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2016年11/25(現地時)カストロ死去!(90才)2世紀をまたぐ革命の巨星に敬礼す! 戸田 16/11/27(日) 21:14

◇広島を訪れ被爆者を気遣ったカストロ★米帝の核戦争策動阻止と自国防衛を賭けた闘争 戸田 16/11/27(日) 22:12
◆希代のカリスマ革命家=カストロ/▲60年代の同性愛者迫害を認め「責任はわたしに」 戸田 16/11/29(火) 8:23
☆釈放されたマンデラが真っ先に訪れたキューバ。カストロの訃報に八木さんの秀逸論評 戸田 16/12/1(木) 23:48

◇広島を訪れ被爆者を気遣ったカストロ★米帝の核戦争策動阻止と自国防衛を賭けた闘争
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 戸田 E-MAILWEB  - 16/11/27(日) 22:12 -
  
 前半に2003年広島訪問の記事を紹介し、後半にいわゆる「キューバ危機」の本質を指摘する記事を紹介する。
 キューバ革命にとって「核兵器問題」が如何に「現実的に生死をかけた闘い」であったかがよく分かる。
 
 「キューバ危機」の主導要因は決してキューバでもなければソ連でもない。
 米帝の「ソ連撃滅核戦争作戦」と「革命キューバ抹殺策動」こそが主因であり、革命キューバは、まさに「国丸ごと米帝の核兵器で消滅させられる現実的危険性」を全人民的に自覚した「世界史上空前の闘い」を断固として引き受ける事によって、革命国家キューバ
の防衛存続を勝ち取ったのである。
    ↓↓↓
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◎フィデル・カストロ氏「人類は広島の教訓を学び取っていない」来日時に訴えた平和へ
 の思いとは (執筆者: 吉川慧)投稿日: 2016年11月26日 16時26分
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/26/fidel-cast【URL短縮沸:C-BOARD】.
  (写真多し)
 11月25日に90歳で死去したキューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長。
 親日家として知られたカストロ氏だが、2003年3月の来日時には広島を訪問している。
 1962年、人類史上最も核戦争の危機が高まったとされる「キューバ危機」を経験した
カストロ氏にとって、広島の訪問は「長年の夢」だったという。

 平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花するキューバのフィデル・カストロ国家評議会議長 2003年03月03日

■「人類は広島の教訓を学び取っていない」

 2003年3月3日、広島を訪れたカストロ氏は平和記念資料館(原爆資料館)を訪問。原爆投下後の広島市内のパノラマ写真などを見学した。
 この時カストロ氏は、平和記念資料館の芳名録に、こんな言葉を書き遺している。

 「このような残虐な行為を、決してまた犯すことのないように」

 カストロ氏は、この日開かれた歓迎昼食会の席で、広島に原爆が投下されたニュースを当時のラジオ放送で聞いたエピソードを明かし、「様々な戦争のエピソードの中で最も衝撃を受けた」と述べた。その上で、広島の被爆の教訓を、人類は学ぶべきだと訴えた。

 人類は広島の教訓を十分学び取っておらず、世界はまだ危険のふちにいる。たくさんの人々が広島を訪れなくてはならない

 朝日新聞・2003年3月4日朝刊・広島版

 62年、米ソ対立で人類史上最も核戦争の危機が高まったとされる「キューバ危機」を経験したカストロ氏は、広島に対して「連帯の気持ちを表明したかった」と語った。

 広島と長崎の人たちは全く罪のない犠牲者。哀悼の意を表したいという長年の願いがかなった
朝日新聞・2003年3月4日朝刊

■「日本国民は一言も恨みを発しなかった」

 キューバ帰国後、カストロ氏は広島訪問時の所感について国会で演説。世界に向けて広島を訪問するよう訴えた。また、原爆を投下したアメリカを痛烈に批判した。

 何百千万の人々があの地を訪れるべきだ。あそこで起こったことを人類が真に知るために
   朝日新聞・2003年3月15日朝刊・広島版

 あの攻撃はまったく必要のないもので、モラル上も正当化できない
   朝日新聞・2003年3月15日朝刊・広島版

その上で、被爆国日本についてこう評価している。
 日本国民は一言も恨みを発しなかった。それどころかそのようなことが2度と起こらないよう平和を願う記念碑を建てた
    朝日新聞・2003年3月15日朝刊・広島版

 アメリカのオバマ大統領が、アメリカの現職大統領として初めて広島を訪問したのは、それから13年の月日がたった2016年5月のことだった。

▼「フィデル・カストロ氏」スライドショー▼

・フィデル・カストロ――波乱に満ち、光と影が交差したキューバ革命指導者の生涯
  http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/26/fidel-castro_n_13245796.html

・キューバのラウル・カストロ議長とオバマ大統領が歴史的握手(画像)
・3分で分かるキューバの歴史 アメリカ大統領が88年ぶり訪問へ
・チェ・ゲバラが生きていたら何と言うか キューバとアメリカが国交正常化へ
  http://www.huffingtonpost.jp/2015/04/11/che-guevara-cuba-us_n_7047700.html
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★カストロが率いて成功させたキューバ革命によって米好戦派が計画した対ソ先制核攻撃
 計画は困難に(櫻井ジャーナル)
   http://www.asyura2.com/16/warb19/msg/204.html
   投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 11 月 27 日 10:14:05:
  カストロが率いて成功させたキューバ革命によって米好戦派が計画した対ソ先制核攻撃
  計画は困難に
   http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201611270000/
    2016.11.27 03:20:03 櫻井ジャーナル

 11月25日にキューバのフィデル・カストロが死亡したという。
 うまでもなく、カストロはキューバ革命の英雄。アメリカ支配層の傀儡だったフルヘンシオ・バチスタ政権を倒すため、1953年7月26日に実行されたモンカダ兵営襲撃から革命は始まり、59年1月1日にバチスタがキューバを逃げ出し、8日にカストロがハバナ入りして終わった。
 アメリカでは1953年1月から61年1月までドワイト・アイゼンハワーが大統領を務めている。

 この当時、アメリカ支配層の好戦派はソ連に対する先制攻撃を考えていた。
 この計画とキューバ情勢は深く結びついている。

 第2次世界大戦で殺されたソ連人は2000万人以上、工業地帯の3分の2を含むソ連全土の
3分の1が破壊されている。
 しかもソ連軍で装備が十分な部隊は3分の1にすぎず、残りの3分の1は部分的な装備しか持たず、残りは軍隊の体をなしていなかった。

 これはアメリカ支配層の中でも好戦派として知られている。
 ポール・ニッツェの分析だ。本ブログでは何度か指摘したように、アメリカ軍はドイツ軍とまともに戦っていない。

 日本がポツダム宣言を受諾すると通告してから約1カ月後にはJCS(統合参謀本部)で
ソ連に対する先制攻撃を必要なら実行すると決められている。
 この決定はピンチャーという暗号名で呼ばれた。
 もっとも、この時点でアメリカが保有していた核兵器は2発にすぎないと言われているので、全面核戦争というわけではないだろう。

 1948年後半になると、心理戦の専門家で特殊部隊の産みの親とされている「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)、

 翌年に出されたJCSの研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)を落とすという内容が盛り込まれていた。
 1952年11月にアメリカは水爆実験に成功している。

 この当時、原爆の輸送手段は爆撃機。その任務を負っていたのがSAC(戦略空軍総司令部)で、1948年から57年まで司令官を務めたのがカーティス・ルメイ中将だ。
 日本の諸都市で市民を焼夷弾で焼き殺し、広島や長崎に原爆を落とした責任者だ。

 1954年になるとSACは600から750機の核爆弾をソ連に投下、2時間で破壊し、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。
 この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。

 1957年の初頭になると、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定した「ドロップショット作戦」を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
 1958年にアメリカが保有する核兵器の数は3000発に近づいた。

 1960年の大統領選挙で共和党の候補者だったリチャード・ニクソンはアイゼンハワー政権の副大統領。そこで、軍事的にアメリカが圧倒していることを知っていた。

 それに対して民主党のジョン・F・ケネディ上院議員は1958年8月にソ連がミサイルで優位に立っていると主張、「ミサイル・ギャップ」なる用語を使って危機感を煽り、有権者の心をつかんだ。
 こうした話をケネディに吹き込んだのは、元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だとされている。

 もっとも、ケネディが好戦的だったと言うことは正しくない。
 例えば、1954年4月には議会でフランスがベトナムで行っている戦争を支持するアイゼンハワー大統領を批判、また57年7月には、アルジェリアの独立を潰すために戦争を始めた
フランスの植民地主義に強く反対、60年の大統領選挙ではアイゼンハワーとジョン・フォスター・ダレス国務長官の好戦的な外交政策を批判している。
 (David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 結局、選挙でケネディが勝利した。
 その段階で彼はジョン・フォスター・ダレスの弟でCIA長官だったアレン・ダレスやFBIのJ・エドガー・フーバーを解任するべきだと考えていたようだ。
 ケネディの父親、ジョセフ・ケネディも大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だということを話していたと言われている。

 しかし、選挙結果が僅差での勝利だったことからケネディは両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 ケネディが大統領に就任した3カ月後、1961年4月に亡命キューバ人の部隊がキューバへの軍事侵攻を目論んで失敗する。
 その背後にはCIAがいた。ダレスCIA長官など好戦派はそうした作戦の失敗を想定、アメリカ軍の本格的な軍事介入を予定していた可能性が高いと考えられている。

 実際、チャールズ・キャベルCIA副長官は航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させ
ようと大統領に進言したが、却下されてしまう。
 その後、キャベル副長官はアレン・ダレス長官やリチャード・ビッセル計画局長とともに解任された。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 7月になると、ケネディ大統領に対してライマン・レムニッツァーJCS議長をはじめとする軍の幹部が1963年後半にソ連を核攻撃するという計画を大統領に説明した。
 大統領から1962年の後半ならどうなのかと聞かれたレムニッツァーは使用できる十分なミサイルが不足していると答えたという。

 レムニッツァーは大戦中の1944年からアレン・ダレスと面識がある。ふたりは秘密裏にナチスと接触し、降服に関してスイスで話し合っているのだ。
 その先にはナチスと手を組んでソ連と戦うという道筋ができていた。

 キューバに対するアメリカ軍の侵攻を正当化するため、レムニッツァーたちは偽旗作戦を考えている。
 例えば、キューバのグアンタナモにあるアメリカ海軍の基地をキューバ側のエージェントを装って攻撃、マイアミを含むフロリダの都市やワシントンでの「テロ工作」も展開、アメリカ人が操縦するミグ・タイプの航空機で民間機を威嚇、船舶を攻撃、アメリカ軍の無人機を破壊したり、民間機のハイジャックを試みたり、キューバ側を装ってその周辺国を攻撃したりする計画もあった。

 それだけでなく、民間旅客機がキューバ軍に撃墜されたように装う計画もあった。

 民間機のコピー機をフロリダ州にあるエグリン空軍基地で作り、本物は自動操縦できるように改造、空港から人を乗せたコピー機に離陸させ、途中で自動操縦の飛行機と入れ替え、それをキューバ近くで自爆させ、キューバ軍に撃墜されたように見せかけようとしていた。

 そのほか、4ないし5機のF101戦闘機をキューバに向かって発進させ、そのうち1機が撃墜されたように見せかける計画もあった。
 (Memorandum for the Secretary of Defense, 13 March 1962)
 この偽旗作戦をレムニッツァーは1962年3月にロバート・マクナマラ国防長官に長官の
オフィスで説明しているが、拒否されている。
 (Thierry Meyssan, “9/11 The big lie”, Carnot Publishing, 2002)

 アメリカの好戦派、つまり疲弊したソ連を先制核攻撃で殲滅しようと考えていた勢力がキューバへの軍事侵攻に執着した理由は中距離ミサイルいよる反撃を恐れたからだと考えることができる。

 アメリカがソ連に対する先制核攻撃を考えていることはソ連政府も知っていたはず。
長距離爆撃機やICBM(大陸間弾道ミサイル)で対抗できなければ中距離ミサイルを使うしかない。
 アメリカもソ連もそう考え、両国はキューバに注目したのではないだろうか。

 そして1962年8月、アメリカはソ連がキューバへミサイルを運び込んでいることに気づく。
 偵察機のU2がキューバで8カ所の対空ミサイルSA2の発射施設を発見、9月には3カ所の地対空ミサイル発射装置を確認したのだ。
(Jeffrey T. Richelson, "The Wizards of Langley," Westview Press, 2001)

 ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明した。
 (Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 こうした事態を受け、10月9日にケネディ大統領はJCSのメンバーと会談、ルメイを中心とするグループは運び込まれたミサイルを空爆で破壊すべきだと主張した。
 空爆してもソ連は手も足も出せないはずだというのだが、ケネディは同意していない。

 ケネディ大統領は10月22日、キューバにミサイルが存在する事実をテレビで公表、海上封鎖を宣言した。
 戦略空軍はDEFCON3(通常より高度な防衛準備態勢)へ引き上げ、24日には一段階上のDEFCON2にする一方、ソ連を空爆する準備をしている。

 27日にはU2がキューバ上空で撃墜され、ニューヨークにいたソ連の外交官たちは機密文書の処分を始めたという。
 27日にはシベリア上空でU2がソ連のミグ戦闘機に要撃されている。
 この出来事を受け、マクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2が同じことを繰り返した。
 (Richard J. Aldrich, "The Hidden Hand," John Murray, 2001)

 それだけでなく、アメリカ海軍の空母「ランドルフ」はカリブ海で対潜爆雷を投下するが、その近くにはキューバへ向かう輸送船を警護していたソ連の潜水艦がいた。
 その副長は参謀へ連絡しようとするが失敗する。

 アメリカとソ連の戦争が始まったと判断して核魚雷の発射準備に同意するようふたりの将校に求めるが、政治将校が拒否して実行はされなかった。
 この日、カーティス・ルメイ空軍参謀長などJCSの強硬派は大統領に対し、即日ソ連を
攻撃するべきだと詰め寄っていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 結局、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられたのだが、ベトナム戦争の実態を内部告発したダニエル・エルズバーグによると、キューバ危機が外交的に解決された後、国防総省の内部ではクーデター的な雰囲気が広がっていたという。
(Peter Dale Scott, “The American Deep State,” Rowman & Littlefield, 2015)

 当時、マクナマラ長官はキューバへ軍事侵攻した場合のアメリカ側の戦死者数を4500名になると推測していたが、30年後、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 その翌年、1963年6月10日にケネディ大統領はアメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行った。

 アメリカが軍事力で世界に押しつける「パックス・アメリカーナ(アメリカ支配による平和)」を否定することから演説は始まり、アメリカ市民は「まず内へ目を向けて、平和の可能性に対する、ソ連に対する、冷戦の経過に対する、また米国内の自由と平和に対する、自分自身の態度を検討しはじめるべき」(長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集』南雲堂、2007年)だと語りかけたのだ。

 ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたのはその年の11月22日。当時のダラス市長はCIA副長官だったチャールズ・キャベルの弟、アール・キャベルだ。

 ソ連に対する攻撃をアメリカの好戦派だけが考えていたわけではない。
 第2次世界大戦の終盤、1945年4月12日にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、5月7日にドイツが降伏するが、その直後にウィンストン・チャーチル英首相は
JPS(合同作戦本部)に対し、ソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令、
 5月22日にアンシンカブル作戦が提出されている。

 7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になって
いた。この作戦は発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからだ。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 もし、カストロたちの革命が成功せずキューバをアメリカが支配していたなら、ソ連に対する先制核攻撃が実行された可能性はかなり高くなるだろう。
 そうした戦争が始まったなら、沖縄をはじめ、日本は核兵器の発射基地になり、報復の対象になったはずだ。
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引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; GTB7.5; YTB730...@i60-35-94-98.s04.a027.ap.plala.or.jp>

◆希代のカリスマ革命家=カストロ/▲60年代の同性愛者迫害を認め「責任はわたしに」
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 戸田 E-MAILWEB  - 16/11/29(火) 8:23 -
  
 3本の記事を紹介する。
 後半2本目の「同性愛者迫害についての2010年のカストロ発言」は、戸田はこれまで知らなかったので注目した。
 キューバの同性愛者迫害問題については、数年前に同性愛少年を主人公にしたキューバ映画が上映されて話題になった。
 それはつまり、「同性愛者への差別は良くないことだ」という、「新たな社会的意識」がキューバで起こってきた事の反映だったのだろうと思う。

 1960年代は同性愛者が「反革命的」とみなされて強制労働キャンプに送られたキューバはやがて変化して、1979年に同性愛が法的に認められるようになり、2000年代には性転換手術を無料で受けることができる社会になり、同性カップルの同居を法的に認めようとの動きも起こってきた。

 カストロは同性愛者迫害を誤りであったと認め、「責任はわたしにある」と認める事の出来る「最高指導者」だった。(それもアメリカのメディアに対して!)
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◎希代のカリスマ革命家=世界各地の左翼に影響−フィデル・カストロ氏
  http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112600171&g=int


キューバ革命成功後、ハバナ入りし、ジープから手を振るフィデル・カストロ氏(中央)=1959年1月(AFP=時事)
 希代のカリスマ革命家がついに逝った。米フロリダ半島まで約150キロと目と鼻の先の小さな島国キューバで社会主義革命を成し遂げ、米国と対峙(たいじ)したフィデル・カストロ氏。暗殺未遂事件は600回を超える。革命政権を維持しつつ、天寿を全うしたこと自体、驚異的だった。

〔写真特集〕キューバ フィデル・カストロ前国家評議会議長

 「歴史は私に無罪を宣告する」。
 カストロ氏が生前残した数々の情熱的な演説の中で最も有名な言葉だ。
 1953年、親米のバティスタ政権による圧政に抵抗し、若き弁護士カストロ氏は同志らとモンカダ兵営襲撃を敢行した。
 
 失敗し拘束されると、自らを裁く公判で類いまれな弁舌を発揮。
 法廷を「革命プロパガンダ」の舞台に変えた。
 多くの同志を束ねる求心力、人を引き込む雄弁と情熱。国際社会でも比類のない存在感を持つ指導者だった。

 反米の旗手として、中南米を中心に世界各地の左翼勢力の精神的な支えだった。
 盟友の故チャベス・ベネズエラ大統領ら強硬な反米左派だけでなく、ブラジルなど穏健左派政権にも多大な影響を与えた。「米国の制裁には100年でも耐えられる」と豪語して制裁を耐え抜き、アフリカへの「革命の輸出」を進めて、非同盟諸国をけん引した。

フィデル・カストロ前国家評議会議長(左)と実弟のラウル・カストロ議長=2011年4月、ハバナ(EPA=時事)

 圧倒的な指導力で推し進めた革命には副作用もあった。
 中南米では珍しく非識字者がほぼ皆無という高い教育水準、海外に「輸出」できるほど高度な医療サービスを実現したものの、1991年のソ連崩壊後は、東側陣営への砂糖輸出に頼っていた単一的経済が悪化。経済は長く低迷し、閉塞(へいそく)感の強まったキューバからは亡命・脱出者が続出した。

 後を継いだ実弟ラウル・カストロ現国家評議会議長は立て直しに向けて、米国との国交回復や、市場原理を部分的に導入する経済の段階的自由化を余儀なくされた。
 政界引退後も、国営メディアを通じて国際情勢を精力的に論じ、「帝国主義」に対抗する姿勢が色あせることはなかった。

 「革命か死か。勝利の日まで」のスローガンに象徴される強烈な革命思想。
 その精神は、欧米の影響下に入るのを嫌う人々の心を今も鼓舞し続けている。(2016/11/26-17:30)
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◆カストロ前議長、60年代の同性愛者迫害で「責任はわたしに」
    カストロ前議長 同性愛者が迫害されていた事実認める
    2010年9月1日 CNN.co.jp
 http://queerlibrary.seesaa.net/article/161301276.html

 ハバナ(CNN) キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長がメキシコのラ・ホルナダ紙とのインタビューの中で、かつて革命政権下で同性愛者が迫害されていた事実を認めた。

インタビュー記事は8月31日付の同紙に掲載された。インタビューはカストロ前議長の自宅で5時間にわたり行われ、30日には前半の内容が同紙に掲載されていた。

 カストロ前議長は革命軍が権力を掌握した1959年から2006年まで政権の座にあった。

1960〜70年代のキューバでは、同性愛者であることを公表していた男性は罪状も裁判もないまま強制労働収容所に送られていた。

 これについてカストロ前議長は、重大な不公平だったと認め、「誰かに責任があるとすれば、それは私だ」と述べた。
 「生きるか死ぬかというようなひどい問題が山積していたため、(同性愛者への処遇に)十分な注意を払っていなかった」とも語った。

 キューバでは1979年以降、同性愛者としての行為は犯罪とは見なされなくなった。最近では、同性カップルの同居を法的に認めようとの動きもある。

 インタビューの話題は、50年にわたる米国の対キューバ禁輸措置にも及んだ。
カストロ前議長は「最大の問題は常に薬剤と食料だったが、状況は今も同じだ」と言う
一方で、禁輸措置が国家の創造力を高めることにつながったとも指摘。
 「戦いを強いられたことで、われわれは禁輸措置がなかった場合に比べて多大な努力をするようになった」と話した。

 米国は、カストロ政権による私有地の没収や民間企業の国営化、米国製品への重税に対抗し、1961年に同国に対して禁輸措置をとった。
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◎カストロ前議長、60年代の同性愛者迫害で「責任はわたしに」
  2010年9月1日 ロイター [ハバナ 31日 ロイター]

 キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長(84)が、31日付のメキシコ紙ホルナダでのインタビューで、1960年代に同国政府が進めた同性愛者への迫害政策について、「ひどい不正だった」と自らの責任を認めた。

 キューバでは1960年代、同性愛者が「反革命的」とみなされて強制労働キャンプに送られるなどし、1979年に同性愛が法的に認められるまで当局による差別が続いた。

 カストロ氏は、こうした政策が「ひどい不正だった」と発言。自身は同性愛者に対する偏見はないとしながらも、「責めを問われるとすれば、それはわたしだ」と責任を認めた。

 一方で、1962年10月に起きたキューバ危機など、「生死にかかわる問題が当時は山積していた」と、問題に対処できなかった理由を説明した。

 キューバでは同性愛者を取り巻く状況が大きく変化し、今では性転換手術も無料で受けることができる。
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引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; GTB7.5; YTB730...@i121-118-55-252.s42.a027.ap.plala.or.jp>

☆釈放されたマンデラが真っ先に訪れたキューバ。カストロの訃報に八木さんの秀逸論評
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 戸田 E-MAILWEB  - 16/12/1(木) 23:48 -
  
 阿修羅掲示板にカストロとキューバについてとても秀逸な論評があったので紹介する。
   ↓↓↓
◎フィデル・カストロの訃報に(八木啓代のひとりごと)
    http://www.asyura2.com/16/kokusai16/msg/507.html
       投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 11 月 27 日 21:38:30:
フィデル・カストロの訃報に
      http://nobuyoyagi.blog16.fc2.com/blog-entry-754.html
 八木啓代のひとりごと

 昨日、キューバ音楽についての講演を終えて、スマホをチェックしたら、フィデル・
カストロ逝去の報が流れていた。あわてて、キューバ共産党の公式紙「グランマ」のサイトにアクセスしたら、世界中からアクセスが殺到していたのか、つながらなかった。

 講演の最中に、なぜか、まったく予定になかったフィデルの面白系エピソードを話してしまったことを思い出す。人によってはこういうのを虫の知らせと言ったりするのかもしれない。

 音楽に関する講演と言っても、それは「音楽から見るキューバの歴史」というものだった。

 音楽と政治は切り離せない。というか、「歌は世につれ、世は歌につれ」とはよく言ったもので、音楽はその時代をもっとも端的に表現しているものだ。

 音楽と政治が関係ないなどというのは、あまりに近視眼としか言いようがない。そもそも、「黒人奴隷制」がなければ、アフリカの黒人が大量にアメリカ大陸に来ることもなかった。ジャズもサンバもラテンも生まれなかったではないか。コロンブスのアメリカ到達、黒人奴隷の流入、フランス革命、産業革命、禁酒法.....すべては音楽に大きな影響を与えたのだ。

 .....という、音楽を聴きながらのキューバ音楽に関する講演だから、当然ながら、
フィデル・カストロの起こした「キューバ革命」もまた、そこで触れないわけにはいかない「出来事」である。

 その講演を終えた直後の、訃報だった。

 フィデル・カストロほど、愛され、尊敬され、憎悪された人は少ないだろう。
 なんといっても、強烈なパーソナリティの持ち主でもあり、間違いなく、20世紀の主役の1人であったことには間違いない。

 そして、報道にもネット上にもいろいろなコメントが流れた。
 それもまた、当然、予測されたことである。

 彼は強権的な独裁者であったか。

 ある意味、それは事実である。なんといっても、フィデル・カストロの在任期間は長かった。

 フィデルの在任期間中の米国の大統領は、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、
ニクソン、フォード、カーター、レーガン、ブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ
(息子)、オバマ、と11人を数える。
 
 まあ、これだけでも、普通ではない。そういう意味では、これが民主的といえるのか? と言われれば、答えはノーだし、独裁かと言われたら、答えはイエスである。

 しかし、たくさんのデマもある。
 事実ではあるが、重大な前提条件を無視している指摘もある。
 そして、残念ながら、デマや中傷を流す側の方が圧倒的に資金力にも組織力にも勝っている。

 たとえば、フィデルがはじめから共産主義者で、ソ連に傾倒していたなどというのは、かなりわかりやすいデマだ。
 彼は新婚旅行で米国に行くぐらい、もともとは米国が好きな人だったし、革命が成功したあとにも、真っ先にやったことは、ソ連に挨拶に行くことではなく、米国に挨拶に行くことだった。キューバ革命自体、社会主義革命ではなかった。

 そのフィデルと革命家たちを足蹴にしたあげく、利権のために革命を潰そうとしたのは、米国の方だった。

 こんなことは、ちょっと調べれば山のように資料のあることである。

 それでも、いまだにデマを書く人間は存在する。
     ↓↓↓
  フィデル・カストロ――波乱に満ち、光と影が交差したキューバ革命指導者の生涯
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/26/fidel-castro_n_13245796.html?utm_hp_ref=japan
    
 それは、「キューバ革命がはじめから米国に敵対する社会主義革命であった」と、問題を、すべてキューバの責任にした方が都合のいい人たちがいたからである。
 
 キューバが社会主義宣言をしたのは、革命の翌年、1960年に、米国がキューバを攻撃したことの帰結だった。
 表向きは「キューバ人の反革命軍」が政権奪還を試みたということになっているが、
この「反革命軍」なるものに武器や装備や供給し、バックアップしたのはCIAだし、
米軍機がハバナの爆撃までやっちゃってるんだから、語るに落ちた言い訳だ。

 そして、キューバが、力学上、生き残るために、当時、米国と対立していたソ連に接近せざるを得ない状況を作ったのは、アイぜンハワーとCIA自身である。
 (キューバ攻撃はケネディの時代だが、命令を下したのはアイゼンハワーの最後っぺ)

 ソ連にとっても、米国の至近距離に基地が置けることはメリットだったから話に乗ったわけだ。

 そして、ケネディはキューバの経済封鎖を決行する。
 それは段階的に強化され、国交回復したとはいえ、じつは今でも続いている。

 そして、キューバは社会主義圏に入った。

 当時の冷戦下では、日本からすると「敵陣営」であるから、当然、キューバについては悪いニュースが圧倒的に流されることになったが、それは日本の都合の問題で、これもべつにキューバのせいではない。

 世界を風靡したキューバ音楽の情報は途絶えたが、それは経済封鎖のせいで、キューバの音楽家がメジャーのレコード会社と契約できなくなったからだった。

 キューバの音楽家がメジャーデビューするための条件は、「亡命して、反革命活動に協力する」ことだったから、メジャーデビューしたい人たちは、そのようにした。有名人の場合は、破格の契約金というおまけ付きの引き抜きもあった。

 一方で、キューバ人でなくても、「キューバを訪問したけど良いところだった」などと記者会見で語ろうものなら、その音楽家は業界を干された。
 爆発的に売れていたベネズエラのサルサ歌手オスカル・デ・レオンですらそうなった。 彼は再度記者会見をやって、「キューバはひどいところだった」と虚偽を語り、すべての責任を当時のマネージャーになすりつけて、なんとか業界に復帰した。

 その間もひっきりなしに、ハバナで反革命派によるテロがあったし、国連大使や各国のキューバ大使館もテロの標的にされていた。
 CIAは巨額の資金を使ってキューバ政府転覆を企んでいたし、革命前キューバに利権を
持っていた富裕層や多国籍企業にくわえて、カジノ利権・麻薬利権を持っていたマフィアもキューバ政府転覆を企んでいた。

 いろいろな思惑があっただけに、ものすごい巨額のお金がここで動いていた。
 
 こういう背景を知ることは重要である。

 つまり、キューバは革命後も、常に攻撃され続けていて、キューバ人にとっては、
「いつ米国が攻撃してくるか」「次はどういうテロを仕掛けてくるか」というのは日常だったわけだ。

 日本人には実感が湧かなくて、「大袈裟な」と思われるかもしれないが、実際に、何度もテロ事件はあったし、バイオテロが疑われる事例もたくさんあった。
 キューバの遺伝子研究が発達したのは、そのせいもある。

 言葉を変えれば、キューバはずっと臨戦態勢だった。
 だから兵役もシビアだった(真剣に、ゲリラ戦の訓練とかする)。

 経済封鎖がえげつなかったから、物資もなかった。

 そういった背景を理解しないで(あるいは意図的に無視して)「カストロ政権でキューバ経済がうまくいかなかった」とか「キューバ政府が反対派を弾圧した」という指摘をするのは、まったくフェアとは言えない。

「キューバ政府が反対派を弾圧していた」のか。そもそも、これは微妙だ。

 半戦時下にある状態で、その国の政権を潰そうとしている敵対国から資金援助を受け取って具体的な謀略活動に従事したとして、それが何の罪にもならない国があるのだろうか?

 誤解がないように言っておくが、キューバでは、政府批判なんて普通に誰でもやっているし、べつに投獄も何もされてない反体制活動家とか反体制ブロガーもざらにいる。
 私も何人も知っている。
 ヨアニ・サンチェスみたいに外国から援助を受けてるのをはっきり認めてやっている人も何人もいる。それが仕事かよ。
 それでも、ほぼ野放しだ。言い換えれば、投獄されるのって、よっぽどともいえる。

 では、キューバでは、表現の自由などの規制はなかったのか。LGBDへの差別はなかったのか。
 これも、キューバを叩きたい人たちが、鬼の首を取ったように主張していることだ。

 LGBDに関して言えば、人種差別や男女差別はかなり早い時期から撤廃方向に進んでいたが、キューバのLGBD差別への取り組みは遅かった。これはラテン文化とのかかわりもある。

 ゲイフォビアの問題で言うと、レイナルド・アレナスのような亡命作家も生むことになった。
 でも、アレナスはそれで「自由の国」米国に亡命して幸せになったかというと、そうではない。
 フロリダの反革命グループのもっとひどいゲイフォビアの標的になって、ニューヨークに移り、そこで自殺する。

 つまり、ゲイフォビアは、「キューバ人の根強い(悪しき)文化の問題」であり、革命自体の問題ではなかったということだ。

 その風潮のもとで「苺とチョコレート」という映画が世界的にヒットしたのが、1994年だ。

 キューバのゲイ差別を描いた作品だが、これはキューバ人が書いたベストセラー小説を原作に、キューバで制作されて公開され、もちろんキューバ国内でも大ヒットした。

 キューバでのゲイ差別や官僚主義の問題をきわめて批判的に描いた作品が、キューバ国内の文学賞を取り、ベストセラーになり、映画化された。
 もちろん、禁止されたり弾圧なんてされてないわけだ。

 このころ、私はハバナで日本のLGBTの人たちに会ったことがある。
 彼らは、「苺とチョコレート」を見て、感動してキューバに来たのだった。キューバは凄いと言ってた。

 「いやでも、あれって、負の問題としての差別を扱ってますよ」

 「だから、ゲイ差別の問題を、あそこまではっきり扱えるってのが凄いんです。
 それでベストセラーになるとか大ヒット映画になるとか、日本でも米国でもありえないです。僕らには感動です」(註:1994年時)

 これが、実際のLGBTの方たちのご意見であったことは付け加えておく。

 それと、キューバ社会一般では、ゲイフォビアがあったのは事実だけど、アーチストには(有名人でも)ゲイの人はけっこういて、別に問題なく普通に活動はしていたことも、そういう知り合いは何人もいるんで、あえて書いておく。
 ゲイであるというそのことだけを理由に弾圧されたというような事実は、少なくとも80年代には、もうなかったと断言できる。

 表現の自由規制については、あった。いまでもある。
 特に、ソ連留学なんかしちゃった官僚がのさばった70年代から80年代には、かなりアレな時期もあった。

 書籍の内容や歌の歌詞にぐちゃぐちゃ言ってきたり、気に入らないアーチストを干そうとしたりとか、テレビやラジオの自主規制とか、まあいろいろと。

 教条主義者とか、権力欲に駆られた腐敗した小役人みたいなのはいるものだ、どこにでも。で、そういう連中ほど、権力を笠に着る。

 これはね、私も、むかつくクズな官僚を何人も知っている。

 ただ、キューバ国内で、この問題と真摯に闘ってきた根性ある人たちもいっぱいいた。

 音楽家が因縁つけられた時には、フィデルに断固抗議した人たちがいた。
 (この事件は、フィデルが命じたのでもなんでもなくて、ある官僚が勝手にやったこと
  だとあとでわかったが)

 「医療や教育などの革命の成果を尊重した上で」、「それでも次々に湧いて出る問題をキューバ人自身の手で解決したい」「そしてより良い国を作りたい」と思ってがんばっている人たちがたくさんいたわけだ。

 テレビの自主規制が問題だからって、みんなが見ているテレビの生放送でいろいろ言っちゃった友達もいる。
 日本にいるかい、そんな芸能人? もし、それを日本をやったらどうなると思う? 

 キューバ人は革命を通じて、理想の国を作ろうとしてきた。
 とはいえ、そこに物質的豊かさを同時に求めるのは難しい。
 それが嫌な人は国を出て行けばいい、という考え方も革命後のキューバには強かった。

 実際に80年には大量亡命事件も起きている。

(米国は、「キューバが悲惨な国だ」という宣伝をしたさに、亡命をどんどん受け入れる姿勢を見せたが、亡命してきた人たちがマイアミで犯罪者組織を作るようになると、キューバ政府が犯罪者を押しつけたと非難した。
 理想の国作りより物質的豊かさを求め、米国に行ったら金持ちになれると安易に考えた人たちを煽った結果が、これである。
 で、マイアミの合計犯罪件数は、全米平均の2倍になった)

 1990年にソ連東欧圏が崩壊したときには、キューバは激しいバッシングを受けた。
 ここぞとばかりに米国は経済制裁を強化して、物資が一切入らないようにし、反革命な人たちに援助を増やして行動を起こさせ、一気にキューバ革命政府潰しにかかった。

 頼みの綱のソ連圏ももうなくなっていたわけだから、もし、キューバ政府が国民に支持されていなかったら、あっさり潰れていただろう。

 実際、日本などでは、多くの人が、この状況下ではキューバは風前の灯だと思っていた。
 いわゆる左派の人たちですら。

 その一方で、ちょうどこの時期、南アフリカで釈放されたネルソン・マンデラが、真っ先に訪れたのがキューバだった。

 「かつてANCが、どこからも相手にされていなかった頃、キューバだけが真意を理解し、
アパルトヘイト廃絶のための闘いを支援してくれた。その恩を、私たち南アフリカの民は決して忘れない。我々はどこまでもキューバの友だ」

 感動的な演説だった。
 革命広場を埋め尽くした何万ものキューバ人たちは号泣した。
 あの場に立ち会えたことを幸せに思う。

 同じ頃、ラテンアメリカのリベラル派音楽家の筆頭みたいなルベン・ブラデスが、
「キューバもそろそろ(政権交代とか民主化を)考えた方がいい」みたいなことを
(確か)スペインの音楽祭で言って、同じ音楽祭に出ていたキューバのパブロ・ミラネスに罵倒されたことがあった。

「キューバが最低限できていることさえ達成できてないような国の人に言われる筋合いはない」

 「おまいう」だ。

 で、ルベンは基本的には頭いい人なんで、すぐに謝罪した。

(ちなみに、ルベン・ブラデス、ミュージシャンだが、ハーバード出の弁護士で、後にパナマの閣僚になっている)

 コレに近いことは、この時代にはよくあった。

 パブロ・ミラネスだって、別に体制無条件支持派でもなんでもなくて、官僚主義を始終批判して、水面下でいろいろやり合ってた人なんだけどね。

 つまりね。キューバの問題はキューバ人が解決する、外から知ったかぶりで口出ししてほしくない、ということだ。

 ていうか、この90年のころに限らず、キューバでも、ある時期から「長期政権」を問題視する人はいたし、それに対してのいろいろな政治的論議もあった。

 理想の国なんて簡単にできるわけがないから、いろいろ間違いも犯す。

 しかし、間違いは、正していくしかない。
 世界は白と黒で色分けされているわけではなく、理想を目指すなんてこと自体が簡単なものではないから、あちら立てればこちら立たずの中で、模索していくしかない。

 いうまでもなく表現の自由は、最大限、尊重されるべきだ。

 たとえ、反政府的言論でも。

 しかし、その前提条件としては、キューバに対して、アメリカが不当な政権転覆工作や経済制裁をやめるべきだろう。
 つまり、反政府勢力への資金援助とかテロ画策とかをやめたうえで、それでもキューバ政府が「政治的理由で反対派を不当に逮捕投獄」していたとしたら、そこで非難されるべきだろう。

 いずれにしても、革命前の「カリブのハキダメ」から「いろいろ欠点はあっても、医療と教育は世界に誇れる国」「人種差別のない国」を、さんざん妨害工作され続けながら、わずか50年で作り上げた。

 やればできるという、壮大な実験をやって、かなり成功させた。
 その合間に、他のもっと貧乏な国を援助さえしてきた。

 そして、多くの人を救い、第三世界に希望を与えた。その結果、当然ながら、そのせいで利権を奪われた人たちに憎まれもした。

 しかし、キューバの実験はけっして無駄ではなかったし、それをやったフィデル・カストロはすごかったと言えるだろう。

Cuba qu&eacute; linda es Cuba
『キューバはなんて美しい』カルロス・プエブラ
「キューバはなんて美しい、誰も愛してやらないから、もっと好きだ」

V&iacute;ctor Jara "A Cuba"
『キューバに捧ぐ』ビクトル・ハラ
「マルティやフィデルのことを知りたいならキューバに行こう!」

MILONGA PARA FIDEL (Osvaldo Pugliese)
『フィデルに捧げるミロンガ』オスバルド・プグリエーセ
「偉大なるアメリカ大陸人、自由の勝者のために歌いたい...」
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引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; GTB7.5; YTB730...@i121-118-0-152.s42.a027.ap.plala.or.jp>

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