第7;「懲罰権濫用阻止」を司法審査抜きで語る過ち

1;原判決といえども、さすがに議員の自由な議論や正当な議員活動の妨害のために懲罰権を好き勝手に行使して良い、とは言っていない。「濫用してはならないことは当然である」と言っている。
  しかし、濫用を抑止し防止するという目的実現の手段として、
   A:司法審査は行わない、とした上で、
   B; 個々の議員の良識ある行動、及び
   C: 議員選挙権を有する市民の議会に対する監視、
 によって保障されるべきである、というのであるが、これが荒唐無稽な虚論でしかなく、こういう虚論は「懲罰権の濫用の抑止・防止」に全く役立たないことを以下に論証する。

2;不当懲罰事案が起こるのは、本件や本件類似事件のように「良識ある行動をする議員」が少数派で、「良識ある行動をしない議員」が多数派である場合だけである。
 「懲罰権の濫用」というのは、懲罰対象とされる議員に何ら懲罰事由がないのに多数派議員によって懲罰をかけられることだから、一般論的に「個々の議員の良識ある行動」なる言葉を対置しても何の意味もないのであって、原判決はせめて「懲罰を議決しうる多数派議員側の良識ある行動」と言わなければならないはずである。
 しかし、たとえそう言ったとしても、それは空論以外の何者でもない。

 本件第1審各種書面で詳細に明らかにしたように、
 ◎助役の不祥事などの大事件でも何ら市当局を追及しないで、(1999年)
 ◎議会で1回も質問しない議員がざらであるような、(毎年)
 ◎事実に基づく議会発言に対して勝手に「誹謗中傷」とか「議会の信用失墜」とか決めつけて懲罰提起をしたり、(1999年、2000年、2001年)
 ◎行政幹部の肩書き氏名を上げての公務実態批判の議会言論が「職員の人権侵害だ」などという奇天烈な理由で懲罰提起したり、(2001年)
 ◎事実審理どころか懲罰動議の理由説明だけでなく、懲罰動議の存在自体すら被控訴人議員に対してギリギリまで隠すような法理わきまえない行為を繰り返したり、(1999年、2001年)
 ◎控訴人への攻撃や嫌がらせのために「議会へのカバン持ち込み禁止決定」なる日本一馬鹿げた議会決定をしたり、「議員たる控訴人に委員会議事録を見せない」という違法行為を5ヶ月も続けたり、(2000年)
 ◎議長が「必要により措置します」と一言言えば議会終了後に自由自在に議事録から発言削除してよいものとして公開用議事録を伏せ字だらけにしてしまったり(2001年)

 ・・・こういう門真市議会4会派23議員の「良識のない行動」と懲罰権濫用の実態が歴然として存在している。そしてこれら多数派議員達は自らの行動を何ら反省していないし、反省しようともしていないからこそ本件懲罰が正当であると主張し続けているのである。
 このように門真市議会の現実において、「懲罰を議決しうる多数派議員側が良識ある行動を取らない」からこそ起きている本件訴訟に対して「司法審査ではなく個々の議員の良識ある行動によって懲罰権の行使の適正が保障されるべき」との無意味な空論を対置する原判決の判断の誤りは明白である。

3;本件のように「懲罰事由がないのに懲罰をかけるという冤罪事件」が頻発するのは、議会の自律権の美名の下に「除名懲罰以外は司法審査の対象にされない」という実態が1960年最高裁大法廷判決以来継続しているからこそであることは、「懲罰を議決しうる多数派議員側」の人間心理の常識と経験則に照らして明白である。
 彼らが「懲罰権の濫用=良識のない行動」を取るのは、このような誤った司法実態、すなわち原判決のような司法判断が続いてきたからこそなのであって、この点を不問にして「個々の議員の良識ある行動によって懲罰権の行使の適正が保障されるべき」というのは無責任な虚論との批判を免れない。
 「懲罰事由が存在するか否かの事実判断」において司法審査を行なうことこそが、懲罰権濫用抑止の絶対必要条件である。

4;次に、「 司法審査ではなく議員選挙権を有する市民の議会に対する監視によって懲罰権の行使の適正が保障されるべき」との原判決の認定の適否についての判断に移る。
 原判決の言う「議員選挙権を有する市民の議会に対する監視によって」とは何のことなのか全く説明不足であって、ここらへんにも原判決の粗雑さと虚論ぶりが現れているのだが、控訴人の方で補って常識的な線で考えてみれば、それは、

 (1) 多数派議員に懲罰権濫用を許さない世論圧力を感じさせるほどの市民による常日頃の議会監視行動

 (2) 懲罰権濫用事件が発生しかけた時にこれを抑制したり、あるいは発生した後に多数派議員に反省をさせて懲罰決定を撤回させるほどの世論圧力を感じさせる市民による議会監視と行動

 (3) 懲罰権濫用を行なった多数派議員は次の選挙で落選してしまうような有権者市民の投票行動の3類型として示すことができるだろう。
  なかんずく、「悪いことをすれば有権者の厳しい審判を受けて次の選挙で落ちてしまう」、という選挙による淘汰圧力が最も本質的なものだということになるだろう。
  しかし、少しでも現実に即して考えてみれば、「(これら3類型の)市民の議会監視」をもって司法審査しない理由にすることができないことは以下のように明らかである。

5;まず、本件のように現に実行された冤罪不当懲罰に対する救済として司法審査を求めているのに、「市民の議会監視行動によって懲罰権の行使の適正が保障されるべき」と済ましてしまうならば、司法の職責放棄以外の何者でもない。
 またこの論では、市民の議会監視力の弱い地域や、多数派議員に一定以上の良識を持たせ得ないような、まさに司法救済が必要とされる地域において、懲罰権濫用があっても司法は放置するということになるが、これでは全国どこでも法の正義が適用されるべき近代法治国家の基本原則を司法が否定することになってしまう。

 門真市の場合、通常は市民の議会監視行動が強いとは言えないが、1999年9月議会での控訴人に対する(第1次)陳謝懲罰・出席停止懲罰の場合は、当時の助役の税金怠納事件への批判で市民が傍聴席に溢れるほどの中で、市民の囂々たる批判の中で強行されたし、翌2000年の控訴人へのカバン禁止・委員会議事録見せない攻撃もあって、懲罰強行の4会派へ批判は門真市でかつてないほど浸透し、全国的にも知れ渡ったにも拘わらず、彼ら4会派議員は本件2001年3月議会での出席停止2本の懲罰を重ね、日本議会史上例のない不当懲罰頻発となっても恥じるところがない有様である。

 また1審書面で明らかにしてきたように、門真市議会では全ての懲罰事件に於いて懲罰の実質的段取りも、懲罰特別委員会審議も、市民どころか議員たる控訴人でさえ傍聴できない所で進められているのであるが、不当懲罰事件ではこういうことが常なのであって、この点でも「議員選挙権を有する市民の議会に対する監視」を唱える原判決の空論ぶりが明らかである。知り得ないことをどうやって監視するというのか?

 さらにまた地方議会における懲罰事件は、懲罰した側の一方的な決めつけだけが「議会だより」や広報で全戸配布されることはあっても、客観報道としてはせいぜい新聞の地方版に小さく載るだけなのが普通であって、これでどうやって一般市民が真相を知ることができるのか。どうやって多数派議員が反省するほどの「議会監視」ができるのか?
 控訴人のように旺盛に報道宣伝活動を行ない、新聞テレビで紹介され、日本一アクセスのホームページで大々的に真相を詳細に掲載し、広範な市民の支持を得るに至ったのは例外中の例外の幸運な事例である。
 しかし、そうであってさえ99年に続く本件2001年の冤罪懲罰の再発は防げなかったし、4会派議員には何の反省も見られず、今も冤罪懲罰再々発の危険性は、「はじめに」で述べたように何ら減少していない。

6;「司法審査しない」という従来からの司法の実態こそが、一般市民とそれに甚大な影響を有する報道機関双方において、議会懲罰問題への健全な認識を妨げていることは明白である。
 まず一般市民の間では、「いざとなったら出るところへ出る=司法の裁きを受ける」というのが「法治国家における市民の常識」なのであり、どんなにひどい冤罪懲罰を受けようが、それによって公的権利を剥奪されようが、一切司法救済を受けられない分野がこの日本に存在しているということは想像もできないことである。
 特にそれが自分たちが選挙で選んでいる議員達によって構成されている、身近な公機関たる地方自治体議会であるとは、最も想像しにくいことである。
 「議会の自律権=司法審査なし」を常識のように唱えている司法関係者自身、いったい地方自治体議会以外に、これほど公的でありながらこれほど司法の光があたらない分野がどこにあるのか、例を挙げることができないであろう。

 「議会」という言葉で一般市民がまず思い浮かべる国会の場合は、議員の免責特権が憲法に明記されているから、たまに不穏当発言で議事録削除とか発言撤回とかはあっても国会内での言論によって懲罰を受ける事例がない。
 懲罰と言えば他の議員にコップの水をかけて出席停止懲罰を受けたとか、そういうことに過ぎない。
 時に罵り合いや肉弾戦までも含む激しい言論の応酬が許容されているのが国会という議会だし、いくら多数派による強行採決が多発しようとも、多数派によって冤罪懲罰が少数派議員に科せられて出席停止や除名になった例は戦後日本においてないはずであり、当然司法救済の必要性も発生したことがないはずである。
 従って一般市民にとって、地方議会で不当な冤罪懲罰が起こる危険性があるとか、今発生した懲罰事件が冤罪懲罰である可能性があるとかは想定することができず、司法が取り上げないのは司法の特殊な判断のせいではなくて、そもそも違法行為がないから司法が取り上げないのだ、と問題を過小に判断することになり、その分「議会監視」の力  が弱くなるのである。

 報道機関の場合は、「除名以外は懲罰の適否が司法審査されない」という司法常識に強く影響されて、冤罪懲罰で議員の公的権利が剥奪され市民の参政権が阻害されることの是非に対する判断が鈍らされているから、冤罪懲罰事件が起こっても大きく報道しなくなっている。
 もし地方議会以外の公機関内で、その構成員の多数決で冤罪懲罰が行なわれて公的権利が剥奪される事件が起こったら、彼らは大事件としてそれを取り上げるはずである。
 もし「除名以外は懲罰の適否が司法審査されない」という誤った司法実態がなければ、地方議会で冤罪懲罰の可能性が発生した時点から報道機関は事件を注視して報道と検証を続けることになるのは間違いない。

 事は議会内の高々何十人かの多数派議員の恣意によって、選挙で選ばれ有権者の付託を受けた議員の政治的権利が剥奪・制限されるという、選挙制度を無効にするに等しい大事件なのであるから、本来的に問題にならないわけがないのである。
 そして報道機関の取り上げ方が小さければ市民の関心もまた、低いものになるのはいたしかたないのであって、両者があいまって、「議会監視」の力が弱くなるのである。
 これらは全て、これまでの司法の姿勢によって構築されたものであり、司法の姿勢を改めることなく市民や報道機関に責任転嫁するべき筋合いではない。

7:さらに「選挙による審判・淘汰」論について、以下に詳細に批判しておく。

 選挙による審判・淘汰」論は一見正しそうに思えるが、現実の事情を考えるならばたちまちその虚構性が露呈する。それは、

 (1) そもそもこれは、次の選挙での「審判」があるまでの最長4年間は冤罪懲罰の実行およびその威迫による議会言論の阻害・行政チェック機能の低減・正当な政治的権利の剥奪・制限が続くことを放置して良いとする不正義な論である。

 (2) また、人は誰でも過ぎ去ったことはどんどん忘れて行くものである。テレビ新聞の全国ニュースで連日報道された大事件さえ、1年たってもよく覚えていることは困難であり、まして3年前4年前においておや。
 それを証明するために甲第72号証において、今から3年前の1999年の国内外の十大ニュースや大阪府の十大ニュース、5月・6月・12月の主なニュースの項目、「通信傍受法(=盗聴法)強行可決」・「怒号・抵抗」・「与党からも造反」・「横山ノック知事問責決議可決」などを大きく伝える当時の新聞記事コピーを出しておいた。
 裁判官諸氏ですらこれらの事件のうちどれほど覚えているだろうか?選挙の時の判断材料にできるだろうか?
 ましてや地方議会内での争いである。一般報道としてはテレビに連日出るどころか新聞の地方版に小さく出ただけの事件をもって、3年後4年後の「次の選挙で審判・淘汰の材料」になるというのはほとんどマヤカシでしかない。
 このことは裁判官諸氏が自分にあてはめて考えてもらえばすぐ理解していただけ ことである。

 (3) 冤罪懲罰被害者としては、その不当性を最大限訴え続けるとしても、それを任期中に延々とできるわけではない。控訴人の活動を見てもらえば分かるとおりに次から次と活動課題が沸き起こってきて、次々に宣伝報道していかねばならないから、その分冤罪懲罰事件の宣伝比率は低下していくことになる。

 (4) 選挙というものは有権者が「一番良いと思う候補者を選ぶ」ためのものであって、「良くないと思う候補者を落とすためのもの」ではない。他候補の批判を言い募ることは選挙の常識としてマズイだけでなく、実際問題として自分の4年間の実績と今後の抱負を語っていくだけで選挙戦では精一杯であり、とても過去の冤罪懲罰加害者への十分な批判をしている余裕はない。
 そして選挙にはほとんど常にその時々の「争点」というものがあり、この「争点」への自分の見解・政策を限られた時間と手段で訴えていかねばならない。
 ちなみに門真市議会の次回選挙となる来年2003年4月市議選の争点は間違いなく「門真守口合併の是非」とその他その時点の問題であって、決して2001年3月の不当懲罰問題ではなく、冤罪懲罰加害者議員達を詳しく批判する余裕は全く取れないのは、当人として今から断言できる。

 (5) 1人2人の議員が悪いのではなく、多数派議員が結託するからこそ冤罪懲罰加害が起こるのであり、しかも本件のようにその首謀者や真の責任者が判然としない「集団加害による無責任体制」を取るのが普通であるから、批判の的を絞りづらい。

 (6) 冤罪懲罰問題の真相を3年後4年後に一般市民に伝えるのには、絶対に詳細な文書を使って説明する必要があるが、実際の市議選において選挙期間中は、広範な有権者に候補者名で文書を配ることがそもそも禁止されているし、無所属である控訴人は政策ビラもまけない。それが配布できる政党・政治確認団体であっても、冤罪懲罰加害者を特定して批判することは選挙法違反になってできない。

 (7) 汚職や公金の不正受給がばれたりしたのならともかくも、司法が冤罪懲罰を審査しないという対応を続ける限りは、冤罪懲罰加害者は法的道義的責任を世間に問われることがないのだから、強固な後援組織に支えてもらえさえすれば、楽々当選することが十分可能であるし、現実にそのような例ばかりである。

 (8) 以上論証したように、「選挙による審判・淘汰」論は不正義を放置し、有権者の記憶判断の実態にも、選挙戦の実態にも合致しない虚論であることが明白である。

8;上記の1から7までで論証したように、【懲罰権濫用を抑止し防止するという目的実現】の手段として、
    A:司法審査は行なわない、とした上で、
    B; 個々の議員の良識ある行動、及び
    C: 議員選挙権を有する市民の議会に対する監視、
 によって保障されるべきである、という原判決の認識は荒唐無稽な虚論でしかなく、「懲罰権の濫用の抑止・防止」に全く役立たないことが明白になると同時に、【懲罰権濫用を抑止し防止するという目的実現】のためには、「懲罰に関して司法審査を行なう」こと、より詳しく言えば「懲罰事由の存在について司法審査を行なう」他ないことが一層明白になったのである。