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麻生英人
- 07/2/15(木) 20:03 -
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私は、自らの経験も含め、言葉は人と人との理解を生み出すだけではなく、誤解を生み出すものでもあると考えています。左翼とか右翼とかの概念規定は本来曖昧であり、同じ左翼らしいということであっても、その領域で話される言葉が、同じ意味や感性を呼び起こすとは限らない。お互いの「文法」もまま違う場合が多い様に思えます。右翼や左翼や特段の政治的主張のない方も含めての「公共の場」において、簡単に「話せばわかる」とは言えないと思うのですが。しかも、同じ立場にあると思っている左翼同士の方が、誤解が発生しやすいのではないでしょうか。私のような理解力に乏しい者には、基本的に、無前提では、人と人は分かり合えないとしか思えません。話せばわかるには条件があるように思います。この条件を整えた上で、問題点を整理してみてはどうでしょうか。
陳腐な物言いになっているのかも知れませんが、この掲示板では、往々にして、自らの発言の意図さえよければ何をいっても構わない、あるいは、自らの発言が他者(客観的にと言ってもよいが)からどう理解されるのかという観点を持つという自己相対化がきわめて弱いのではないかという気がします。一つ一つの意見に、直接的に対応して反感を増幅し、あと戻りできない地点まで行きついてしまう。論争で大切なことは、相手の主張の最善のところを見ることにあるような気がします。そして、本質的な齟齬はどこにあるのかの観点を手放さないということではないでしょうか。もちろん自戒の意を込めてということですが。
さて、この論争の大きな争点の一つは、「サイバーアクション」−市民運動・社会運動のためのインターネット活用術−(井口秀介・井上はるお・小西誠・津村洋/著、2001年7月20日発行)のネットにおける現状と可能性についての考えと戸田さんの考えとの違いにある。戸田さん的には、「サイバーアクション」補章(執筆−井上はるおさん)との対立ということになろうか。しかし、共通項は、いうところの運動を発展させるために、いかにネットを活用できるのか、活用しなければならないのかという点だと思います。
ここでの議論の焦点ともなった(端折って申し訳ありません)、条件付きだが基本的には議論推進すべし論と条件付きだが削除すべし論の相剋ですが、やはり、私などの素人の目には、草加さんの1月27日付⑴〜⑼(但し、⑻は宮崎学問題ですが)の意見が理解しやすく、サイト運営は各人の創意工夫で、ということになるのでしょう。草加さんの議論をこそ、前提されなければならないと思いますが。換言すれば、平凡な結末で申し訳ないが、どちらが一方的に正しいという話ではないと思えます。私は、井上さんやまっぺんさんの方針に、みずからの運動の総括や、未来の目指すべき社会へ到る過程にこそ、未来的な政治の萌芽形態が含まれなくてはならないという意気込みを感じます。しかし、だからといって他にそうすべしとはならないような気がします。左翼形態は多々あらざるを得ないのではないですか。また、各人・各環境の条件によって、一歩後退したり一歩前進したりということになりませんか。
同時に、草加さんとまったく同意見ですが、戸田さんの方法も他に押しつけるものではないということです。戸田さんという個性(いい意味でも悪い意味でも強固な)と多くの支援体制(このサイト運営に直接的に関与する形態でなくとも、有形無形の支援が戸田さんにはある)があってできることなのだと思います。そうであるのに、戸田の画期的な方法を評価せず、「正確」に伝えない「サイバーアクション」補章はデマと嘘に満ちた犯罪的な論文なりと主張し、遂には、その書籍の編集・発行者の責任を問い、在庫販売や増刷の際は云々という出版統制に及んでいけば、「戸田さん大丈夫?」と老婆心ながら問いかけざるを得ません。また、2001年に戸田さんが「喧嘩を売られた」として、2007年に反論すれば、その時間差は意味を転化させ、それは「その喧嘩を買った」のではなく、「新たな喧嘩を売った」ことになりませんか。この掲示板で売った以上は買う人が現れても不思議でなく、買う人を排除してはいけないように思いますが。
そしてなにより大事な事は、支援する草加さんへの返信ではないですか。
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今回の論争の中で、多くの方が、あらためて事件を知り、今後の判断の前提になったという意味では、まっぺんさんの「喧嘩を買った」成果であると思います。少なくとも、私は2冊の関連本と幾つかの断片的な情報を知りました。
私は、語るべき内容に乏しく表現力もないので、的を射た議論にはなっていないような気がします。宮崎学問題について<1>では何を的外れなと思われていることでしょう。もう少し、言ってみます。
私は、宮崎氏に情報提供された当事者による事実経過と問題点整理と今後の対策と今日までの対応が、一つの見解表明で理解できるほど理解力ががよくない。そのため、全体構造が見えないままに、一つの断定は難しい様に思えます。言及しうる事は多々あるでしょうが、当事者判断への介入になるかもしれませんので、ここでは、やはり全体構造はわからないと言っておきます。
また、東京の運動域内における主体的責任を負える立場にない者で、状況がよく見えない者が、立ち入った言及はできない(但し、教訓は引き出せます)。
さらに、前述した2.のスパイ行為と3.の取引論とでは、情報提供という結果は同じであっても、動機も違えば批判される内容も異なると思います。そして、2.のスパイ行為にあっては、(いかに容疑が濃くても)推定される事実と一定の基準で認定される事実とは違うと思いますので、提供されている情報だけでは、判断は保留です(こういう場合には被疑者の権利云々はいらないという声もあるでしょうが)。
もっとも、2.と3.とがはっきり分けられないと判断することの理由は判ります。また、そもそも、2.と3.とは区別の必要なくスパイ行為であると断定する立場があり得ることも理解します。公安権力に情報を売られれば、理由の如何に関わらず、出る被害は同じですから。
但し、取引論は宮崎氏や支援者(戸田さんも)が言っていることなので、この取引論においては、批判すべき点を明らかにしておかなければなりません。宮崎氏が事実経過を克明にかつ理由を明確に述べない限り、また、抽象的な取引論だけを述べるのなら、こう言及せざるを得ません。
基準は何かと問われれば、心もとない状況の様ですが、普通、国家またはその政策と対決し、共に闘う陣営内において、敵と想定されている国家権力、しかも、反体制勢力を取締り、打撃を与えたり利用することが専らの任務である公安権力に、内部情報を売る行為が容認されるはずがない。売られた組織が直接間接に打撃を受けます。組織の壊滅や人の生死に関わる危険性もある。個人の生活が破壊されます。これに見合う「守るべきもの」があるのでしょうか。売らないという信頼を前提に、共に運動に取り組み、交流するのです。
また、闘う者内部の信頼関係を根こそぎするものです。公安権力による情報操作を招きます。敵に味方を売らないというのは、左翼だけではない仁義と思います。現在は、敵が誰で、味方はどこまでかが不鮮明なのかも知れません。ここかしこで、仁義無き闘いがあるものですから。しかし、闘う者の武器は信頼ではないですか。
ここの敷居、倫理基準がはっきりしていないと、この大切なものが取引の材料になる。取引されるのは、闘う組織・個人の存続と権利の破壊であり、さらに、信頼関係である。これに見合う「守るべきもの」とは何でしょうか。答えは簡単明瞭であり、そんなものはない。つまり、取引論は成り立たない(成立を認めることはできないと言うべきです)。この局面での取引論は、レトリックです。取引一般、国家権力(政策担当)との取引一般のイメージ、あるいは裏取引一般のイメージで、事の本質をすり替えている様に思います。宮崎氏の倫理と権力に対する侮りに基づいた恣意的行為というべきではないのでしょうか。宮崎氏が倫理(社会的規範を作る意志)を信じない自由はあります。また、左翼に倫理を云々されるとは笑止千万なのかも知れません。しかし、言わなければ明日がないと言うしかありません。
その事の上で、宮崎氏の擁護があり得るとしたら、彼の「主観的善意」を容認するということだと思います。宮崎氏は意図的なスパイでないとするなら、彼の「主観的善意」すなわち、「仲間を守りたかった」「今後のためにパイプを作っていた」・「提供した情報は実は見かけ倒しのものだった」がセットになった彼の意図(彼がそう表現したかは知りませんが、そう想定するしかない意図という意味です)を信じることだけです。
真相は歴史が明らかにするのでしょうが、この「主観的善意」を誰が信じるのかということです。事件発覚後の宮崎氏の応対は、対外的(少なくとも、主体的に責任を果たさなければならない直接的関係者−共に運動に関わった者−においても)に充分に経過と自己の心情を語った訳ではなさそうです。彼の仲間にはきちんとした説明があったのかはわかりません。しかし、この「主観的善意」を受け入れる人々は少数派であると思います。伝聞の範囲ですが、告発者の存在がいなかったら事実が明らかにならなかったこと、宮崎氏の自己への言及の不充分さ、「主観的善意」の検証が無いことなど、信じる根拠が希薄であるからと思われます。
ただ、宮崎氏を信じる人が相対的に多いのも事実です。この信じる者をすべてマインドコントロールされた信者と評し、その主体性をなきがごとく嘲笑することが適正な対応なのかという気もします。宮崎氏個人と彼を信じ支持表明する者とは、相対的に区別されるべきであると思います。
そして、人を信じるという事はよくある話です。それは、政治だけではない。人を信じる自由はあります。これをはなから否定するのはいいことではないように感じます。ただ、この事件を許しがたいと思うことには、相当な理由と合理性があり、信じない自由もありますし、批判する自由もある。戸田さんは、宮崎氏を信じることをせず、その政治活動に宮崎氏を参加させることは断固拒否という人がいることは尊重されねばなりません。また、自らがわざわざ、宮崎氏支持を改めて表明するのなら、この事件を否定的に見る者に対して、その論拠に答えていく努力も必要かと思います。差別され犯罪者とされた者の決起の力強さや意義を讃え、宮崎氏が百戦錬磨の強者で、器が桁違いであっても、仲間との深い信頼関係があったとしても、だから、今回事件とどう繋がるのかの説明がないと、仲間外の人には通じません。結局は、俺は宮崎を信じるという事しか言っていないことになります。
さらに、戸田さんに言えることは、構造は理解しているのに、敢えて挑発的に登場する傾向があります。戸田さんへの批判は、往々にして、的を射ていないと思うことがあります。幾人かの論者は、戸田さんを差別主義者でマキャベリスト、論理も理性も通用しないマッチョマンと総否定です。最近は、「ネット上はともかく、日常ではまともではあるのでしょう」と少しは適正な評価もして頂ける様になってきました。戸田さんは鮮烈市民派議員として登場してきましたが、既存の左翼政治やある種の潮流に対しても、鮮烈さをアピールしている様に見受けられます。その背景があるのでしょうが、挑発的発言で波風を立てようとしているような気がします。その強引さと事態打開のためなら先頭を切って走るバイタリティーと表裏一体のものだとも思いますが、無用な波風を立てているとも思います。今は、裁判や門真市議会活動、現在の組織相談の解決や選挙等々、本当に忙しい毎日を送っているので、議論継続はそれなりにとなるのでしょうが。
私は、この事件をつかっての政治的利用や政治的対立関係が反映した上での批判の応酬があるのかどうかをよく知りません。元々そうした政治的な流れに疎い者です。この事件に言及すれば、政治的スタンスが問われるのかどうかも判りません。初めて知った事件を、こう考えるという話でしかありません。本来なら、手元の少ない情報で、しかも全体構造が見えない中で、色々と発言すべきでないような気もしています。しかし、戸田さんとまっぺんさんの論争に触発されて、言論には言論でと言った手前、ここまでは言及してみました。大きな読み間違いをしているかも知れません。戸田さんにもまっぺんさんにも、またしても違う違うと、指摘を受けそうです。もう始まってから丸2か月で、大方の関心も去っているでしょうが、つまりは、今回も結論は草加さんと同じです。私は草加さんの要を得た説明を、不器用な大量の言葉で置き換えているような気がします。今回は、前にもまして判りにくいものになったかと危惧するところです。
最後に、関連でやくざについての見解を述べたいと思っています。
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戸田

- 07/3/4(日) 19:23 -
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麻生氏の投稿努力に敬意と感謝を表します。非常に冷静で分かり易く、有意義な指摘と整
理だと思います。
各論点についてあれこれの意見を展開していく事はできませんが、総合的には概ね納得で
きます。「理屈では分かるが感情としては承伏しきれない・自分としては選択しない」とい
う部分もありますが、それはそれとして・・・。
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相変わらず、即応できずにすいません。
さて、私はこの論争経過を戸田さんの掲示板と同時に、まっぺんさんの管理するサイトとの二元中継で理解しています。私は、両者のサイトを見ているという前提で論を組み立てている場合があります(勝手で申し訳ありませんが)。この論争に関心ある方は、レッドモール党公式サイトへアクセス下さい。それ以外の場所で言及はあるのでしょうが、追えていません。
そこで、ここで登場できないまっぺんさんの意見も見ています。また、私への批判もありますし、この掲示板での黒目さんの見解(2月16日付)への言及もありますので、各人の主体性を尊重しないということではなく、まとめて見て頂きたいという意味で、こういう投稿形式にします。
まず、冒頭に、よねざわいずみさんから、私の立ち位置に関する批判を受けました(2月28日付)。
私の基本的立場は、どちらか一方の観点から一方を批判するというものではありません。指摘された私の文章は、証明されていない事をあたかも証明されたかの様な前提で、他者(戸田批判者)を非難していることになっていること、客観的事実と違うという意味ではレトリック(別言すればデマゴギーになりかねない)を使用していることにおいて、私の「立ち位置」からずれているとする批判だと思います。
これに関しては同意し、謝罪します。私の性急な物言いであり、今まで述べてきた私の主観的意図、多少の異論はあるものの、大筋において戸田さんへの論理的追求自体への非難はないということへの理解の上に立っても、主要な問題点をずらした戸田擁護と戸田批判者への非難に繋がり、あらたな論議を生み出してしまう文章になってしまうこと、また、戸田批判者の真意を伝えないまとめ方は公平性を欠くという意味においても、ありうべき批判として受け止めました。以後気をつけます。
黒目さん、黒目さんが主張される、ネットが「単なる通信手段」、日常生活の中にある精神的交通のツールであるというご指摘は理解しました。多分、そのことは戸田さんも判っているとは思います。その上での振る舞い方の問題である様に思います。ここでは、コミュニケーションの前提が大きく異なっていたり、立論するときの主体の仮構性・虚構性・演技の許容性などが議論の余地になるような気がします。決して、黒目さんが指摘されている、かつて「インターネットはバーチャルな空間」と言われていた、という意味での虚構性として言及してはいません。ただ、これ自体で議論すると本来の趣旨から遠ざかっていきますので、私の本意は、戸田さん理解の一助として、活用頂けるのならということです。意味が不明ということであれば、それは私の力の及ばなさです。
次に、論理的であることについて、その限界性と抑圧性についてのご理解に感謝しますが、私のもう一つのお願いの声も聞いてほしいのです。
論理力は誰もが当たり前に持っているものではない様に思います。私は人間的価値の優劣を言うつもりはありません。論理力を身につけるのは、それなりの時間と訓練がいると思います。持っている者は、自覚的に、その論理の足を最大限延ばして欲しいと思っています。もちろん、私にとっての主観的な願望であり自身もできていないという自覚の上で言いますが、相手の主張だけではなく、相手の言っていないこと、相手の無意識、その主張を成り立たしめている構造までを射程に入れてほしいと思っています。その上での、相違点の相剋をどう処理していくのか、の解決をはかって欲しいと思うのです。
そして、これは出来るほうがやるということでしか無いように思います。当然、何の意味や義理があって、とやかく考えなければならないのかという声もあると思いますが。
私は、時代錯誤的な倫理という言葉を多用してきました。この論争を左翼内部のあり方の問題として考えたいということです。
まっぺんさん、すいません、息が切れてしまいました。可及的速やか返信します。
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1.はじめに
まっぺんさん。相変わらず遅い返信で申し訳ありません。
さて、連帯労組は07春闘真っ盛りです。関西の生コン業界の春闘では、大阪兵庫生コン経営者会70社程の経営者と関生支部もその一員である5つの労働組合200名とで、共同交渉を持ちます。今年は、3月14日・22日・29日と開催され、3月末までに解決しなければ、ストライキをはじめとした労働組合の行動で事態の打開をはかることになります。これと連動して、奈良・京都の生コン業界、バラセメント輸送業界、コンクリート圧送業界で集交、そして未解決の場合行動と、横断的に繋がっていくことでしょう。
その前に、権力弾圧粉砕!賃上げゼロ回答を打破し、中小労働運動を前進させよう!3・11自動車パレードが、200台のミキサー車・バラセメント輸送車・コンクリートポンプ車で、大阪市内を走り抜けました。
2.まっぺんさんの投げられたボール
この1月に始まった論争も、主として、戸田さん及び戸田さんと伴走してきたつもりの私の対応の遅さによって、この時期まで来てしまいました。まっぺんさん及び戸田さんを批判する人達の寛容さによって、粘り強い「言論には言論で」を実践して来れました。しかし、この実践は草加さんの言われる通り、投下労働量に規定される様な気がします。皆さんもそうでしょうが、時間のやりくりと考える時間が求められます。但し、ここに表現されない多くの「考えること」が、私にとっては価値あるものと感じられます。また、私は、私のこなれていない言葉を受け止め、ここやまっぺんさんのサイトで議論や思いを語ってくれた人々に感謝します。
まっぺんさんのサイトで明らかにされました「麻生さんに応えるために」3月1日付はそれほど日を置かずに読みました。相変わらず、自己抑制の効いた論旨と落とし所だと感心しています。
「言論には言論で」の原則に沿いながら、戸田さんと私のこの掲示板を通じての対話があり、リアルでの議論もありえると考えています。私は尊敬する政治活動家としての戸田さんの主体性を尊重した対話が続くであろうと思っていますし、また、それが「言論には言論で」の原則を提示された人々にも応える方法であるのだろうと考えます。
私は、「権利」問題については、まっぺんさんを支持します。まっぺんさんは反論する権利があり、そもそも戸田さんが反論を「客観的」にしむけたのですから。
さて、この掲示板の独裁的管理者である戸田さんは、2月20日付論考で、自己の1月2日以降の膨大な投稿(まっぺんさん言うところの「新春42連発」)の総論として、「サイバーアクション『補章』批判をするにしても別の書き方があり得た」「客観的には喧嘩を売ったことになる」と自己を相対化し自己のあり方を捉え返しています。あと「サイバーアクション再版云々の要求が、出版の自由妨害と表裏一体であることを反省し取り下げようと思う」と表明されました。
私は、戸田さん自身や戸田さんの批判者はお怒りになるのでしょうが、論争している当事者が、総論として「別の書き方があり得た」と表明することの持つ意味を感じてほしいと思っているのです。また、自己の主張は不当に反論されていると感じている者が、自らが「喧嘩を売ったことになる」と被害と加害を逆転させた判断も見てほしいと思っています(後に続く戸田さん一流の文章で、戸田批判が倍加しているのだと思いますが)。
さらに、「宮崎問題について」では、「総合的には概ね納得できます」とあります。従来の戸田さんの見解と比較して、自己相対化は顕著だろうと思います。
この間の私の投稿の考えの基本は、私の独創ではありません。草加さん以外は逐一断ってはいませんが、私の主張はまっぺんさんであり、黒目さんであり等々であろうと感じています。
まっぺんさん、言いだせばきりがない程、多くの問題があるように思います。私は、戸田さんに言いたいことを言ってきた様な気がします。それは、私が戸田さんを知っており、その上で信頼しているからです。また、この論争の争点に関して、どちらが悪いという問題とは相対的独自に、ある種の構造を明らかにしないと、通じ合わないという感触も消えません。しかし、延々と議論はしにくいものです。
さて、ネット上でしか存じあげませんが、まっぺんさんの人柄は感じ取れます。そして、私がレトリックではなしに、上に挙げた理由で、まっぺんさんの投げたボールが戸田さんによって、部分的には返されていると言っても、少しは容認して頂けるのではないかと思っています。小さな声でも聞き取る術はある様に思います。
いずれにしましても、まっぺんさんがボールを投げていることは理解しています。
受け止め返さなければならないことも。言論には少し時間がかかりますが。
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<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@ntoska171109.oska.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp>
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ところで、05年12月の戸田さんへの政治資金規制法違反事件なる国策捜査は、大阪では大々的に報じられ、労働組合と政治家の癒着、ダーティーな金銭の授受等々悪徳政治家としてのイメージ作りに沿うメディア報道が執拗になされました。多くのテレビカメラが集められ、市役所の議会の打合せの場で戸田さんは逮捕されたのです。この時、片方の主役であったのが、生コン経営者に対する威力業務妨害・強要未遂容疑で長期拘留されていた関生支部の武建一執行委員長です。11ヵ月ぶりに保釈される目前に、この事件で再逮捕・長期拘留されたのです。戸田さんと武委員長が保釈されたのは、06年3月です。
もちろん、戸田さんは全国区ではなく、一地方の一市議会議員なので、大阪の様が全国的に知られているとは思えません。だから、戸田さんの選挙の厳しさは伝わりにくい様な気がします。そして、4月22日の地方選で当選したとしても、4月25日高裁判決です(判決まで、1回の審理しかありませんでした)。一審で、戸田さんは罰金刑と共に、2年間の公民権停止を受けています。議席を失うことも充分あり得ます。こうした状況下にあるというのが戸田さんの現実です。
この政治資金規制法違反事件の有罪根拠は、一つは戸田さんの記載ミス(報告漏れ)です。裁判官は戸田さんが「忘れていたのではないか(故意ではない)」と言いながら、正確に記載する意思がなかったと認定するのです。「疑わしきは罰する」のです。また、労働組合とは別のカンパを労組の寄付行為、戸田さんへの地本役員の報酬を労組の寄付行為としました。
ここで、階級的警戒心の問題も出るような気がします。国家権力との攻防をしている以上、細心の対策が問われます。政治弾圧を受けることは栄誉ではありません。誇るものでもなく、なるべく隙を作らないのが原則です。
しかし、現在の刑法体制の中で、何らかの違法性はつきものです。この間の国策捜査の問題は、可罰的違法性のハードルを大幅に下げてきていることです。この捜査体制では、いかようにも「事実」に基づいて事件を作れます。その上、「人質司法」で、長期拘留が当たり前のように既成事実化されています。違反行為とされている瑕疵に比して、異常に重い公民権停止なのです。
この問題は、関生支部の武委員長にも当てはまります。
関生支部は産別労組であり、企業別労働組合とその構成・運動方針が大きく異なります。産業政策という産業構造の民主化をはかる運動を全力で取り組んでいます。独占資本の産業支配に対し、中小企業の協同組合化を通して、中小企業・労働者が抗しうる体制を作っています。生コン業界では、セメントメーカーやゼネコンにイニシアティブを取られるのではなく、中小企業・労働者が生コン価格を決定し、品質管理を担い、賃金・労働条件を決めるのです。中小企業と労働組合は一面闘争・一面共闘による緊張関係を有しますが、独占資本に対する共通の課題があるとします。もちろん、独占資本はその資本の専制支配力によって中小企業を引っ張りますから、まさに独占資本との攻防です。一般的に言われる労使協調とは次元を異にします。産業政策とは、労働者の賃金・労働条件ばかりでなく、労働者の職場環境、産業構造は自らが決める労働者の自己決定権の実現でもあります。
さて、いずれにしても、今回関生支部弾圧は、こうした産業政策上の運動展開であることは明らかなのに、あたかも、労働組合が生コン業界を不正な意図で牛耳るために仕組んだ暴力行為であるしています。そして、労働運動への刑事事件としては異例な実刑判決を武委員長に課したのです。今年1月の1審判決で、6人の被告の中で、武委員長だけが、懲役1年10ヵ月の実刑判決です。
さらに、武委員長にはもう一件事件があります。これは、私や関生支部の組合員にとっては理解可能な事件であるのですが、それは仲間内の理解であって、普遍化しにくい内容ではないかと危惧するものです。その件とは、大阪拘置所で発生したとされる贈賄事件です。武委員長が大阪拘置所の刑務官に、便宜供与(規則外の差し入れ)の見返りに、100万円を賄賂として贈ったとされた事件です。06年9月に4度目の逮捕、11月に保釈となりました。武委員長の主張は、当該刑務官が自分の母親の借金返済のために無心したことに対し、同情心で、金を貸したというものです。金銭の授受に争点はないのです。便宜供与はない、金銭の授受は同情による貸し借りであるという主張です。
この贈収賄事件では、金を無心し違法な便宜供与をしたとされる収賄容疑の刑務官(公務員であり、発端の人物)は執行猶予がつき、同じく彼の関わった別件の贈賄容疑のやくざの幹部も執行猶予でした。そして、武委員長は懲役10ヵ月の実刑だったのです。
この事件で、武委員長のマスメディアでの叩かれ方は、拘置所内で知り合いのやくざとの交信に便宜をはからってもらったというものです。生コン業界の暴力支配、政治家への不正献金、そして、拘置所での賄賂と至れり尽くせりの豪華版です。まるで、アメリカのマフィアと繋がった労働組合であるかの様な公安権力とメディアの気配りです。
関生支部の闘争の歴史は、やくざとの闘いの歴史でもあります。関生支部では2名の組合員が、やくざに刺殺されています。そして、いま現在でも、武委員長には身辺の警護がつきます。彼も数度命を狙われ、あわやの場面もあったからです。現在進行形です。
やくざは、「暴力団」と銘打って「市民社会」に居てはならないものとして、簡単に排除されるものではありません。やくざは、ここで生計を営まざるをえない者がひしめき合って生きる場であり、市民秩序から排斥されてきた者の「犯罪」グループなのです。やくざは両義性を持ちます。被差別者であり、人の生活や生命を傷つけます。その経済活動は、資本制生産様式の矛盾を糧として旺盛に活動します。しかし、主は資本であり、従がやくざです。ゼネコン支配の建設産業では、徹底して労働組合を排除してきた歴史を持ちます。そして、その反映として、必要人員の手配から管理を担ってきたのが、部分的にせよやくざではなかったのでしょうか。利益誘導の政治支配と官僚とゼネコンの談合構造がやくざを呼び込み、ゼネコンを頂点とした差別的な重層的下請構造がやくざの暗躍を許すのです。建設産業では、やくざや企業舎弟が、当たり前の様にいます。中小企業経営者で使い分けるものもいます。関生支部の産業政策は、こうした攻防抜きに語れません。
こうした歴史と現在を持つ関生支部の委員長が、やくざの同伴者として断罪される国家権力の策謀に大きな怒りを感じます。
そして、関生支部は治安管理強化の先駆けである暴対法制定に反対しデモした数少ない労組です。これは歴史のアイロニーというべきなのでしょうか。
さて、しかし、こうした労組の委員長ともあろう者が、国家権力の一員である刑務官に金を貸すなんてことがあり得るのか。政治的な警戒心が皆無ではないか。むしろ、やくざと通底する特殊な労働組合と理解した方が判りやすい云々との声もあろうかと思います。関生支部ではどうか。武委員長は産業政策闘争の産みの親であり、不当労働行為には電撃的反撃を展開し、「他人の痛みは己の痛み」とする関生魂を培ってきた人物です。論理的でありながら、原点は情なのです。彼なら情にほだされて、金を貸すことはありうる、と言うのです。その脇の甘さを指摘されるが、そこがまた武委員長らしいと言うのです。私も含めて、理解が出来てしまう。
労働運動である抗議行動・説得活動としての威力業務妨害や強要未遂容疑はありうる、労働組合の政治家支援が瑕疵ではめられるのも判る、しかし、拘置所内での贈賄容疑は理解を越えるとの声に、今の私は、仲間内の論理を越えているのか。普遍的言葉足りえているのか。私は、単に信じています、という以上のことを言いえているのかと思います。この間の論争は、私自身の問題でもあったのです。
こうしたことに言及することが賢明であるかどうか。しかし、関生支部の産業政策の普遍性を多くの労働者や労働組合員に伝えたい。この闘いを展開する関生支部そのものを伝えたいと思っています。そして、今現在、この関生支部の執行委員長が実刑判決を集中されているという状況も知ってほしい。先端的な労働運動の狙い撃ちではないのか、一人関生支部だけの問題ではなく、日本の労働運動総体にかけられた弾圧ではないのかと思っています。関西のローカルな一事象だとは思えないのですが。公安権力は、つい最近も兵庫県警公安1課主導で、関生支部の友好労組書記長を不当逮捕しています。新たな事件捏造も含め、まだまだ予断を許さない状況だと思います。そして、弾圧は弾圧される者がダーティーであるかの装いを必ず伴います。
最後に、私は、この間の論争とそれに関する様々な議論を見るにつけ、私を例外として、ネットの軽快なフットワークを感じてきました。ネットも両義性があるのでしょうが、その可能性を最大限延ばしていこうとする多くの方々の思いと試みを感じました。
この投稿がプロパガンダと理解されないことを願うものです。
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ずっと考えていたのですが、私は結局のところ、「論理=言語」の使用の問題であるとか、インターネットとの関わり方の問題であるとかについて、基本的にことさら異論を申したてるほどの相違を、麻生さんとの間に見つけることはできません。おそらくは麻生さんは私と似たようなことを考えておられるのだと思います。
私自身、「ネット上の黒目というキャラクター」と、現物との落差について、「詐欺だ」と言われたこともあり(W,自分で気がつかないうちに多くの演出をしているのだと思います。
また、左翼の運動にかかわるものは「倫理的でなければならない」「熱心でなければならない」「論理=言語を操ることができなければならない」といったことが、左翼の中に変なヒエラルキーを形成してきたということが、左翼の衰退を生んできたのではないかというようなことを考え、「アホでもやれる運動」というようなことを構想してきたものです。
そもそも、私がここに介入しているのは、いくつかの看過しがたい問題が発生し、それへの対処が必要になったからにすぎません。
その問題の発生の根源が、あるいは戸田さんの人格人となりそのものにあるのかもしれませんし、あるいは運動構造的なものであるのかもしれないわけで、まあその中で、戸田さんの奇矯な立ち振る舞いによって、「戸田さんの人となり問題」というものが、議論の中心になってしまっている、ということではないかと思います。
いくつかの問題、理不尽な要求が突きつけられるといった件、奇妙な「命令」が発せられる件、スパイ行為の容認がうったえられる件、これが私が「看過しがたい」と考えた諸問題であるわけですが、確かにこのうちのいくつかは、「戸田さんの人となり」の問題としてしか考えようのないものも多々あるわけですが、一方で、「一人の人間の人格の問題」というようなものを「解決」する方法は、われわれは持っていないわけで、その中でこれらの、かなりシャレにならん種類の問題が「迷宮入り」してしまうというのも如何なものか、というようなことを考えています。
実際問題、私は立派な大人を捕まえて、その人格を云々するほどの器を持ち合わせてはいないわけで、せいぜいが「インターネットというものはそういうもんではない」とか「あなたはネットのコミュニケーションに向いていないんじゃないのか」とかいった類の意見を述べるといった程度のことしかできないわけです。
で、このような問題は、インターネットという様式が普及してきた結果、顕在化せざるを得なかった問題です。
だがしかし、長い左翼の運動の歴史の中では、このような理不尽な問題は数多く発生してきた筈なのであって、その中で、人に知られることなく、傷つけられ、去っていった人が多くあり、あるいはまた、周りにはまったく意味のわからない分裂が発生したりしてきたのではないでしょうか。
われわれはインターネットというものを手にすることによって、これらの理不尽な問題をまっとうに解決するための手段を得たのだ、という風に考えなければならないのではないか。
というようなことを考えています。
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麻生英人
- 07/3/16(金) 19:21 -
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実際はなかなか難しいのだろうけど、黒目さんの目指そうとされる運動論や内部矛盾の解決の手段としてのネット(大衆的解決方法)という位置づけに共鳴します。
勿論、この間の過程が、一活動家の人格の問題に収斂されてよいはずもありません。本来は軽やかなステップを踏みながら、楽しく連帯していくべき関係性だろうと思っています。
また、私は戸田さんの主体性を尊重していますが、そのことが客観的結果的に、戸田さん批判者の主体を押しとどめ、私が抑圧に転化する意味を持ってしまうということも感じています。時間的余裕がないというのは、主観にとってのいい訳であり、速やかに解決すべき問題であろうとも感じます。
私は、本来なら、個としての主体的判断による解決が最も望ましいと考えます。むしろ、組織的枠組みによる何らかの圧力の中での議論は、なるべくなら避けるべきであると考えます。また、個人の芸風・表現方法の尊重(勿論、自己の虚構性を意識した範囲、という限定をつけながら)、個人の実務的処理能力の範囲の尊重などは見ておきたいと考えます。但し、差別や権力に関わる問題は別でしょうが。一方で、大きな意味では、左翼とは、新たな人間関係をどう形成するのかという問題でもあります。
私は、先の投稿で、現在の資本制生産様式の中で、30年前から取組んでいる、関生支部の政策闘争の普遍性を不器用に説明しました。協同組合と労働組合は、主として19世紀の産物でしょうが、両者による生産協同体は未来の生産様式の萌芽的形態ではないのかと思っています。そして、こうした議論というのは、精神的な協同関係をいかに形成していくのかの問題でもあるような気がします。そこでの関係性を意識した議論形成と配慮が求められている。戸田さんは、この機微が判る立場にいると信じています。
いずれにしても、またも、少し時間を下さい。
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ホッシュジエンの国内ニュース
- 07/12/30(日) 19:35 -
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企業や官公庁で働く人のうち、労働組合に入っている人の割合は、
昭和22年に調査を始めて以来最も低い18.1%にとどまり、
非正規の労働者が増えるなかで、組合離れがいっそう進んでいること
がわかりました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
彡ミ ___ __ * 労組幹部は企業主に労働者の統率力を
|ヽ /| ,,,,,,,,l / / 見せて出世しようとする。企業主は
|ヽ | | ミ ・д・ミ/_/旦~~ そうして労働者を意のままにしようとする。
⊥ |  ̄| ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
凵 `TT | ̄l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l 労組トップは政党と財界とも繋がっています。(・A・ )
07.12.30 NHK「労働組合離れ いっそう進む」
http://www.nhk.or.jp/news/2007/12/30/k20071230000076.html
* 戦後労組の歴史はこうして財界が人間の弱さ、エゴに付け入って
労組組織を丸め込んだ歴史でした。一方、政党は労組を票田とする
事で現体制の投票制度を堅持しようとします。しかし投票制度その
ものは公務員支配体制の中で公務員が管理していますので、投票結
果はどうにでも操作出来るようになっているようです。つまり票田
確保は国民が確かに投票所へ向かったという、彼らの用意した「投票
結果」を既成事実化するためだけにある事になります。
大戦中、日本は選挙を行いましたが、投票が国家方針に影響を与え、
早期停戦に持ち込まれて多くの国民の犠牲が避けられるという事はあり
ませんでした。戦後内閣の東久邇は「戦争に負けたのは天皇の責任では
なく国民のせいである。」と言い放ったのはよく知られた歴史的事実です。
労働者が労組離れを起こすのは当然の結果といえるでしょう。
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<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@p3137-ip602marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp>
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ホッシュジエンの国内ニュース
- 08/2/20(水) 16:02 -
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町村信孝官房長官は20日午前の記者会見で、在日米軍が沖縄の
全米兵の外出禁止などの措置を決めたことについて「昼夜を問わ
ないで外出を禁止するということだからそれなりに評価する」との
認識を示した。一方で「具体的な再発防止策が必要であり、その
点は今後さらに協議していくことになる」と述べ、再発防止策の
とりまとめを急ぐ考えを強調した。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
彡ミ ___ __ 日米軍事支配体制の中で、日本が米軍を
|ヽ /| ,,,,,,,,l / / コントロール出来るかという視点に
|ヽ | | ミ ・д・ミ/_/旦~~ この作為的な不祥事の発端があるように思える。
⊥ |  ̄| ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
凵 `TT | ̄l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l * この体制の中では本質ではないでしょう。(・A・ )
08.2.20 日経「米兵の外出禁止措置、官房長官が評価」
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080220AT1G2001N20022008.html
* 元々、WW2において世界的な戦争利権であった核技術開発、生体工学
技術開発に絡む日本の対米協力戦争が太平洋戦争でした。戦後米は生産
技術支援、米国市場の開放などで財界へ、アウシュビッツ、731部隊の生体
実験を経て完成された、いわゆるマインドマシンと俗称される生体工学
技術による恐怖政治により、ほぼ完全に国内統治を掌握する事で閨閥・
特権階級への褒賞が与えられたのが戦後日本の姿といえます。国内の主要
分野において各トップが国策協力者で固められたのは公的機関のみでは
ありません。既存の報道機関を初め法曹界、医療組織、教育機関、巨大な
背景を持った既存の平和団体や労組にいたるまで、今日では国民の側には
ありません。トップに与えられる褒賞・利益配分で、彼らは公的機関や
政治団体と癒着し、その一方で公務員権限は一層強化されて行ったので
した。民主主義社会において国民の唯一の手段といえる投票選挙制度も
公的機関が管轄します。国民の投票結果が国策を決定するのではなく、
『国策』が国民の『投票結果』を決定するのです。
戦後日本における日本政府の駐留米軍への統率力・影響力はしばしば
問題になってきましたが、敗戦国であるが故に米権限の優位性が論じられて
来たのが常であったと私には思われます。しかしこうした支配体制の中では
むしろ敗戦国だからではなく、あくまで対米協力による政官業及び彼らの委託
業者といえる各種団体への利益配分が中心になって国内統治問題が決定され
ているからだという事が分かります。
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<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@p3007-ip601marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp>
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