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Re:「ポストモダニズム」について
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 徳永基二 E-MAIL  - 08/7/20(日) 14:02 -
  
>私が以上の論を言い出したきっかけになったのは、セクシュアルマイノリティの運動に対する違和感です。
>
>それは何かと言えば、最先端の部分は「私は私、あなたはあなた」の世界になってしまい、大衆運動を指向する部分は一致団結を目指すために内部統制を始めようとするからです。
>どちらも離れた視点から見れば、国家体制や新自由主義者を助ける働きを持っていると言っても過言ではないため、私としては、どちらにも与することができませんでした。


「私は私、あなたはあなた」は確かに一部、フェミニストの最先端の動きにも感じ取れる視点です。それには私も違和感を持っています。(上野千鶴子と高橋哲哉の論争について触れた時にその問題が政治問題化したときの具体例がある。後、子連れ論争時の林真理子側がアグネスを批判した時の論理にもこれがある。)

ただ、この論理に関する自分の捉えかたは若干、両義的になるのでこれまでYUKIさんの論理にレスを返そうとする時の一つの原動力になっていながら、(多分、YUKIさんの話からは自分は学べる要素が積極的にあると思っているからレスを返したくなる。)表面上問題として現れなかったのかなと思います。

なぜこれまで表面化しなかったか?それは自分がアナキストだからです。

「私は私、あなたはあなた」VS「大衆運動を指向する部分は一致団結を目指すために内部統制を始めようとする」はそのまんま、アナキストVSマルキストの過去の論争に出てくる問いだからです。で、歴史からアナキストが消えてしまった理由も
「私は私、あなたはあなた」という思想自体にある。これでは運動が起こりえない。


「私は私、あなたはあなた」の立場に対しては常に両義的で在らざるえない。一方では「私はあなたの意見には反対だがあなたの発言権は全力で守る」というような民主主義の歴史上で表れた自由のあり方に関する積極性も含まれている。

その一方で「私は私、あなたはあなた」は社会運動を解体し、現状を利用主義的立場に変える契機が含んでいる。これを越えて社会運動としてあるためには戦略的な思考を必要とする。(例えばアナキズムFAQに出てくる「アナキストは社会主義者なのか」「何故、アナキストにとって連帯が重要なのか?」を読めばわかるように)
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/faq/contents.html

つまり自分がアナキストであるという主張するとき、一方で「私は私、あなたはあなた」の考えを対マルキスト用に強調しつつ、他方で「アナキストはアメリカでいうところのリバタニアンではない」「アナキストは政治的連帯を重視する」を経過してきていることを暗に認めているということになる。

「ポストモダン」この考え方で私が言わんとしているのは80年代に一時期流行した
現在でも東浩紀などがその立場であるところの、「大文字のイデオロギーは死んだ。今、物語とは消費されるものであり、その時その時のモードに従って乗り換えてゆくものだ。いや、のるかそるかという逃走戦略こそが未だ資本主義化されていない外部から遊撃的に資本主義のあり方を問うことになる」という議論を指す。80年代の頃はこの議論よりはフェミニズムのほうがまだミクロな政治的次元を意図的に自覚していたから生産性のある議論だった。(そこに惹かれるものがあった。)

80年代にこのタイプを代表した思想家は浅田彰や柄谷行人、中沢新一、栗本慎一郎など。このタイプに議論の欠点は資本主義の外部や差異を見出そうとする動きは結局資本の先兵役を買って出ているだけ。本人たちは自分たちの特権的立場に自覚的でないなど。90年代に入ると「全てが相対的なら私が肯定することが正義だ」と唱える
保守主義者(小林よしのりや藤岡信勝)や「一国平和主義を批判する普通の国家論者」の前に思想として解体していった。

「ポストモダン」と「80年代フェミニズム」はどちらもミーイズムを強化する上で
共犯関係にあると思う。(子連れ論争はその中で起こった。私はミーイズムが置き忘れていったもの-きれいでおしゃれなトレンディドラマのような生活の影にあるものを暴き出す役割を果たした点でアグネスの肩をその時はもった。)

80年代の頃、(学生時代の)自分は脱政治化作用をもつ「ポストモダン」を嫌い、イデオロギーの権力作用をいうMフーコやPブルーデュの議論の中にその脱出ルートを探っていた。

現在の自分にとっての「ポストモダン」的要素とは
『マルクス主義的な議論の持つ欠点について』の中で書いた

「誰のために闘うかで「労働者」「農民」「市民」を持ち出すのはかまわないけど、誰が闘うのかで「労働者」「農民」「市民」を持ち出すと必ず内ゲバに突入する。(お前は真の労働者なのか?)労働者階層出身の革命家が必ずしも労働者のためになる政策をするとは限らないし、ブルジョワ出身だといけないわけでもない。」

や『プルードンと国家について』で書いた

「因みに逃走は重要な反抗手段です。国家いう形がなくても人と理念が生きていれば社会はどこにだって再生できる。たとえ自分が死んでも理念さえ伝達できればいずれの日かその想いを引き継いでくれる人は現れるはず。だから忘却の穴に落ち込まないためにも集団で逃亡するのは大いにありなんです。」

それに上の『68年について』で書いた
「11、カウンターカルチャー
文化的であり想像的であることがそれ自体、社会に対しての抵抗になりえることが
示された。」

などに影響が見られる。

ここで「相対主義」に落ち込まない(『ポストモダン化』しない)ために自分がとってる戦略は大きく分けて三つある。一つはカルチュラルスタデーズに徹底的学ぶというもの。ある思想が受け入れられる背景には最初の発言者が言論の自由、思想の自由に基づいて発言していても受け入れられるだけの社会的構造的要因があるというもの
(すなわち生産諸関係でなく需要諸関係に敏くなるということ)

二つ目は経済的な基盤を重視すること。(社会学的な議論ではいつもこれが欠けているが故に抽象化する。)ただしこれは、否定的な意味でなく肯定的な意味で。否定的な意味とは「『ポストモダニスト』は結局経済的に恵まれた立場からものを言ってるにすぎないではないか」という議論。肯定的というのは『80年代のポストモダニズムは確かにバブル経済を背景にしていたが確かに一定の開放的契機はあった』というもの。前者は階級間闘争しかうまないが、後者は下層階級をどう引き上げるのかという議論になる。例えば子連れ論争を例に取ると、「林真理子は結局めぐまれた立場で発言しているだけでないか」と議論するのと「アグネスを林真理子的立場に引き上げるにはどうすればいいのか」という議論の差。

「ジュディス・バトラー, ガヤトリ・スピヴァクの「国家を歌うのは誰か?」について」の議論の中でバトラーの言ってる議論は結局引き下げ型の論理のような気がする。本来なら「では奴隷や女性たちが公的な場で活動できるようにするにはどうするべきか」が議論されるべきじゃないのか。

で、ここで再び、議論が「私は私、あなたはあなた」VS「大衆運動を指向する部分は一致団結を目指すために内部統制を始めようとする」の議論に戻ってくることになる。


三つ目は上野千鶴子と高橋哲哉の論争で現れた高橋哲哉が問うた決断、判断の問題。
相対主義を説くものは不寛容なものに対しても寛容であるべきなのか?それはどのレベルまでか?という問い。この問いは「飢えた子供の前で文学はなんであるのか」「ナチズムの後で詩は可能か」「無差別無目的な死を前して個人の自由とはなんなのか」というような問いへと繋がってゆく。ここからは死の言上げ(立派にお国のために死んでゆかれました)も可能だし、市民社会のあり方への希求も可能だ。

80年代になぜポストモダンが流行ったかというと、「思想は一度生まれたらそれ独自の独自の生命をもつ」という立場と「個人が何をどう考えどう消費しようが他者に害がないならそれはプライベートだ」というそれ自体ではどちらも肯定されうる議論が重なったことで生じた。この両者が重なると思想は行き場を無くして浮遊する。

後者の立場は自分も一オタクとして時に主張している。(二次元への表現規制問題での自分の立場は正にそう。)問題は他者に迷惑を掛けず辺りにヒントがあると思う。
確かに個人はプライバシーがあるのだが、(それは強調しすぎるほど強調しないとセキュリティや管理の思想に絡めとられる。)同時に個人の存在は社会にリスクを与えずに存在することは不可能だ。個人は存在するだけでリスク(原罪)をもっている。ならどのように自らの存在のリスクをマネージメントするかを問われている。

問題なのは個人のもつリスク(原罪)を容認しながらどうやって他者に寛容であるのか。寛容さそれ自体が戦略的な政治的選択の問題だ。(アナキスト的な革命的主張だ。)要は問題なのは他者のリスクでなく”私の”リスクが問題なのだ。(人に不寛容で自分に甘いのは人の性)
引用なし
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私的所有/中間共同体/対話的公共圏 YUKI 08/7/14(月) 1:12
左翼的運動の課題〜「革命21」についての苦言も含む YUKI 08/7/14(月) 1:51
温故知新:集団の持つ権力性について YUKI 08/7/15(火) 1:15
まあ、折角のレスですので。 徳永基二 08/7/14(月) 4:17
コミュニケーションの手段と ねこかぶり 08/7/15(火) 0:18
非常に蛇足的な話なんですけど 徳永基二 08/7/15(火) 1:07
蛇足ついでになぜデリダに拘るのか 徳永基二 08/7/16(水) 1:42
Re:蛇足ついでになぜデリダに拘るのか ねこかぶり 08/7/16(水) 16:40
哲学は必要/ポストモダンと新自由主義の親和性について YUKI 08/7/18(金) 0:14
ジュディス・バトラー, ガヤトリ・スピヴァクの「国家を歌うのは誰か?」について 徳永基二 08/7/19(土) 4:42
Re:哲学は必要/ポストモダンと新自由主義の親和性について 徳永基二 08/7/19(土) 12:51
Re:哲学は必要/ポストモダンと新自由主義の親和性について ねこかぶり 08/7/19(土) 23:11
68年について 徳永基二 08/7/20(日) 3:20
68年について ねこかぶり 08/7/21(月) 19:14
「ポストモダニズムなどは最初からどこにも存在しない」について YUKI 08/7/20(日) 7:36
Re:「ポストモダニズム」について 徳永基二 08/7/20(日) 14:02
再びデリダについて 徳永基二 08/7/20(日) 14:55
セクシュアルマイノリティの運動を概観してみる YUKI 08/7/21(月) 4:28
部族化する政治と個人のサブシステム化について 徳永基二 08/7/21(月) 11:59
経済的に弱者でりかつ粒子化した人にとっての社会運動について 徳永基二 08/7/21(月) 12:55
基礎所得-タイムダラーの挑戦 徳永基二 08/7/21(月) 15:36
またまた難しい話をする人ですね。 ねこかぶり 08/7/21(月) 18:10
補足説明 YUKI 08/7/21(月) 17:25
クイア理論とフェミニズム運動について 徳永基二 08/7/22(火) 1:34
ありがとうございます。(そんなに遠くない) YUKI 08/7/22(火) 4:14
「補足説明(YUKIさん)」への質問(本人から) ひびの まこと 08/7/22(火) 23:29
この人を知ってます? YUKI 08/7/22(火) 23:45
あんまり過剰に防衛反応したりする必要はないです ひびの まこと 08/7/28(月) 0:58
私は人との対等な話し合いを重視しています YUKI 08/7/28(月) 4:57
お気楽にやってます ねこかぶり 08/7/28(月) 17:51
自分も若干、補足です 徳永基二 08/7/22(火) 0:09

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