第2;懲罰事由の不存在を露呈している被告主張の実態

1;「2人で100万円の着手金をもらいながらたった2ページの答弁書しか出さない」と原告から批判された安田・上野弁護士は10/11になって今度は7ページの準備書面を提出されたが、これら被告主張の最大の特徴は「本件懲罰の事由について全く口をつぐんでいる」、ということである。

 本件懲罰が法や規則のどこを根拠にしているのか、原告発言がなぜ懲罰事由に該当するのか、被告は一言も述べることができず、ただ単に「出席停止懲罰処分は司法審査の対象ではない。それは1960年10月19日最高裁大法廷判決で決まっているのだ」としか言うことができず、それこそ1ページで済んでしまうから、残りの部分を空疎で奇妙な主張で埋め合わせようとして、その中で思わず知らずに被告が当然の法理も議会制民主主義の何たるかをわきまえず、多数派万能の全体主義の観点で考えている実態がかえって浮かび上がってくるのである。
 原告が出席手当懲罰について「実質的には除名にも等しいほどの不利益」とか、「実質的に除名にも等しい処分もしくはそれに近い重大な権利制限」と述べていることをねじ曲げて、短絡的に「原告は出席停止懲罰と除名懲罰を同一視している」「出席停止処分が除名処分に等しいものであると主張する」などと論難してみせるのもその一例であるし、4派議員の現実の行状を批判することをして「(これに投票した)市民をも侮辱・中傷するもの」とか、本件処分を「圧倒的多数の門真市民の声を誠実に反映したもの」などと言いなすのもその典型である。  
 また、当選後の議員の言動に非常識なところがあればこれを批判するのは当然であって、それをもって「畏れ多くも有権者様への中傷・侮辱だぞ」と脅しつけるが如き被告の論法に従えば議員の言動への批判の自由は無いに等しいではないか。   
  被告のこの論でいけば「今の議員・政治家はケシカラン」と庶民が声を上げることさえ「議会・国会を誹謗し有権者を侮辱するもの」として「看過できない一言」だと決めつけられることになろう。   
  一方で同じく選挙で選ばれた原告については、事由なき懲罰をかけて議会で口を極めて誹謗中傷して恥じないのだから、原告に投票した有権者は誹謗中傷してかまわない、という全くのダブルスタンダードを示していることにもなる。   
なるほど門真市議会4会派流「民主主義」の感覚とはどういうものか、ということはよく分かるが、いやしくも法律の専門家にして市や市議会の公益をも擁護しているはずの立場の弁護士までもがこのような主張をしてくることには、大いなる驚きと憂慮を覚えざるを得ない。   
  これら諸点については別に詳しく批判するとして、ここでは「懲罰事由の不存在」を被告自らが露呈していることに絞って批判してゆくことにする。

2;(1)被告が本件懲罰の根拠規定について口をつぐんでいることは既に述べた。   
   (2)被告は原告発言が何故に「無礼の言葉」に該当するのか、「議会の品位」を汚したことに該当するのか、についても口をつぐんでいる。即ち、それを述べることができないでいる。   

   (3)被告は、「相手の感情を反発することがあっても軽々しく言論抑制すべきでない」という地方自治法132条の先例解説(当方8/8準備書面34ページ)、

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 「もともと議会においては、何にもまして、自由闊達な雰囲気の中で活気ある言論が期待されるものであり、特に議会は執行機関を監視し、牽制する諸々の手続きを与えられており、その一環として、執行機関に対して、その事務に関して証明を求め、意見を述べることができるものであって、かかる場合、議員が質問し、意見を発表するのに、その言辞が勢い痛烈となるのはむしろ好ましく、これがため相手方の感情を反発することがあっても軽々しくその言論を抑制するべきではない」、

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 に対して(本件裁判だけでなく議会などあらゆる機会を通じて)何ら批判や異議を唱えていないから、これを承伏しているものと見なすべきである。     
  またこれは、議会人としては当然承伏しなければならない種類のものである。   

  (4)被告は、「無礼の言葉を解するのに社交の儀礼を標準としてはならない」、という札幌高裁判決1950年(昭和25年)12月15日判決(8/8準備書面34・35ページと本準備書面)に対しても同様に、あらゆる機会を通じて何ら批判や異議を唱えていないから、これを承伏しているものと見なすべきである。  

  (5)被告は全国町村議会議長会の発行する「議員必携」(甲第45号証)の「第二篇 議会の運営 第五章 発言」の『発言自由の原則』を中心とした部分にも、あらゆる機会を通じて何ら批判や異議を唱えていないし、当然これを承伏しているものと見 なすべきである。     
またこれは、議会人としては当然承伏しなければならない種類のものである。

3;このように整理して考えてみると、懲罰にかかるものとしての「無礼の言葉」・「議会の品位」の認識に幅には、(3)(4)(5)の一般原則においては、原告と被告との間に差がないはずである。   
  そしてこういう一般原則について差がない以上、個別具体に原告発言を検討したとしても、既に述べているように、これが「無礼の言葉」「議会の品位」に抵触するものではないことは本件の場合明白である。   
  仮に個別具体に検討した時に、被告の感覚では懲罰事由に抵触するとすれば、どの部分が、なぜ抵触するのか、それが明らかにされなければならないのである。   
  しかしながら、現実的には(3)(4)(5)の一般原則について差がない以上、個別具体に検討しても本件発言は懲罰事由に該当しないのは誰の目にも明らかなのであって、それなのに懲罰を科したのであるから、(1)(2)の根幹部分で口をつぐまざるを得ない、即ち懲罰事由がないのに、原告に恣意的に懲罰を科したことが露呈するほかないのである。   被告は、(3)(4)(5)についてどう考えているのか、語らなければならない。議会人として当然のことである。そしてそれと本件懲罰がどのように関係するのか(1)(2)をも語らなければならない。被告は語れるのだろうか?   
  以上の考察から、本件懲罰に懲罰事由がないことを被告自らが露呈していることが明らかになったのである。

第3;懲罰処分取消訴訟に対して司法審査を拒否る1960年大法廷判決は、国民の裁判を受ける権利を侵害し、憲法第32条に違反する  

1;裁判を受ける権利と憲法32条   

 憲法第32条は「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」と規定し、 国民の重要な基本的人権のひとつとして裁判所において裁判を受ける権利を保障してい る。この規定は日本国民のみならず外国人も含めて保障された基本的人権である。  
  憲法のこの規定を受けて、裁判所法第3条1項は「裁判所は、日本国憲法の特別の定 めのある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権 限を有する。」と規定しているのである(傍線原告、以下同様)。  
  国民に基本的人権を保障する一方で、他方において自力救済を禁止し法の支配の貫徹 を基本的理念とする近代民主主義国家においては、裁判を受ける権利の重要性はいくら 強調しても強調しすぎることはない。基本的人権が侵害された場合、自力救済が禁止さ れている以上、最終的には裁判所に救済を求める以外に方法がないからである。

2;出席停止処分取消は裁判所法3条1項の「法律上の争訟」に該当する。

 議員に対する懲罰処分取消が問題となる場合、その懲罰処分の理由とされた議員の当 該言動がどのような事実であるのかという事実の認定、そして、その認定された事実が 地方自治法第132条に該当するか否かは、法律上の判断であり、裁判所が判断すべき事 項である。  
  このことは1952年(昭和27年)最高裁判所第1小法廷判決(行裁例集3巻11号2335 項)が指摘している通りである。即ち、上記1952年最高裁判所判例では

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「地方自治法132条所定の『無礼の言葉』に該当するか否かは、法律解釈の問題であ って、これが解釈を誤りこれに基づき議員を除名したような場合には、その前提が違法 であるから、除名そのものもまた違法たるを免れないのである。されば、被上告人の上 告議会における言動を無礼の言葉を使用したものに該当するとして被上告人を除名した 上告議会の本件議決を違法であると主張してこれが取消を求める本訴請求は、憲法58 条2項に基づく除名の取消訴訟と異なり、・・違法な処分の取消訴訟であるといわなけれ ばならない。」
 「原判決は、議員が果たしてどんな発言をしたかを確定することは事実問題であるが、 その認定された発言が地方自治法132条の無礼の言葉を使用したことに該当するかど うかは裁判所が客観的に判断するべき法律問題であって、議会の主観的判断に拘束され ない旨を判示したものである。そして、原判決の右の説示は正当であって、当裁判所に おいてもこれを是認するものと考える。」
 「しかし、原判決の所論摘示の判示は、地方自治法132条だけの適用についての判 示であって、所論のごとき議会の議員に対する懲罰理由全般についての説示ではない。」
 「原判決は、被上告人の議場外の行為に多大の反省を要する点があるからといってこ れを被上告人の議会においてした発言に結びつけてその発言を無礼の言葉であると解す ることは当を失すると説示したのである。と判示している。原判決においては、議場外 の行為にも言及し、その事実を認定すると共に、議場における言動が『無礼の言葉』に 該当するか否かを判断したものである。」

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 以上の通り、1952年最高裁判所判例は、除名処分が重い処分であるからという理 由で司法審査の対象としたのではなく、当該懲罰事案の議員の発言が「地方自治法132 条の無礼の言葉を使用したことに該当するかどうかは裁判所が客観的に判断するべき法 律問題である」と明確に指摘し、法律判断の問題であるから司法審査の対象となるとし たのである。
 同判決が「地方自治法132条所定の『無礼の言葉』に該当するか否かは、法律解釈の 問題であって、これが解釈を誤りこれに基づき議員を除名したような場合には、その前 提が違法であるから、除名そのものもまた違法たるを免れないのである。」と判示したの は、この趣旨を明確に示している 。
 当該懲罰処分が違法となる理由は、要するに「その前提が違法であるから」即ち、地 方自治法第132条に該当するか否かの判断を誤ったからであって、除名処分という重い 処分だからではない。
 当該事案がたまたま除名処分の事案であったというだけのことである。

3:除名処分以外の懲罰処分に対して司法審査を拒絶する1960年(昭和35年)10月19日最高裁判所大法廷判決は変更さるべきである

 1960年以来、すでに40年以上が経過している。
 この40年間という長い年月の経過のなかで、日本は大きく変化を遂げ、基本的人権の擁護という点でも大きな変化・進歩を遂げつつあることは周知のとおりである。
 行政やこれに準ずる機関に対する訴訟の分野でも法理論の大きな発展が見られることはいうまでもない。  
 例えば地方自治体に対する情報公開でも、最高裁判所も含めて国民の基本的人権としての知る権利の拡大に大きく踏み出している 。
 行政手続法が制定され、国民が不利益処分を受ける場合には聴聞手続等の適正手続の保障が前進している。
  原発問題や道路公害問題などで、最高裁判所におかれても原告適格の拡大など時代の要請の沿って基本的人権の進展に努力されている。  
  また住民投票条例などに見られるように、住民の直接的な政治参加を拡大しながら議会制民主主義を豊富化する試みも進展してきている。
 これに伴い「部分社会論」は既に完全に破綻している。1960年大法廷判決は変更 さるべきである。以下、「部分社会論」の破綻について具体的に述べる。

4;「部分社会論」は破綻している。「部分社会論」については、学説からは強い批判が出されていることは周知の事実である。

(1) 団体の性質による区別をせずに、一律に内部規律にゆだねようとする問題点
この点、政党・大学・宗教団体については、それぞれ、政治活動の自由(憲法21条)・学問の自由(23条)・信教の自由(20条)の尊重という、内部規律に委ねる積極的な理由がある。しかし、地方議会のような公的団体においてはそのような積極的な理由は見いだせない。   
  地方議会のような公的団体・公的機関については、政党・私立大学・宗教団体等の私的団体と同列に論じることはできない。   
  公的機関においては、それ自体が権力機構の一部であることから、権力の濫用があってはならないのであって、その濫用を抑止する仕組みが必要となるからである。   
  その意味からも、公的・権力的団体と、私的団体を統一的にとらえることは問題がある。公権力的団体においては、法治主義の原則の支配のもとにあり、司法審査は可能な限り認められなくてはならない。

 国公立の大学は、国公立という意味では公的機関ではあるが、大学に対しては、学問 の自由に基く大學の自治が保障されており、議会とは異なる。  
  大学の自治については、まさに学問の自由を保障するためのものである。   
  学問の自由は、大学における学問研究の自由を保障することが主要な内容であり、そのことから伝統的に学問の自由は大学の自治の保障が含まれていると理解されている。   
  つまり、大学の自治は、学問の自由の本質から導かれ、憲法23条に基礎をおくが、それが大学の組織団体に向けられていることから、制度的保障の意味を持つということができるのである。法律によっても大学の自治権を侵害することを定めることは、憲法  23条に反しできないことになる。

(2) 問題点の二つ目は、争いの性質を区別していないことである。

 上述の政党・大學・宗教団体など、その団体の内部的規律に委ねるべき積極的理由のある団体に関する内部紛争の場合であっても、争いの性質によっては司法介入が必要な 場合がある。従って、司法審査すべきか否かは、争いの性質により区別しなければなら ない。  
  争いの対象が、団体内部の自律的規範(たとえば、宗教の戒律)の解釈適用にあるのか、地方公共団体の条例を含む法令の解釈適用が問題になっているのかを区別しなけれ ばならない。  
  なぜなら、団体内部の自律的規範の解釈適用の問題については、当該団体の自律権を 直接侵害するおそれもあるが、法令の解釈適用については、本来的に裁判所の役割として司法判断を行うことを憲法が予定しているからである。例えば、最高裁判所昭和56 年4月7日第3小法廷判決で問題となったいわゆる「板まんだら」事件について、当該 「板まんだら」が偽物かどうかについては宗教上の教義に関する判断にも及ぶことにな るから「法律上の争訟」とはいえず司法審査になじまないが、仮に正本堂に安置してあ る「板まんだら」を信者が偽物だと言って破壊した場合、刑事事件になれば当然司法判 断がなされるであろうし、損害賠償が提起された場合も、「法律上の争訟」ではないとい うような判断をするとは考えられないのである。

(3) 以上の二点からすると、地方議会は、公的機関であり、しかも地方自治法等による法令による規制が存在しているのであるから、当然司法審査の対象とされなければならない。  

 地方議会は、本来的には住民奉仕のために存在している。  
  議会の一定の自律権等の保障も、議会そのものを究極的な保護対象としているとするのは早計である。  
  地方自治の本旨に鑑み、住民の意思を十分に反映させるために、他からの圧迫干渉を 排して十分な議論ができ、且つ、地方行政に対する的確な監視を果たすためにこそ、地方議会に与えられた権能を発揮しなければならないのである。  
  地方議会は、政党や宗教団体のような特定の理念で団結している団体ではない。逆に、様々な利害の対立する代表者からなる団体であることから、利害対立や意見の対立は、 そもそも予想されるところである。そうであるからこそ、住民の意思を十分に反映する ために、議員の自由な討論が最大限保障されなければならないのである。
 しかしながら、議論の場を保障されたとしても、最終的な決議は多数決で行われる。 したがって、多数の意に添わない者の意見は結果として封殺されることを予定している。  
  このことは、常に多数の意見が正当であると言うことを意味はしない。多数が常に正 当であるとするのであれば、裁判所の有する違憲審査権など不要であるし、条例の法令 適合性を審査することなど、問題となりえなくなるからである。  
  このことは、多数決による結果の中にも、誤りが存在することは不可避であることを 意味する。したがって、このような誤りが生じた場合、何らかの修正手段が必要となる。   

 地方議会に一定の裁量権が認められるといっても、法令に従わなければならないこと は当然であり、懲罰権行使の場合も地方自治法第132条の正しい解釈とその要件該当性 についての正しい事実認定が当然要求される。
 地方議会が常にこの要請を満たして懲罰権を行使していればともかく、現実には本件 懲罰や「懲罰議員白書」などで述べているように、間違った解釈や事実認定に基く誤った懲罰がなされることが少なくないのである。
 法令の間違った解釈・適用、間違った事実認定に基く懲罰権の濫用といった問題が発 生した場合には、積極的に司法の介入がなされなければならない。
 事実と法に基づく判断を行なう司法判断と、単純な多数決原理に従う議会の判断とは、 自ずから性質が異なり、議会が地方自治法第132条の該当性について誤った判断を行なった場合は、当然司法判断に服さなければならない。

(4) 更に、裁判所が介入するとしても、懲罰決議における議会の自由裁量を一切認めない ということにはならない。

 いかなる処分を選択するのかの点につき、判断主体に一定の裁量的判断が認められる ことは当然である。
 しかし、事実認定は、裁量の問題ではない。確かに、判断主体により、判断内容は異 なりうるが、それは当該判断が裁量事項であるからではない。要件該当性判断は、事実 認定の問題であるから、そこに司法審査権が及んでも、裁量権の侵害の問題は生じない のである。
 さらに、裁判官は憲法及び法律にのみ拘束され、その良心に従って、独立して裁判を 行うのであるが、その良心も主観的な政治・道徳・思想に関わる信念とか人生観・世界 観といったものではなく裁判官としての職業的良心(公平無私な精神)でなければなら ないことは自明のことである。そのことと同様、議会に認められる裁量も、全くの自由 裁量ではあり得ず、地方自治法や全体としての法体系という客観的原理に基づいて判断 されなければならないのであり、そこに事実認定に誤りや、地方自治法条への要件該当 性の判断の誤りなどの濫用があれば、端的に違法という評価を下さなければならない(本 来法的規律になじまない裁判官の良心違反ですら、それが法令違反として現れたときは、 訴訟理由となるのである)。
 したがって、議会の裁量判断に委ねられている事項についても、裁量権の濫用があれ ば、違法評価を避けられず、それが、事実認定・法令解釈に関する事項であればなおの こと裁判所による取消の対象になるのである。

5; 仮に、1960年最高裁判所大法廷判決の立場に立っても同判決は1952年最高裁判所小法廷判決を変更していない

 1960年大法廷判例では、「法律上の係争といっても、その範囲は広範であり、その中 には、事柄の性質上司法裁判権の対象の外におくを相当とするものがあ」り、「本件に おける出席停止のごとき懲罰はまさにそれに該当するものと解するを相当とする。」としており、「出席停止のごとき懲罰」が「事柄の性質上司法裁判権の対象の外におくを相当 とする」と一般的に述べているに過ぎず、議場での当該議員の言動が具体的にどのよう なものかという事実認定、それが「無礼の言葉」に該当するか否かという法的判断はしていないのである。
 即ち、大法廷判決は、当該事案について、懲罰処分を受けた議員がどのような言動をしたのか具体的に事実認定をしたわけでもなく、またその言動が地方自治法第132条に該当するか否かの法的判断をしたわけでもない。そのような判断は回避したうえで(というより当該言動が地方自治法第132条に該当していることを前提にして)、それに対  してどのような懲罰処分を選択するかという点についてのみ判断し、除名処分は司法判断の対象となるが、それ以外の懲罰処分は司法判断の対象とはならないと結論づけただけである。
 比喩的にいえば、有罪認定を前提にして情状論においてどのような刑罰を適用すべきかという論点についてのみ判断し、刑罰の種類・程度によって司法判断の対象になる場合とならない場合とがあると判示しているに過ぎないのである。

 1952年判例と1960年判例とは、問題となった懲罰が除名か出席停止かで異なっており、形式的には、除名のみが司法審査の範囲にはいると考えているようにも見える。   
  しかし、1960年判例のいわゆる「部分社会論」は、団体の性質や争いの性質を個々的に見るものではなく、一般的な判断にすぎず、しかも、処分を導く前提となる「無礼の言葉」に該当するかどうかという法的判断には何ら踏み込んでいないのである。   
  いわば、裁判所は、議会の裁量事項には踏み込まないと判断しただけである。   
  これに対し、1952年判例では、まさに1960年判決ではふれていない法的判断を行っており、その結果、具体的な事案に対して、問題となった言動が「無礼の言葉」には該当しないと判示したのであって、議会の裁量事項ではない事実認定及び地方自治法132条の該当性の法的判断を行っているのである。  

 このように、両判決は、結論命題が異なっているのみではなく、判断の対象が異なっており、1952年判例は、具体的な懲罰の種類が、除名でなくても、妥当しうる判断なのである。   
  なお、通常、判例変更する場合には、その旨明示するのがふつうであり、そのような説明の全くない場合、単に表面的な結論が食い違うということのみで、判例変更があったと考えるのは早計である。しかして、昭和35年大法廷判決には、そのような判例変更をする旨の明示の判示は一切ない。  
 したがって、昭和35年判決をもって、昭和27年判決を否定したとは言えないのであり、後者の判例は、先例拘束性をもつ判例として今なお存在しているのである。   
  そして、本件事案においては、1952年判例同様、まさに「無礼の言葉」に該当するかどうかという前提問題が問題の中心であり、議会の自律権や裁量事項云々を問題とするような事案ではないのである。

だい2