/1/21(日) 11:16 -
  
 「門真を良くして欲しい元市民」さんへ。返事が大変遅れてしまってすみません。
 返事が大幅に遅れる事があってもできるだけ返事をするように努めていますから、今後も
よろしく。

 さて、「門真を良くして欲しい元市民」さんの投稿、戸田にはある種典型的な「筋違いなイ
チャモン付け」に思えてなりません。
 下にも抜粋採録したような教員の悲惨な事実を知ってもなお、こういう非論理的な事を平
気で書ける神経には、キツイ言い方ですが、正直言って呆れます。

 「元市民」さんが言ってる事を整理すると、

A:自分は門真で教員に君が代を教えられなかった。これは教員による子どもへの暴力だ。
◆だから、
B:文科省権力によって教員が現実に心身の被害を受けていても、それは何ら酷い事ではな
  いし、不当なことでも同情に値する事でもない。
C:そんな事を取り上げるのは「教育を与える立場、教師の立場からしか物を見られていな
  いことだ」
という事です。

 まずすぐに分かることは、AとBは決して「だから」でつながる事ではないという事です。
 何よりも、東京都で心身被害を受けた教員は君が代を教える立場にある人はみな君が代を
教えているという事です。(音楽の授業を担当しない教員は君が代を教える立場にはない)
 今時の東京都で君が代を教えないで済むはずがありませんから。

 次に、「昔門真の学校で君が代を教えない教員がいた」事は、「現在東京(ほか全国で)
文科省権力が君が代強制によって教員に心身被害を与える事」の正当事由には絶対になり得
ないことです。

 また、「教員が児童に君が代を教えない事」を「上位の立場を利用した、児童への暴力だ」
(ではないか)という言い方は「上位の立場を利用した暴力」という言葉の過剰な拡張であ
って、「教える内容の不足」と「心身を深刻に傷つける権力行為」とを同じ「暴力」という
言葉を使うことによって、両者の間の格段の差を曖昧にして同列に置き、結果、心身障害の
加害を許容させようとするものです。
 
 そして、教員がこのような理不尽で非人間的な圧迫を受ける状況を見ている子供たちが、
情操や正義感も含めた健全な教育を阻害されているのは明らかなのに、この問題を指摘する
事に対して「教師の立場からしか物を見られていないことだ」と言える視野の狭さも考えざ
るを得ません。

 ちなみに、秋田県で育った戸田は君が代をちゃんと教えられてきた上で、歌の内容として
も民主主義制度に反するし国歌として強制されるのはなおおかしい、と考えてきましたので、
「学校で全然教えない」という事があったならばそれ自体はおかしいと思います。
「歌おうと思えば歌える」、「歌詞やその意味も知っている」、という事が土台にないと批判
も論議もできないからです。
 
 おそらく「元市民」さんの子供時代は、当時の時代背景と学習指導要領などで「君が代を
教える」強制力が今よりずっと弱かったのではないかと推測します。

 「元市民」さんは何かの体験で教員への嫌悪感が強く残っているのかもしれませんが、そ
うだとしても、戸田の一連の書き込みで生身の人間が受けている心身被害の酷さを読んでも
なお平然と切り捨てられる酷薄さにはうすら寒いものを感じます。
 「日の丸・君が代をちゃんとしないヤツは日本人としてケシカラン!」との思いが強い人
達によく見られる症状だと、戸田には思えます。

 こういう感覚で教員を見たり教育問題を考えても、また行政や地域づくりを考えてみても
門真は決して良くなりません。逆にまずます殺伐としてしまいます。
 
 最後に、戸田掲示板では「元タイトルの単純コピー返答」はしないよう求めていますので、
レスを付ける時は自分の文章内容にふさわしい独自なタイトルを付けて投稿するようにして下
さい。
 それでは。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 抜粋採録
 ↓↓
▽酷くなる心身症状。自責念の悲惨なメカニズム。強制は「いじめ定義」そのもの! 
   http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=731;id=
 ▽心身に杭を打たれるーある美術教師の場合 
 ・・・・
 ・・・もう全部の先生方が10分ぐらいの聞き取りが始まってから涙を流し泣きつづける
という状態でありました。私もかなり辛いインタビューがつづきました。 
 
 たとえば、ある美術の先生は、自分はこういった人間の創造性が抑圧されて共感が乏しく
なっていく時代の中で、美術の教師として人間の創造性を豊かにすることが自分の使命だと
思って働いてきた。
・・・・私は立ったときには、最早次の瞬間から子どもたちの前に一つの統一された人格の
人間として、子どもに顔を向けることはできなくなると思いました。
 そして、しかし、だから座ろうと思ったんだけど、座ろうと思うと同時に座れば、当然処分
がくる。そしたら遠くの学校に飛ばされる、一連のセットですね。

 そして病気のお母さんの世話ができなくなる。それから1回だけではすまないから順々に座
っていけば、4回で辞めさせられるが、使命として思ってきた美術教師は奪われる。そう思っ
てですね、仕方ないから立つかと思った。
 職員会議中に椅子に座っていることができなくなり、立とうと決めたときに彼女は腰掛から
崩れ落ちたこともあった。それを彼女は、私に泣きながら訴えた。 
 
 ほんとにからだの中に大きな杭が食道から胃に打ち込まれる痛みを私は感じた。けっして
比喩で言っているのではないんです、と。
 多くの人たちはいやなものをさせられる症状を消化器の症状として訴えます。毒を飲まされ
るということですね。
 
 そういう形で不快なものを無理やり飲まされる、からだの中に突っ込まれる、どうしようも
ない吐き気、いやなものを吐き出したい、そういった症状、吐き気、嘔吐ですね、胃腸の重い
感じや痛み、下痢と便秘が交替するそういった消化器の過敏症状、そういったものがたくさん
の人に見られます。
 それから、胸部の圧迫感ですね、こういった身体化された症状が非常に強い、そして、精神
面では感情が不安定になっていきます。 
 
 ・・・そういう形で自分を責めて、自己破壊的なイメージに満たされて、死を思ったりし
ます。
 泣きやすくなったり、常に校長や教育委員会に呼び出されて、それに必死になって闘ってい
るけれど、闘っている自分がフラッシュバックのようにイメージされてくるとかですね。 
 
 それから、抑うつ的なんですね。曇りなく教育に打ち込むことが最早できない、自分のやっ
ていることが部分的には一生懸命やっているつもりだけれど、基本的には意味がないんじゃな
いかと思われてくる。
 こんな教育の中で、意欲が低下し、空虚感、焦燥感に陥って、そして自己像が変化し、同僚
との交流を控える傾向とか恥辱感とか絶望感、自分は無用な人間だという感覚、取り返しのつ
かない被害の感覚、喪失感。

 ・・・自分よりよほど辛い人がいるだろうからから、だけども私は違うと思ってきた。しか
し、実際は精神科とか内科に行って、睡眠薬とかもらいながら耐えてきているわけです。 
 
 こういった状況を今回の裁判は、キチッと精神的な被害であると認めました。
 こういった症状は、私の精神科医としての私見によれば、悪いですけど強姦された人の精神
症状と全く同じです。
 あるいは人質となって死をさまよった被害者の精神症状と同じです。
 こういったことが権力によって行われているわけです。

・・そういうことが公権力によって、平気で行われているわけです。教育を破壊しているの
は文科省です。 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
引用なし
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