3/7初公判での戸田の意見陳述

【第1章】

 3ヶ月もの間、接見禁止勾留され、「被告人」とされている戸田ひさよしです。これより意見陳述を行います。
 裁判を担当する裁判官は、予断を持たずに審理に臨むために、公判が始まる前までは起訴状を見るだけで、公判が始まって初めて、検事、弁護士、被告人の話を聞き、事件の資料を読むものであり、公判以前の逮捕や勾留決定には関与せず、本件の場合は、連帯ユニオン弾圧の他の事件の勾留や公判にも関与していない、と聞いております。
 つまり、白紙の状態でこの法廷に本日臨んでいる、ということですが、そうであれば、この起訴事実の実態について、そもそも根本の所から、曇りのない目で、見ていってもらいたいと思います。
 「被告人」の一人である私は、現職の市議会議員ですが、この日本で政治資金規正法違反だけの被疑事件で逮捕・勾留された議員は今までいなかったと聞きます。ましてや接見禁止勾留を3ヶ月も強いられたのは前代未聞の例です。
 そしてもう一人の「被告人」、武建一氏は、連帯ユニオン関西地区生コン支部、通称「関生」と呼ばれる労働組合の委員長ですが、労働組合の委員長が逮捕されること自体は時々あるにせよ、1年以内にアレやコレやと3回も逮捕が重ねられ、最初の逮捕以来1年2ヶ月たっても勾留されたまま裁判が進行するというのも、これまた前代未聞の例です。
 しからばなぜ、この法廷に日本の前代未聞の例が二つも立ち並ぶという異様な、本来ならありえない事態が発生しているのか?
 この異様さを、裁判官の方々にはまず認識していただきたい。
 この異様さを解明する鍵は、本件起訴事実を作り上げたのが、大阪府警公安三課という、「極左担当」の、実質としては左派的と目される大衆運動、政治運動を潰して、大企業・独占資本の利益を守ってやることを目的とし、そのためには汚い情報操作でも、デッチ上げでも、さらには違法行為すら平気で行う権力機関だという事実です。
 そしてこの公安三課と協力しあって我々を起訴・勾留したのが、同様の政治的偏向と反民衆的体質を持った大阪地検公安部だという事実です。
 これら二つの機関を併せて便宜的に「公安当局」と呼ぶとすれば、この法廷に出てきている検事は、現場の動きにはタッチせず、詳しいことは何も知らないけれども、公安当局が作り上げた事件ストーリーをそのままなぞって、被告を有罪にしていくための、法廷専用の検事ロボットの役割をしているに過ぎません。
 公安三課や地検公安部への批判は何も私の思い込みではなく、客観的な事実に基づいたものです。
 検察庁の組織ぐるみの裏金作りに嫌気がさして、テレビで告発しようと思い立った現職の公安部長三井環検事を、暴力団がらみの犯罪者に仕立て上げて、テレビ撮影直前に逮捕して潰してしまった例も有名ですが、裁判で正邪の決着がついた端的な例としては、寝屋川市での「部落解放同盟全国連合会寝屋川支部」へのデッチ上げ弾圧事件です。
 これは同支部の青年役員が就職した会社で労災で仕事ができなくなって解雇通知を受けたため、仲間と一緒にその会社に行ってかけあった結果、会社が解雇予告手当てを支払って円満解決した。それだけの話を、公安三課の光井弘警部補、これは私への捜査・逮捕・取調べを主導した人物ですが、彼らの公安チームが無理矢理に「企業恐喝事件」にデッチ上げ、同支部役員を逮捕した、というとんでもないものでした。
 光井警部補ら公安三課は、常人ではおよそ考えもつかないこのようなデッチ上げをするために、その会社に無理矢理被害届けを出させたり、さもさも凶悪事件であるかのように演出するために、情報リークによってマスコミを操作したりしていきました。
 そうして作られた雰囲気の中で、逮捕された人たちが、地検公安部とそれに無批判な地検令状部他の裁判官によって、1年もの間、接見禁止で勾留監禁されたのです。
 幸い、この事件は昨年の7月、この大阪地裁大法廷で、完全無罪の判決が出され、冤罪が晴らされました。これにはさしも悪らつな検察側も控訴を断念せざるを得なかったほどです。
 しかし、デッチ上げ張本人の公安三課と地検公安部は、これほどの人権侵害をしておきながら、当事者への謝罪はおろか一片の反省すらせずに、今度は連帯ユニオン関生支部に矛先を向け、昨年1月13日に第一波弾圧で武委員長ら4名逮捕、3月9日の第二波弾圧で武委員長らの再逮捕を含め4名逮捕で、実数6名の関生支部役員を逮捕・勾留し続け、それでもその組織と運動が潰せないまま、保釈拒否の口実がさすがに薄くなって、このままでは武委員長の釈放=現場復帰となってしまうために、年末に第三波弾圧をかけてきました。
 それが「政治資金規正法違反」という名目で私と武委員長を逮捕・勾留した今回の事件です。
 ちなみに、第一波・第二波弾圧で彼ら公安当局は、生コンを水増ししたり、過積載したりする違法行為の常習不良業者を「被害者」に仕立て上げ、建造物の安全性を損なうこういった違法行為を一掃して業界を健全化・大同団結させて大資本の横暴を規制しようとする関生支部の活動を、「企業に言いがかりをつけるもの」とか、「企業の自由活動を侵すもの」などと決め付けて非難し、それこそ反社会的としか言いようのないほど、不良業者ベッタリ、それを操る大資本ベッタリの姿勢で連帯・関生支部を攻撃しています。
 このように、本件起訴は、「政治資金規正法違反」というのはまったくの方便、口実であって、その実体は、連帯ユニオン関生支部への攻撃、なかんずく、武委員長の長期幽閉を図るために、「違法な政治献金の授受」なるものをデッチ上げたものです。検事はこういった実体を隠蔽してあれこれ述べ立てるでしょうが、それはまったくのごまかしです。
 なお、起訴状で言われている項目に対する私の見解を述べておきますと、45万円ずつ2回、計90万円の振込みを受けたことは認めますが、これは労働組合から政治団体に対して寄付を受けたものではありません。また、360万円の交付を受けたことは認めますが、これは政治活動に関して労働組合から公職の候補者の政治活動に関する寄付を受けたものではありません。また、虚偽記入の点については、M事務員との共謀や、支部から寄附を受けた事実はありません。収支報告書に事実と異なる記載のあった点は認めますが、故意によるものではありませんでした。

 次に、裁判官の方々に「法の下の平等」ということについて注意を喚起させていただきます。
 本件では、連帯ユニオンに所属しているから、関生支部に所属しているから、逮捕し、勾留するという、まさに「連帯罪」「関生罪」を創作し、発動しているに等しい事態が起こっています。このようなことは断じて許されてはならないし、見過ごされてはなりません。
 12月20日に行われた勾留理由開示公判で、勾留延長を強行した地裁令状部の長瀬敬昭裁判官は、「何億円もの闇献金事件の起訴ですら議員の身柄拘束なしに裁判が進められたのに、なぜ戸田だけには身柄拘束を続けるのか?」とか、「連帯を離れた元経理事務員の場合は、現職当時360万円を渡してもお咎めなしなのに、今も連帯で事務員を続けている人だけは、何故かつて90万円を業務として振り込んだことが犯罪の共謀とされ、逮捕・勾留までされるのか?」という弁護士からの追及に対して、ただただ「個別の事情による」と言い張るのみでしたが、その「個別の事情」なるものの中味は、誰がどう考えても、連帯の所属議員だから、連帯・関生の事務員だからと解するほかありません。
 武委員長が1年2ヶ月も勾留され続けているのも、まさに関生の委員長をしているから、差別弾圧を受けていると解するほかありません。
 それにしても、上司の指示で、数ある業務のうちのひとつとしてお金を振り込んだに過ぎない○○事務員さんに家宅捜査と逮捕をし、起訴できるはずもないのに23日間も接見禁止で勾留する、公安当局と地裁令状部の悪らつさ、司法常識と人権感覚の欠如には本当に怒りを覚えます。これはまた、連帯・関生に所属したり、そこで仕事をしたりしたら国家権力が弾圧し、生活破壊するぞ、という卑劣な脅迫行為でもあります。
 しかし、我々連帯ユニオンの仲間は、役員も組合員もそこで働く職員も、このような卑劣な脅しや弾圧には激しい怒りをもってこれをはねかえし、ともにスクラムを組んで闘っていきます。それは、我々のやっている運動や事業が社会的・民衆的に正当であり、かつ強く必要とされることであることに深い確信を持っているからです。

【第二章】

 さて、次に公安当局の、いわゆる「捜査」の実態について、その中に驚くべき犯罪行為が含まれていたことの暴露と糾弾に移っていきたいのですが、その前に、私が起訴対象として狙われたこととも関連を持つ、私の経歴、連帯ユニオンとの関わりなどをまず述べていきます。

 私は1956年に秋田県の共働きの教員の長男として生まれ、1974年に秋田を出て大阪大学人間科学部に入学し、同大学の鴻池寮という学生寮、大学用語では「学寮」でずっと生活しました。
 学寮は寮自治会による自治運営がなされ、様々な社会問題に窓が開かれている所でした。私が寮で受けたオリエンテーションで特に衝撃を受けたのは、後に最高裁まで争われた、大東市の植田マンガン労災公害事件でした。頑迷強欲な資本家の下で働く労働者が、不治の病たるマンガン中毒にかかり、発病したのが私の生まれた年だと知り、中学時代に知った水俣病なども含め、資本家・企業を野放しにしていたら労働者民衆が大変な目にあわされてしまうことを強く感じました。
 学生時代は、様々な差別問題や韓国の民主化運動、成田・三里塚闘争、等々、色々なことに目を開いていきましたが、自分にとって一番大きな課題は、大学当局からの寮自治への干渉・破壊攻撃との闘いでした。
 これは70年安保闘争を乗り切った国家権力の側からする、全般的な統制強化の一環としてあり、寮生側は、三つの自治寮の共闘で一般学生にも訴え、相当激しく長期に抵抗し、私は1983年の最後まで残って闘い続けましたが、3寮とも入寮停止・強制排除・建物の破壊・廃寮にまで行き着いて敗北してしまいました。
 後に検事が私の3回の逮捕歴を読み上げるでしょうが、それらはみな、阪大寮闘争の中での弾圧によるもので、うち有罪になった事件は、謀略的活動や霊感商法で悪名高い反共右翼、統一教会原理研の学生グループたる、ニセの阪大新聞会との闘いへの弾圧です。

  こうして寮闘争時代を終えた私は、大阪市生野区に住み、いくつかの社会運動に関わりながら、消費者グループによる共同購入運動の配送員や日雇いの派遣運転手、タンクローリーの運転手などをしていきました。生野区に住んだのは、在日の韓国朝鮮人の様々な人たち生活の中で交流したいと思ったからで、自分の指向としては、この日本と世界を労働者民衆が主体となる世界に作り変える運動の一端を何かしら担っていこうと考えてきました。
 そうしているうちに、知人筋の労組の誘いで、91年に門真市にある「ホクシン」という社員30人ほどの小企業に入社することで、その中の5人だけの小さな独立労組に入って初めて当事者として労働組合活動をすることになり、翌92年からは門真市に転居もしました。
 この会社は事務什器の大手イトーキの下請けで組立・設置をする会社で、この裁判所の建物の中のパーテーション、キャビネット、書架、デスクの多くも私たちの社員が組み立てたものです。
 そして92年秋に、その単独組合の人たちを誘ってみんなで連帯ユニオンに加入するわけですが、私がそれを他の人に勧めたのは、私が以前から連帯を知っていて、そこが中小零細の民間労働者たちの組合で、ヤクザが出てきても、警察が弾圧に出てきてもまったくひるむことなく闘っていく強い組合であること、共産党のセクト主義と選挙偏重の右派路線と訣別して階級的労働運動の路線を堅持・実践する独立した左派労組であること、そして労働者の権利と生活を向上させるにはこういう労組の力を大きくしていくしか途がない、と思ったからです。
 この時以来、私はずっと連帯ユニオンの組合員であり続けていますが、この労働組合に対する信頼と誇りはさらに深まっています。次々と発覚する企業の不正や安全性無視の行為、それによる様々な犠牲や公金投入、そして政府による収奪と生活不安定化の政策の数々。それらを見れば、連帯のように社会正義と労働者・中小企業の生活権向上のために闘う労働組合をあらゆる企業、職場、業界に拡大してゆかねばならないと思うばかりです。
また、私は労働運動の一方で、地域から政治を変えていくということも考えていたので、門真に移って職住接近したこともあり、地域のいろんな人たちと交流したり一緒に運動したり懇談したりして、門真の市政や市議会にも目を向けるようになりました。
 門真市は人口約14万人のとても小さな人口密集都市で、低所得層、未組織零細労働者が多く、様々に困っている住民が多い一方、市長は、当時保守の長期マンネリ政権で、タカ派の公明党が第一党で議席占有率日本一、社会党・社民党はもはや消滅し、野党は共産党だけで、それなりにがんばっているけれども、何かと物足りない。そんなことが見えてきました。

 そう思っているところに、99年市議選に出馬したらどうか、という話があったので、最初驚いたけれども引き受けて出馬し、最下位ながら当選することができました。
 門真に来てわずか7年目の、何の基盤もなきに等しいよそ者のバツイチ男が、しかも革新派・市民派を打ち出して当選したのは、門真の常識では考えられないことでしたが、私は、それだけ市民の間に新しい風を求める気持ちが増えてきていたのだと思いました。
 議員になって市役所や市議会を間近で見ると、予測どおり守旧的、閉鎖的で非常識なことを常識と捉え違えている世界でしたが、そうした実態を議会発言やビラ、HPでどんどん公表し批判しつつ、様々な疑惑を追及したり、長年放置されてきた問題を改善させたりして風穴を開けていきました。
 4人もいる共産党でさえ、時々ビラの内容を議会でとっちめられるようなところでしたから私への風当たりは当然強く、議会で問責、懲罰、辞職勧告を立て続けに受けたり、怪文書を出されたりもしましたが、私のほうは大いにファイトを燃やして断固として闘い抜いて、逆に議会言論の自由を拡大していきました。
 そしてそういった闘いによって私のHPは自治体議員HPとしてはアクセス数断然日本一に発展し、市民からの注目と声援も増えていきました。そういう風も受け、また02年から市長・与党総がかりで出てきた守口市との合併強行の動きに、唯一最初から断固反対を掲げて闘ってきたこともあって、03年4月の2期目の市議選では、門真市史上最高の得票率でダントツのトップ当選を果たし、同年秋からは、連帯ユニオンの近畿地本委員長にも就任し、現在に至っています。
 なお、市議2期目の成果の大きなものとしては、守口市民とも大共闘して大分の人が無理と思っていた合併粉砕・門真市存続を実現させたことや、05年市長選で20年ぶりの政権交代をさせる一翼を担ったことで、これには大きな誇りを持っています

【第3章】

 以上で連帯ユニオンとの関係を含めた私の経歴についての説明を終わり、次に本件捜査・逮捕の問題点、違法性について述べます。

 私と武委員長への逮捕・起訴・長期勾留の狙いは、第一波、第二波弾圧で不当に長期勾留してきた武委員長に関して、いくらなんでももう保釈しないわけにはいかなくなった段階で、別の事件をこじつけて逮捕し、新たな勾留を始めてしまうことであり、そのために、市民運動的な面での連帯のスポークスマンでもある私の活動と地位を潰すことと併せて、両者を串刺しで弾圧しようとすることに他なりません。
 私は第一波弾圧以来、活発に反弾圧の活動を続けてきました。全国的に注目度の高い私のHPでこの問題を大きく取り上げ、連帯労組の従来の枠を越える多種多様な人々に情報発信して大きな反響を作り出したし、第一波のバッシングを突き破って2月早々に全国各地の議員と連帯労組が交流・協力しあう「連帯ユニオン議員ネット」の結成大会を私を代表として行ったり、議員仲間とともに記者会見をしたり、裁判所や検察庁に乗り込んで申し入れをしたりしてきました。
 また裁判官の皆さんも覚えていると思いますが、この大阪地裁を1200余名が取り囲んで「連帯弾圧糾弾・仲間を返せ」と声を上げた昨年の4.7大行動、あれを最初に発案提起したのも私です。
 こういった近畿地本委員長兼門真市議の私の動きを、公安当局が非常に苦々しく思い、武委員長とセットで弾圧しようと企んだのが、今回の第三波弾圧なのです。
 それは何も私の空想ではなく、弾圧と捜査の過程に刻印された事実です。1月末に検察側より被告側に渡された「証拠書類」なるものを見ると、警察は、昨年1月の第一波弾圧後、早くも2月早々に私の口座調べ等に動き出し、3月9日の第二波弾圧直後には、戸田事務所のかつての事務員等から私の活動や事務所のどこにどういうノートやハンコがあるかも含めて、警察の筋書きに沿った参考人供述書を作り、6月あたりには本件第三波弾圧の準備をあらかた整えていました。
 ここで、後に述べる重大な違法行為も含めて警察に協力した主要な人物が、Tという門真市在住の男で、02年秋頃から私への協力を申し出て、私のITサポーターもした人間ですが、04年になって、私に詐欺行為をしたり、私になりすましてクレジットカードを偽造して不正使用したりしたことが発覚して、絶縁した人物です。
 こういう段取りをつけた公安当局は、第一波・第二波弾圧事件公判が進んで保釈拒否の最後の口実になっていた被告人尋問が終わりに近づいた11月になって、まず、日韓労働者共同闘争への打撃の狙いも込めて、私も含めた連帯労組訪韓団出発のまさに前日11月9日に、私の事務所や連帯の事務所に大々的な強制捜査弾圧を行い、12月8日には私と連帯労組の事務員さんの逮捕弾圧へと進み、武委員長に対しては、第一波・第二波弾圧事件での保釈命令が出される12月15日のまさに直前の13日に再々逮捕をして、年を越す勾留を作り出したのです。
 私への強制捜査や逮捕にあたっては、驚くほど多くのテレビカメラと記者が現れ、テレビニュースと新聞で大きく報道されましたが、実は大阪府警が事前に各社に情報のリーク操作を行って、テレビカメラの位置まで割り振っていたことが分かっています。警察は私からの事情聴取はまったくしようとせずに、自分たちの描いた筋書きである「450万円違法献金」話をマスコミに大々的に報道させることで、私と連帯ユニオンの信用失墜を図ることに力を注ぎました。
 私の逮捕にあたっては、12月定例議会開催に土日を挟んで4日前に私が市職員から議案説明を受けているさ中、大勢のマスコミを引き連れて市議会庁舎に乗り込んできて、テレビカメラの放列の前で逮捕連行し、夕方から夜のニュースに繰り返し流れるようにするショーアップまで図っています。
 公安当局の悪企みはこれに止まりません。年内いっぱい不当勾留をかけた上での12月28日の私と武委員長への本件起訴でしたが、普通であれば、これで2月上旬の第1回公判とその直後の保釈申請許可と進むところなのに、これだけ長期間大がかりに、デッチ上げであれこじつけであれ、彼らとしての起訴材料を用意して、しかも11月の捜査から50日も間をおいての起訴であるのに、検事は1月半ばになってから急に戸田への追起訴があると言い出して、第1回公判をさらに1ヶ月先延ばしさせて、私への2月3日追起訴、3月7日公判へと持ち込むことによって、武委員長と私への不当勾留をさらに1ヶ月延ばしたのです。
 この追起訴なるものの内容は、最初の起訴内容に含まれている事柄をわざわざ後になって別途述べているものに過ぎず、実に姑息で卑劣なやり方だと言わなければなりません。

 そしてもうひとつ、もっと驚くべき、明白な犯罪行為を、大阪府警公安三課と地検公安部は私への捜査の中で行っていたのです。それを今から暴露いたします。
 それは、先に述べた、私に詐欺を働いたTという男が、かつて私のITサポーターであった立場を悪用して、戸田事務所内の1998年秋頃からおそらくは2004年春頃までの5年半かそれ以上にわたる、2台のパソコン内のデータの全てを窃盗コピーし、私物化していたことと、この犯罪行為を知った大阪府警公安三課や門真署は、これを咎めるどころか大喜びしてこの窃盗データをTに昨年3月に提供させて警察・検察の所有物として弾圧資料に使ってきた、ということです。
 もちろん私は、Tにバックアップデータを事務所外に持ち出したり私物化したりすることを許可したことなどありません。ましてやTは詐欺を働いたことが分かって怒りをもって追放した人間です。先に述べた「事務所開きビラ」というのは住所から見ても1998年11月のものですから、ここからもTが窃盗したデータが、私が議員になる前年からの全てであることが分かります。
 そしてデータの全てということは、高校・大学の同窓生から私が出会ってきた様々な友人知人、議員になってから出会いができた様々な人たちなど、3000人以上にものぼるであろう個人と一部は団体の名称、住所、そのうち何百人分かは電話・FAX番号、メールアドレス、私との付き合いの中でのやり取り、などを含めた、個人情報とプライバシー満載のデータと全てのパソコン作成物であって、これらをTが私から窃盗していたのです。このことは、検察資料の中で、明白であり、T自身もあからさまに認めているのです。これは絶対許されない犯罪行為です!
 私は個人データの窃盗でTを告訴する考えです。
 また大阪府警は、11月9日の私の事務所からの押収の時は、もっともらしくパソコン内データから本件関連データを選別してCDにコピーして押収しましたが、実は3月段階でTからのCD-R提供を受けて、本件と無関係のものを含めて私の数年間分の所有データの全てを、窃盗品と知っていて所有し、利用してきたわけで、これも断じて許せません。
 大阪府警と大阪地検は、直ちに私に謝罪し、窃盗品と知りつつTから入手し、今も所有している私のパソコン内データを私に返却しなさい!私は断固としてこのことをここにいる検事たちに要求します。

 裁判官の方々には、本件を取り扱った公安当局員たちが、このように度し難い人権侵害の窃盗行為を平然と行う者たちであることに注目されるとともに、このTのデータ窃盗は公安三課がTに指示を出したり、そそのかしたりしてやらせたのではないかという疑いについても充分考えて真相を究明していただくことを強く要望いたします。

【第4章】

 最後に、私たちの身柄の問題について述べます。
 この公判の終了後、弁護人より保釈申請をし、検事は絶対反対の意見を出し、それらを受けて本日この法廷に臨まれた3人の裁判官の方々が保釈するか否かを決定するわけです。
  そしてそこで保釈決定となっても、検事は必ずそれに反対して高裁に持ち込むので、次は高裁の全く別な裁判官によって最終的な決定がなされることになると聞いています。
  もちろん我々はすぐに釈放されるべきだと考えているわけですが、私はこの身柄拘束の問題を、今の日本の司法が冒されている病理の問題として、是非この機会に述べておきたいと思います。あと少しの時間ですから、最後まで耳を傾けてください。

  そもそも市民の身柄を拘束するのは、「適正な法律の適正な執行」によるものでなければならないというのは、いわゆる民主主義国家において決して踏みはずしてはならない大原則、大要件であるはずです。
  日本ではどういうシステムになっているかと言えば、公判開始以前には、まず地裁令状部の裁判官が一人で検事からの勾留請求と弁護人からの反対意見を受けて決定し、その決定への不服が出されたら別の裁判官が合議でまた審査して決定を出し、その時点での確定をさせる仕組みです。
  市民の身柄拘束を決めるこういう裁判官たちに求められるのは、有罪確定までは無罪の推定を受け、訴訟当事者として検察官と対等な立場を有するという刑事訴訟法の大原則に沿って、被疑者・被告人の身柄拘束の是非を判定するわけですから、捜査に対しては中立な立場で、身柄拘束の強制については最小限度にする立場で、言い換えれば逮捕者への不正な人権侵害を抑止する立場で、検事の勾留請求をチェックすることであるはずです。
  一方、検察官は被逮捕者を有罪にすることを追求し、被逮捕者を最も不自由な状態にしておくのが良いと考える人たちですから、被逮捕者がいかに悪質な犯罪者であるかを、あれやこれやの捜査資料を出してもっともらしく主張していきます。
  これに対して弁護人の方は、検察官がどんな資料を裁判官に見せてどんな主張をしているのか全く知らされていないし、大量の資料を作ってから逮捕・起訴を行う検察官と違って、逮捕があってから初めて対処を始めるという圧倒的な準備格差がある以上、検察官に比べてわずかな分量の概括的主張書面しか出しえない、というハンディを宿命的に負わされています。
  こうして、勾留決定を受け持つ裁判官は、具体的な現実は何も知らないのだけれども、一見リアリティを持っているかのような検事側の報告書や参考人調書などを突きつけられ、しかもその中には様々な独断や歪曲、こじつけ、時には全くのデッチ上げさえも含む「証拠」資料を積まれて判断しなければいけないわけですから、捜査への中立、人権侵害の防止という大原則にしっかり立って、「眼光紙背に徹する」鋭い眼力と見識を持っていなければならないはずです。
  ところが、我々の接見禁止勾留を決定した裁判官たちの実態はどうだったでしょうか?
  地裁令状部の長瀬裁判官はすでに述べたように、「連帯罪」「関生罪」を発動したに等しい勾留決定をしましたが、それだけでなく、起訴保釈請求却下にあたっては、何ら具体性もなく「罪障を隠滅すると疑うに足る相当な理由」を持ち出した上に、「かつ、諸般の事情に照らして」という文言を追加しました。これが近年の決まり文句らしいようですが、全く無限定な言葉で「法による規定」という法治主義の原則を無にする暴言と言わねばなりません。
  また勾留理由開示公判では、勾留延長を正当化するために「この先まだ捜査の進展があるかもしれないから」と述べるなど「中立」どころか完全に公安当局と同じ判断・立場で、被逮捕者を犯罪者と思い込んで警察・検察を尻押しするという逸脱姿勢をあらわにしています。
  さらには、労組委員長という重責を担い、第一波・第二波弾圧裁判を抱え、裁判所ももはや勾留の必要なしと認定して保釈決定を出した武委員長に対してこともあろうにこの裁判からは逃亡の恐れがあるとして保釈拒否の理由に挙げる始末です。いったい何のためにどうやって逃亡するというのでしょうか。もはや論理のない妄想としか言いようがありません。
  また、地裁第6刑事部の水島、中川、堀田の3人の裁判官は、12月16日の弁護人準抗告棄却決定の中で、「戸田の供述態度や捜査の進捗状況‥‥」や「証拠書類が多数にのぼること」などを理由に、私を拘置所ではなく留置場に入れておくほうが良いのだ、と述べています。
  つまり私が不当逮捕だと反発して完黙しているから警察の懐の中の留置場で長時間ビシビシ調べなさい、被疑者には机もなく、筆記具を使える時間も格段に短い留置場の方をあてがって防御権を奪い、警察に対しては資料を持って拘置所へ通うのは大変だろうから留置場で楽して調べなさい、というわけです。
  もうひとつ、今年1月13日の地裁第12刑事部の川合、西森、設楽の3人の裁判官は、拘置所からの発信物は全て検閲され、弁護士以外の面会には全て監視人がついて記録を取られているというのに、それでも手紙の発信や面会を許せば罪証隠滅される恐れがあって、単なる勾留だけでは足りないんだ、接見禁止が不可欠だ、とこれまた具体性抜きの妄想としか言いようのない棄却決定を出しています。
  こうした事実から見られるのは、身柄問題を決める裁判官たちが、なんら検証もされていない、一方的な捜査資料が描く情景を事実であるかのように鵜呑みにして、その情景にドップリはまりこんでしまい、自分も捜査官になったかのように捜査・弾圧側に心情や視点を一体化させて被逮捕者を見ている様子です。そしてまた、生身の人間をまるで捜査ゲームの中の駒や的のようにみなすゲーム感覚にはまっている姿です。
  人間の生活というものは、家族と暮らし、子供と会い、労働や社会活動をし、友人と語らい、本や映画を見、行きたい所に行き、食べたい物を食べ、飲みたい物を飲む、‥‥。様々な自由意志と社会関係から成り立っているものであり、それらを遮断して、ある人間を監禁するというのは、よほど正当重大な理由がなければ許されるものではありません。
  ところが先に挙げた裁判官たちは、この市民を監禁することの重大さ、重みというものをさっぱり感じなくなって、安易に監禁しているとしか思えません。この40年ほどを見れば、とりわけ何らかの社会的運動に関わって逮捕された場合の身柄の監禁は重く、長くなる一方です。
  司法用語では「勾留」と言われますが、どうもこの言葉ではその重大性が気づきにくくされそうなので、ことの本質から「監禁」とあえて呼びますが、20年位前ならたとえ起訴になったとしても3泊4日とか10日、23日で保釈されて当たり前だったものが、今はもっと軽い事件であっても軒並みに何ヶ月も接見禁止までついて監禁されるようになっています。
  昨年はビラまきをしたことで事後逮捕されて3ヶ月だったか監禁された例が起こっています。この40,50年で法律がこの方面で変わったわけではありません。社会の騒乱が増大したわけでもありません。ここ30年くらいで見れば良かれ悪しかれ激しい社会運動は激減したのが実態です。それなのに身柄の監禁はそれこそ右肩上がりにとどまることなく増大・拡大していっている。何がそうさせているのか?もちろん大本は政治権力であり、警察権力ですが、それを直接もたらしてきたのは裁判官たちの見識の劣化であり、権力に対するチェック意識、人権を守ろうとする意識のとめどもない劣化です。
  警察に目をつけられ、逮捕された人の身柄の監禁が年々重く長くなる一方の社会。果たしてこれが人間社会の進歩と言えるでしょうか?人権尊重や民主主義の成熟と言えるでしょうか?全く逆の退歩であり、衰退ではないですか?このような間違った流れは断固として正さなければなりません。
  そのための司法改革のひとつとして、私は身柄監禁の決定に関しては、決定文の中に法律用語の「勾留」という言葉だけでなく、「勾留として監禁する」というように、ことの本質を示す「監禁」という言葉を入れるよう義務付けること、また公判の判決文には、その事件で逮捕状や勾留決定を出した全ての裁判官の名前を列記して責任の所在を明らかにすること、そして全ての現役裁判官と司法修習生に最低限、留置場半月、拘置所半月、合計連続1ヶ月の監禁体験研修を義務付けることを提言いたします。

 本件の裁判官の方々に対しては、悪しき前例を踏むことなく、私と武委員長を本日すぐに保釈されるよう、そして検事の反対や準抗告を強くはねのけるだけの確固たる言葉で保釈決定を出されるよう、強く求めます。

いよいよ春闘本番、我々の仲間の労働者がまともに生活していくための必死の闘いが展開されています。来る3月12日日曜日には他労組とも共同して生コン産業、運輸産業の春闘の最大の目玉である大車両パレードも行われます。武委員長と私が我々の切実な労働運動の現場での責任が果たせるよう、すぐに現場復帰させてください。
  そしてまた議員である私には、門真市13万5千人の生活を決定付ける新年度予算等を決する3月定例議会に出席する義務があります。私は行政をチェックし改善するために選挙で選ばれ、門真市から月62万円の報酬を受けている特別公務員です。不当な勾留監禁のために12月定例議会には全く出席できなくされ、最も重要な3月議会で市長が施政方針を説明する初日本会議は昨日6日に行われ、これも出席できませんでした。もはや一刻も猶予できません。私が市議会に復帰し、きちんと準備して議会での審議に参加して質疑や質問ができるよう、すぐに保釈を認めてください。
  本日まで行われてきた勾留監禁は、連帯弾圧という不純な政治目的のために門真市の議員の職務執行を不可能にしてしまうという、地方自治への妨害と蹂躙であり、直ちに改められなければなりません。

  最後に、大阪地検ならびに大阪府警に対して申し渡しておきます。諸君らの卑劣で執拗な弾圧監禁攻撃は我々の団結を高めただけでなく、心ある多くの人々の連帯ユニオンに対する注目と支援をかえって拡大することになった。
  すでに韓国やアメリカの労働組合からも支援・連帯の声が届いているし、あす3月8日には国会の中で一連の弾圧監禁問題についての院内集会が行われることになっている。
  今や小泉政権の勢いは、急速に衰え、広範な労働者民衆がえせ「改革」の正体を悟り、自らの生きる権利と尊厳のため、起ち上がり始めている。 その叫ぶ言葉は、「血だらけの匍匐前進」によって運動と組織を拡大してきた韓国の労働者たちが叫んできた言葉と同じになるだろう。
すなわち「団結!」そして「闘争!」、タンギョル、トゥジェン!以上です。