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門真の総理=幣原(しではら)さんは戦争の原因と実相を調べる調査会も作っていた! 戸田 15/8/20(木) 3:54

門真の総理=幣原(しではら)さんは戦争の原因と実相を調べる調査会も作っていた!
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 戸田 E-MAILWEB  - 15/8/20(木) 3:54 -
  
「門真の偉人=幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)」と言えば、降伏直後の総理大臣で、「戦争放棄」の強い情熱を持って平和憲法作定にあたった人として有名だが、
  ◎幣原喜重郎元首相の生誕地(PDF:786.6KB)
      http://www.masse.or.jp/ikkrwebBrowse/material/files/200907_pc3.pdf
実はそれだけでなく、敗戦直後に日本人自身の手で戦争の原因と実相を調べるための調査会=「大東亜戦争調査会」というものを設置した人でもあった!
 その事が阿修羅掲示板記事に書かれていたので、備忘録としてとりあえず投稿しておく。

 この件、「日本近現代史の歴史家」の人が「最近、印象的な史料に出会いました」、と書いているくらいだから(戸田は全くの初耳)、もしかすると門真市立歴史資料館の幣原資料展示でも触れられていないかもしれない。
 門真市の市長や教育長も、議員も市民も、知らないだろうと推測する。
 とても重要な事なので、以下に紹介する。
    ↓↓↓
◎(戦後70年)「あの戦争」とは 日本の近現代史を研究する歴史家・加藤陽子さん:
  「敗戦責任」論は必要不可欠な過程
    http://www.asyura2.com/15/senkyo190/msg/925.html
   投稿者 あっしら 日時 2015 年 8 月 20 日

(戦後70年)「あの戦争」とは 日本の近現代史を研究する歴史家・加藤陽子さん
[朝日新聞]2015年8月5日05時00分

 「あの戦争」とは何だったのか。戦後の70年は日本人にとって、そう自らに問い続ける時代でもあった。そして、70年たった今も、戦争の原因や責任をめぐり、様々な論議が交わされている。私たちはこれから先も、あの戦争の意味を考え続けていくことになるのだろうか。歴史家として戦争を見つめてきた加藤陽子さんに聞いた。
 (中略)
 「占領期の国民がどう考えていたかについては、最近、印象的な史料に出会いました。降伏直後の45年秋に幣原喜重郎内閣が、大東亜戦争調査会というものを設置しています。戦争の原因と実相を日本人の手で調査し、記録に残すことを目的にした機関でした」

 「幣原首相はその記録を『後世国民を反省せしめ納得せしむる』ものにしたい、と発言していました。戦勝国にせよ敗戦国にせよ戦争は引き合うものではないのが現実であり、その参考になる記録にする、とも。

 また、戦前に鉄鋼増産の立案に携わった水津(すいつ)利輔は46年5月に調査会で、『来(きた)るべき平和的、文化的世界に対して日本は一つの贈り物がある』と語っていました。贈り物とは、自ら『失敗原因の報告』をすることである。水津はそう発言しています」

 「連合国側の意向で、後に調査会の試みは中止させられました。ただ私は彼らの発言を読み、身についた言葉だと感じました。日本国民が戦後に到達していた一地点を示すものだと思います」
  ==============================================================
2015年08月04日 (火) [NHK総合]
視点・論点 「シリーズ「戦後70年」 戦前史を学ぶことが なぜ必要か」
東京大学教授 加藤陽子

・・・・以上、戦前の歴史を学ぶことの意味を二点にわたって考えてきました。
 最後の三点目として指摘したいのは、今に連なる戦後というものが、戦前の反省の上に始まった、という歴史的事実の重みです。
 この点について、「戦争調査会」を例に説明しておきましょう。
 戦争調査会は、1945年10月、幣原喜重郎内閣総理大臣を総裁として、内閣に設けられた調査機関でした。

 会の目的は、敗戦の原因と実相を明らかにすることにおかれ、日本の犯した「大なる過誤を、将来において繰り返さないため」に、永続的な調査が必要だとしてスタートしたものでした。
 1946年3月に開かれた第1回の総会で幣原が述べた言葉を紹介しておきましょう。
 まずは、戦争放棄について、こう述べています。

 「今日我々は戦争放棄の宣言を掲ぐる大旗をかざして、国際政局の広漠なる野原を単独に進み行く」ものだと。

 その上で、「戦争の原因及び実相を調査致しまして、其の結果を記録に残し、以て後世国民を反省せしめ、納得せしむるに、充分力あるものに致したい」。記録を残すことの重要性を説いていました。

 また、同年4月の第2回総会における幣原の言葉も大事です。
 「戦勝国にせよ、戦敗国にせよ、戦争が引合うものでない、此の現実なる参考を作る。〔中略〕将来、我々の子孫が戦争を考えないとも限らない。その時の参考に今回の資料が非常に役立つ様な、調査をせねばならぬ」。
 このように幣原は意気込んでいました。

 ただ、不幸なことに、調査会の活動は中止を余儀なくされます。
 連合国軍最高司令官マッカーサーの諮問機関であった対日理事会のうち、ソ連とイギリスの代表が、1946年7月、解散勧告を行ったからです。
 その理由は、「戦争の原因を尋ね、これを処罰する仕事は国際軍事法廷の任務に属する」、というものでした。

 戦争調査会の挫折は、日本国民にとりましても、日本の戦争で惨禍を蒙ったアジアの人々にとりましても不幸なことでした。
 ただ、調査会にかけた幣原が、極めて早い段階で、戦争抛棄の精神を明らかにし、日本人の「反省」の仕方の道筋を付けていたことは注目に値します。
 過ちは繰り返さないと誓い、戦争は引合うものでないとの参考を作るところから、戦後は始まったのです。
   http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/224424.html
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◎関西を歩く:大阪府門真市の門真市立歴史資料館「幣原家の足跡をたずねて」
  http://4travel.jp/travelogue/10924769
 門真市立歴史資料館は門真の歴史に関する資料を収集・保存、展示公開している。常設展「幣原家の足跡をたずねて」は門真市が誇る偉人のコーナーだ。

 幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872−1951年)は日本の外交官、政治家。
 内閣総理大臣(第44代)、外務大臣、衆議院議長(第40代)などを歴任し日本国憲法の草案作成に携わったことで知られている。
 国際協調路線は「幣原外交」とも称され軍部の軍拡自主路線と対立し1931年の満州事変後国際協調路線を唱える幣原は軍部から「 軟弱外交 」と批判を受け辞任に追い込まれた。

 表舞台に返り咲くのは終戦後の1945年昭和天皇の命を受けて首相に就任し連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で憲法草案作成に取り組みその後衆議院議長に就任し現職のまま78歳で亡くなっている。
 門真市立歴史資料館には幣原家ゆかりの史料が約五十点展示されており説明資料も詳しい。
 幣原家は元来 石清水八幡宮 の御幣をつくる家であったそうで門真村の豪農で庄屋だったとのこと。

 大阪府出身の総理大臣経験者は幣原喜重郎(第44代内閣総理大臣)と鈴木貫太郎(第42代内閣総理大臣、海軍大将)の2人。
 鈴木貫太郎は堺市中区伏尾(関宿藩の飛び地)で1868年に生まれ3歳の1871年に本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移し育っているので先祖代々の大阪の地で生まれ育って総理大臣になったのは幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872−1951年)一人だけで、昭和天皇も認める平和主義者であったことで門真市が誇る人物であることはよくわかる。
  (写真は門真市立歴史資料館)
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◎守口門真の謎・疑問・情報を探求するもりかど探偵団。
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  2013年04月26日 第44代内閣総理大臣 幣原喜重郎
   http://tanteidan.seesaa.net/article/357336903.html

 総理大臣になるには・・・なんて考えたこともない中庭です。
 幣原兄弟の顕彰碑は実は幣原さんの家の跡だったんですねぇ。しかも願得寺は幣原が通ってた小学校があったところだったなんて!!毎日30分強かけて通学してたんですねぇ。
 70歳で総理大臣・・・すごいですねぇ。

 今回は改めて門真市出身の偉人、幣原喜重郎のことが学べて良かったです。
 かめっちこと亀田しょうこです
 今日は門真出身の英雄、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)がテーマでした
 この人は第44代内閣総理大臣に就任したすご〜〜い人なのです

 私は門真市立歴史資料館にて常松先生に幣原喜重郎について伺ってきました
 喜重郎は幣原家の次男として生まれ、東京帝国大学(今の東京大学)に進学しました。
 戦前には外交官・外務大臣として「協調外交」を展開し、戦後には44代内閣総理大臣に就任しました。

 実は内閣総理大臣就任を一度は断っていた喜重郎。高齢の身だったからです。
 ですが天皇から再び内閣総理大臣就任を命じられ、44代内閣総理大臣に。
 幣原内閣には次の総理大臣になる吉田茂も入閣していました。
「日本国憲法改正草案要綱」を発表するなど、日本の民主化を実現するために努めました。

 そんな喜重郎の家族や幣原家の歴史について改めて門真市立歴史資料館にある常設展「幣原家」の足跡を訪ねてリポートに

 喜重郎の父は厳格な教育者だったようですが、「田畑を売り払ってでも教育にはお金をおしまない」という方針の愛情たっぷりの素晴らしい父でした・・・
 当時の幣原家を再現した模型や、喜重郎が実際に使っていたステッキなども展示されています

 もっと知りたい方はぜひ行ってみて頂きたいです(入場無料です)
 門真市立歴史資料館 常設展「幣原家」の足跡を訪ねて
 門真市立歴史資料館へのmap↓
http://www.city.kadoma.osaka.jp/kyoiku/shisetsushokai/bunka_shisetsu/rekishi_siryo.html
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; GTB7.5; YTB730...@i60-35-91-121.s04.a027.ap.plala.or.jp>

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