冒頭意見陳述

2010年1月21日 原告 川口 精吾

 私は、一昨年の卒業式の国歌(君が代)斉唱時に着席しました。なぜ、私がそのような行動をとったのか、今から述べさせて頂きます。私が着席したのは、私の平和への思い、考えと大きな関係があります。私は、1953年、長崎で生まれ、長崎で育ちました。高校時代、私がとても尊敬していた体育の先生が、突然白血病で亡くなるということがありました。 先生は、原子爆弾の被爆者だったのです。このことは私にとって大きな衝撃でした。この時から、私は戦争や平和について、深く関心を持つようになり、真剣に考えるようになっていきました。戦争や平和について考えていくと、小さい頃、私の父が話していたことの意味が、次第に明確になってきました。私が小学校低学年の時でした。父は、近所に住んでいた父の戦友と話をしていました。二人は戦争に動員され、部隊も同じだったのです。二人は、戦地で人を殺した話をしていました。そして、父は「人の腹を切り裂いたら、とても広い」という話をしたのです。そばで聞いていた私は、どれくらい広いのかと疑問に思い、「学校の運動場くらい広いの?」と質問しました。すると、二人の大人は大きな声で笑いながら「そうだ、そうだ」と言ったのです。人間の腹を切り裂くと、どうして学校の運動場くらい広くなるのか、当時とても不思議に思ったことによって、この話が私の記憶の中に鮮明に残ったのです。以上の経験が、戦争や平和について考えるときの私の原点です。
 私は1977年、門真の学校に就職しましたが、そこでとても驚いたことがあります。それは、平和教育がとても熱心に行われていたことです。胸が熱くなりました。私は、子どもたちに戦争について教えていくためにも、自分なりにいろいろ勉強しました。そして、その中で、戦前の学校の戦争責任ということに気づいていきます。戦争責任というのは、戦前の学校が、徹底した軍国主義教育を行い、たくさんの若者を戦場へ送っていったという歴史的事実です。 私は、このことは絶対に忘れてはいけないし、絶対に繰り返してはいけないことだと、今日まで考え続けてきました。今、学校の卒業式や入学式で「君が代」を起立して歌うことが強制されています。しかし、「君が代」とは天皇を賛美する歌で、戦前戦争へ国民を駆り立てていったときの精神的シンボルであった歌です。私は、この歌を卒業式で歌うことにはどうしても耐えられないのです。私が卒業式の国歌(君が代)斉唱時に着席し、起立しなかった理由はここにあります。さて、私は、自分自身の「君が代」の導入に反対する理由を述べましたが、実は、教育現場では、ほとんどの教員が「君が代」の導入に反対なのです。「君が代」導入については、今まで、職場で何度も話し合いや学習会をしてきましたが、賛成の意見を言った同僚は一人もいません。たくさんの同僚が、それぞれの立場から反対の意見を述べてきました。そして、その思いは、管理職である校長も同じなのです。校長としての立場上、国歌斉唱には立って歌って下さいとしか言えない」という言い方を、私は何回も聞いています。ここにあるのは、戦時中、戦争の精神的なシンボルとしてあった「君が代」の重さなのです。私の職場で起こっているようなことは、多くの職場でも起こっています。だから、毎年、あちこちの学校で国歌斉唱時に着席する教員が出てきていたのです。そして、それに対し、教育委員会が処分をするということも、一切ありませんでした。ところが、昨年、2月20日、私たちは国歌斉唱時に着席したという理由で処分を受けました。背景にあったのは、右翼や右翼的な人たちの圧力であったと、私は考えています。一昨年、3月27日、産経新聞が「門真三中偏向教育」という記事を朝刊に載せました。卒業式で8名の教員とほとんどの卒業生が着席したことへの非難です。報道された、その日の朝8時過ぎから夜の9時過ぎまで、私たちの職場には抗議の電話が殺到し、その数は数百にものぼりました。抗議のファックスもたくさん送られてきました。電話やファックスの中には「(仕事を)やめさすぞ」「非国民」「赤」「北朝鮮へ帰れ」「殺すぞ」といった、聞くに堪えないような言葉がたくさんありました。その後、右翼の車10台が私たちの学校を取り巻いて、大きな声や音を出したり、右翼の車が直接校内に入ってくるということもありました。こういった右翼や右翼的な人たちの抗議は、教育委員会の方にもいっていると聞いています。そして、その圧力に押されて、教育委員会は、私たちに処分を出したのではないでしょうか。今回の大阪府教育委員会や門真市教育委員会の処分は、私たちにとても大きな危機感と苦痛を与えています。処分の撤回を心から求めます。

 

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