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2016年11/25(現地時)カストロ死去!(90才)2世紀をまたぐ革命の巨星に敬礼す! 戸田 16/11/27(日) 21:15
◇広島を訪れ被爆者を気遣ったカストロ★米帝の核戦争策動阻止と自国防衛を賭けた闘争 戸田 16/11/27(日) 22:13

2016年11/25(現地時)カストロ死去!(90才)2世紀をまたぐ革命の巨星に敬礼す!
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 戸田 E-MAILWEB  - 16/11/27(日) 21:15 -
  
 「キューバ革命の英雄」フィディル・カストロがついに亡くなった。
 日本でニュース流れたのは11/26(土)だが、現地時間では11/25(金)夜。

 20世紀と21世紀をまたいで光を放った空前絶後の社会主義革命の巨星であり、「90才で天寿を全うした」事自体、帝国主義勢力による600回もの暗殺攻撃との闘いに勝利し抜いた結果である。
 心からの尊敬と追悼の意を込めて敬礼を送るものである。

 革命の同志=チェ・ゲバラが1968年10月に南米ボリビアで散ってから38年経て、カストロが後を追って天界に赴いたことになる。
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★フィデル・カストロ氏死去=90歳、キューバ革命の英雄 
    http://www.asyura2.com/16/kokusai16/msg/495.html

 1959年のキューバ革命を率い、引退後も国内外に強い影響力を保持していたフィデル・カストロ前国家評議会議長が25日夜、死去した。90歳だった。

【サンパウロ時事】1959年のキューバ革命を率い、政界引退後も国内外に影響力を保持
 していたフィデル・カストロ前国家評議会議長が25日、死去した。
  90歳だった。死因は不明。

 実弟のラウル・カストロ議長が国営メディアを通じ、「キューバ革命の最高司令官が今
夜(25日夜)午後10時29分、死去した」と発表した。
 遺体はフィデル氏が生前に示した意向に従い、火葬される。
 26日に葬儀委員会が開かれ、詳細が公表される見通し。

 53年にモンカダ兵営を襲撃して失敗したが、アルゼンチン人革命家チェ・ゲバラらとゲリラ闘争を続け、59年にバティスタ独裁政権を打倒。キューバ革命を成功させた。

 61年に米国と断交。ソ連に接近して社会主義路線を進め、62年にはソ連がキューバに核ミサイルを持ち込むキューバ危機を招いた。 

 革命家として生き、半世紀以上にわたりキューバを導いたカストロ氏
  (動画あり)
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◎キューバ フィデル・カストロ前国家評議会議長が死去  11月26日 14時33分 
   http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161126/k10010785261000.html

 1950年代にキューバ革命を起こし、反米の社会主義政権を半世紀にわたって率いたキューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が25日、死去しました。90歳でした。
 キューバのラウル・カストロ国家評議会議長は、日本時間の26日午後、国営テレビで国民に対し、「キューバ革命の最高司令官が午後10時29分に死去した」と述べ、兄のフィデル・カストロ前議長が現地時間の25日夜、死去したことを明らかにしました。

 また、本人の希望で火葬されるとしたうえで、葬儀の詳細について26日に発表すると述べました。

 カストロ前議長は1959年にキューバ革命を起こして親米政権を倒し、以後、最高指導者として反米の社会主義政権を率いてきました。

 米ソ冷戦の中、当時のソビエトと関係を深め、1962年にはソビエト製のミサイルのキューバへの配備をめぐって、米ソの核戦争への緊張が一気に高まった、いわゆる「キューバ危機」が起きました。

 カストロ前議長は2006年に体調を崩し、2008年には議長を退任して実の弟のラウル・カストロ氏に政権を移譲しましたが、その後も、一定の影響力を保ってきました。

 キューバは、去年7月に半世紀以上にわたって敵対してきたアメリカと国交を回復し、カストロ前議長は国交回復に向けた交渉を始めた、ラウル・カストロ議長の判断は適切だとして支持する考えを明らかにしていました。

 また、1995年と2003年には日本を訪問しているほか、ことし9月には日本の総理大臣として初めてキューバを訪問した安倍総理大臣と会談し、北朝鮮の核開発問題などについて意見を交わしました。

 カストロ前議長の死去を受けて市民の間には衝撃が広がっていて、強いカリスマ性で国をまとめる求心力となってきたカストロ前議長の死が、キューバや国際社会にどのような影響を及ぼすのかが注目されます。

=国営テレビの発表は=

 キューバのラウル・カストロ国家評議会議長は国営テレビで、「きょう、11月25日午後10時29分に、キューバ革命の最高司令官、フィデル・カストロが亡くなりました」と述べて、カストロ前国家評議会議長が死去したことを明らかにしました。

 そのうえで、「本人の希望により火葬される。あすの11月26日の朝に、キューバ革命の創始者に対して行われる葬儀の詳細を発表します」と述べました。
 そして、最後にキューバ革命のスローガンである「常に勝利を目指して」と述べて、
前議長の死を悼みました。

=カストロ氏のこれまでカストロ氏のこれまで=

 強いカリスマ性で人々を引きつけたカストロ氏は、当時のキューバの親米政権、バチスタ政権の打倒を目指して、1953年に革命運動に身を投じました。
 その後、左翼活動家のチェ・ゲバラ氏とともにゲリラ活動を展開して、1959年に「キューバ革命」に成功しました。

 首都ハバナへ凱旋(がいせん)した際には、国民から熱狂的な歓迎を受けました。
 この時、カストロ氏は「われわれはアメリカの目と鼻の先で社会主義革命を達成した。われわれはみずからの銃でこの社会主義革命を守るのだ」と述べました。

 革命後は中南米初の社会主義国として、外資系企業の国有化などを進めました。
 米ソ冷戦のさなかには、当時のソビエトと急速に関係を深め、「軍事的な備えが必要なため基地の強化に踏み切った」などとして、キューバ国内にソビエトの核ミサイル基地を建設することを容認しました。

 これに対してアメリカは海上封鎖などで対抗し、「キューバ危機」が起きました。
 世界は一時、核戦争の瀬戸際にまで追い込まれましたが、ソビエトがミサイルを撤去したことで危機は回避されました。

 カストロ氏は反米姿勢を強め、その後、社会主義革命を中南米やアフリカに広げる政策を進めていきます。

 一方で、最大の貿易相手国だったソビエトの崩壊後は経済危機に陥り、国民は苦しい生活を強いられました。
 80歳を超えたカストロ氏は、2008年に国家評議会議長を退任して、実の弟のラウル・カストロ氏に政権を譲りました。

 そして2011年には、政府や党の公職をすべて退き、政界の第一線から身をひいていました。
 また、1995年と2003年には日本を訪問しているほか、ことし9月には日本の総理大臣として初めてキューバを訪問した安倍総理大臣と会談し、北朝鮮の核開発問題などについて意見を交わしたばかりでした。

=キューバをスポーツ大国に育てる=

 25日に死去したキューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長は、国内をまとめ上げ、国際的にも存在感を高めるために野球をはじめとするさまざまなスポーツの強化に力を入れ、キューバを世界的なスポーツ大国に育てました。

 カストロ氏は1959年のキューバ革命で反米の社会主義政権を立ち上げると、最大の援助国だったソビエト連邦にならってプロスポーツ制度を廃止し、国家の全面的な支援によってアマチュア選手を育てる政策を推し進めました。

 みずからも優れた野球選手だったことから、野球を国技に定めて義務教育に採り入れたほか、ボクシング、陸上、バスケットボール、バレーボール、柔道の強化に力を入れ、
夏のオリンピックでは1972年のミュンヘン大会以降多くのメダルを獲得してきました。

 野球が正式種目となった1992年のバルセロナ大会では、のちにプロ野球の中日でもプレーしたオマール・リナレス選手を中心とする強打のチームで日本やアメリカをやぶって金メダルを獲得し、これまでに5つの大会で金メダルを3回獲得しています。

 一方で、より多くの報酬を求めて、国交が断絶していたアメリカの大リーグでプレーするために亡命する選手はあとを絶たず、ことしのワールドシリーズで優勝したカブスの抑え投手、アロルディス・チャップマン投手など、有力選手の流出はキューバ代表の弱体化にもつながっていました。

 これに対してキューバ側は国交のある日本のプロ野球などに選手を送る政策をおととしから進めていましたが、去年、アメリカとの国交が回復したことを受け、両国の政府が中心となってキューバ選手が大リーグに移籍するためのルールづくりに向けた話し合いが進められています。
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引用なし
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◇広島を訪れ被爆者を気遣ったカストロ★米帝の核戦争策動阻止と自国防衛を賭けた闘争
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 戸田 E-MAILWEB  - 16/11/27(日) 22:13 -
  
 前半に2003年広島訪問の記事を紹介し、後半にいわゆる「キューバ危機」の本質を指摘する記事を紹介する。
 キューバ革命にとって「核兵器問題」が如何に「現実的に生死をかけた闘い」であったかがよく分かる。
 
 「キューバ危機」の主導要因は決してキューバでもなければソ連でもない。
 米帝の「ソ連撃滅核戦争作戦」と「革命キューバ抹殺策動」こそが主因であり、革命キューバは、まさに「国丸ごと米帝の核兵器で消滅させられる現実的危険性」を全人民的に自覚した「世界史上空前の闘い」を断固として引き受ける事によって、革命国家キューバ
の防衛存続を勝ち取ったのである。
    ↓↓↓
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◎フィデル・カストロ氏「人類は広島の教訓を学び取っていない」来日時に訴えた平和へ
 の思いとは (執筆者: 吉川慧)投稿日: 2016年11月26日 16時26分
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/26/fidel-cast【URL短縮沸:C-BOARD】.
  (写真多し)
 11月25日に90歳で死去したキューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長。
 親日家として知られたカストロ氏だが、2003年3月の来日時には広島を訪問している。
 1962年、人類史上最も核戦争の危機が高まったとされる「キューバ危機」を経験した
カストロ氏にとって、広島の訪問は「長年の夢」だったという。

 平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花するキューバのフィデル・カストロ国家評議会議長 2003年03月03日

■「人類は広島の教訓を学び取っていない」

 2003年3月3日、広島を訪れたカストロ氏は平和記念資料館(原爆資料館)を訪問。原爆投下後の広島市内のパノラマ写真などを見学した。
 この時カストロ氏は、平和記念資料館の芳名録に、こんな言葉を書き遺している。

 「このような残虐な行為を、決してまた犯すことのないように」

 カストロ氏は、この日開かれた歓迎昼食会の席で、広島に原爆が投下されたニュースを当時のラジオ放送で聞いたエピソードを明かし、「様々な戦争のエピソードの中で最も衝撃を受けた」と述べた。その上で、広島の被爆の教訓を、人類は学ぶべきだと訴えた。

 人類は広島の教訓を十分学び取っておらず、世界はまだ危険のふちにいる。たくさんの人々が広島を訪れなくてはならない

 朝日新聞・2003年3月4日朝刊・広島版

 62年、米ソ対立で人類史上最も核戦争の危機が高まったとされる「キューバ危機」を経験したカストロ氏は、広島に対して「連帯の気持ちを表明したかった」と語った。

 広島と長崎の人たちは全く罪のない犠牲者。哀悼の意を表したいという長年の願いがかなった
朝日新聞・2003年3月4日朝刊

■「日本国民は一言も恨みを発しなかった」

 キューバ帰国後、カストロ氏は広島訪問時の所感について国会で演説。世界に向けて広島を訪問するよう訴えた。また、原爆を投下したアメリカを痛烈に批判した。

 何百千万の人々があの地を訪れるべきだ。あそこで起こったことを人類が真に知るために
   朝日新聞・2003年3月15日朝刊・広島版

 あの攻撃はまったく必要のないもので、モラル上も正当化できない
   朝日新聞・2003年3月15日朝刊・広島版

その上で、被爆国日本についてこう評価している。
 日本国民は一言も恨みを発しなかった。それどころかそのようなことが2度と起こらないよう平和を願う記念碑を建てた
    朝日新聞・2003年3月15日朝刊・広島版

 アメリカのオバマ大統領が、アメリカの現職大統領として初めて広島を訪問したのは、それから13年の月日がたった2016年5月のことだった。

▼「フィデル・カストロ氏」スライドショー▼

・フィデル・カストロ――波乱に満ち、光と影が交差したキューバ革命指導者の生涯
  http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/26/fidel-castro_n_13245796.html

・キューバのラウル・カストロ議長とオバマ大統領が歴史的握手(画像)
・3分で分かるキューバの歴史 アメリカ大統領が88年ぶり訪問へ
・チェ・ゲバラが生きていたら何と言うか キューバとアメリカが国交正常化へ
  http://www.huffingtonpost.jp/2015/04/11/che-guevara-cuba-us_n_7047700.html
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★カストロが率いて成功させたキューバ革命によって米好戦派が計画した対ソ先制核攻撃
 計画は困難に(櫻井ジャーナル)
   http://www.asyura2.com/16/warb19/msg/204.html
   投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 11 月 27 日 10:14:05:
  カストロが率いて成功させたキューバ革命によって米好戦派が計画した対ソ先制核攻撃
  計画は困難に
   http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201611270000/
    2016.11.27 03:20:03 櫻井ジャーナル

 11月25日にキューバのフィデル・カストロが死亡したという。
 うまでもなく、カストロはキューバ革命の英雄。アメリカ支配層の傀儡だったフルヘンシオ・バチスタ政権を倒すため、1953年7月26日に実行されたモンカダ兵営襲撃から革命は始まり、59年1月1日にバチスタがキューバを逃げ出し、8日にカストロがハバナ入りして終わった。
 アメリカでは1953年1月から61年1月までドワイト・アイゼンハワーが大統領を務めている。

 この当時、アメリカ支配層の好戦派はソ連に対する先制攻撃を考えていた。
 この計画とキューバ情勢は深く結びついている。

 第2次世界大戦で殺されたソ連人は2000万人以上、工業地帯の3分の2を含むソ連全土の
3分の1が破壊されている。
 しかもソ連軍で装備が十分な部隊は3分の1にすぎず、残りの3分の1は部分的な装備しか持たず、残りは軍隊の体をなしていなかった。

 これはアメリカ支配層の中でも好戦派として知られている。
 ポール・ニッツェの分析だ。本ブログでは何度か指摘したように、アメリカ軍はドイツ軍とまともに戦っていない。

 日本がポツダム宣言を受諾すると通告してから約1カ月後にはJCS(統合参謀本部)で
ソ連に対する先制攻撃を必要なら実行すると決められている。
 この決定はピンチャーという暗号名で呼ばれた。
 もっとも、この時点でアメリカが保有していた核兵器は2発にすぎないと言われているので、全面核戦争というわけではないだろう。

 1948年後半になると、心理戦の専門家で特殊部隊の産みの親とされている「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)、

 翌年に出されたJCSの研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)を落とすという内容が盛り込まれていた。
 1952年11月にアメリカは水爆実験に成功している。

 この当時、原爆の輸送手段は爆撃機。その任務を負っていたのがSAC(戦略空軍総司令部)で、1948年から57年まで司令官を務めたのがカーティス・ルメイ中将だ。
 日本の諸都市で市民を焼夷弾で焼き殺し、広島や長崎に原爆を落とした責任者だ。

 1954年になるとSACは600から750機の核爆弾をソ連に投下、2時間で破壊し、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。
 この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。

 1957年の初頭になると、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定した「ドロップショット作戦」を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
 1958年にアメリカが保有する核兵器の数は3000発に近づいた。

 1960年の大統領選挙で共和党の候補者だったリチャード・ニクソンはアイゼンハワー政権の副大統領。そこで、軍事的にアメリカが圧倒していることを知っていた。

 それに対して民主党のジョン・F・ケネディ上院議員は1958年8月にソ連がミサイルで優位に立っていると主張、「ミサイル・ギャップ」なる用語を使って危機感を煽り、有権者の心をつかんだ。
 こうした話をケネディに吹き込んだのは、元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だとされている。

 もっとも、ケネディが好戦的だったと言うことは正しくない。
 例えば、1954年4月には議会でフランスがベトナムで行っている戦争を支持するアイゼンハワー大統領を批判、また57年7月には、アルジェリアの独立を潰すために戦争を始めた
フランスの植民地主義に強く反対、60年の大統領選挙ではアイゼンハワーとジョン・フォスター・ダレス国務長官の好戦的な外交政策を批判している。
 (David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 結局、選挙でケネディが勝利した。
 その段階で彼はジョン・フォスター・ダレスの弟でCIA長官だったアレン・ダレスやFBIのJ・エドガー・フーバーを解任するべきだと考えていたようだ。
 ケネディの父親、ジョセフ・ケネディも大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だということを話していたと言われている。

 しかし、選挙結果が僅差での勝利だったことからケネディは両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 ケネディが大統領に就任した3カ月後、1961年4月に亡命キューバ人の部隊がキューバへの軍事侵攻を目論んで失敗する。
 その背後にはCIAがいた。ダレスCIA長官など好戦派はそうした作戦の失敗を想定、アメリカ軍の本格的な軍事介入を予定していた可能性が高いと考えられている。

 実際、チャールズ・キャベルCIA副長官は航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させ
ようと大統領に進言したが、却下されてしまう。
 その後、キャベル副長官はアレン・ダレス長官やリチャード・ビッセル計画局長とともに解任された。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 7月になると、ケネディ大統領に対してライマン・レムニッツァーJCS議長をはじめとする軍の幹部が1963年後半にソ連を核攻撃するという計画を大統領に説明した。
 大統領から1962年の後半ならどうなのかと聞かれたレムニッツァーは使用できる十分なミサイルが不足していると答えたという。

 レムニッツァーは大戦中の1944年からアレン・ダレスと面識がある。ふたりは秘密裏にナチスと接触し、降服に関してスイスで話し合っているのだ。
 その先にはナチスと手を組んでソ連と戦うという道筋ができていた。

 キューバに対するアメリカ軍の侵攻を正当化するため、レムニッツァーたちは偽旗作戦を考えている。
 例えば、キューバのグアンタナモにあるアメリカ海軍の基地をキューバ側のエージェントを装って攻撃、マイアミを含むフロリダの都市やワシントンでの「テロ工作」も展開、アメリカ人が操縦するミグ・タイプの航空機で民間機を威嚇、船舶を攻撃、アメリカ軍の無人機を破壊したり、民間機のハイジャックを試みたり、キューバ側を装ってその周辺国を攻撃したりする計画もあった。

 それだけでなく、民間旅客機がキューバ軍に撃墜されたように装う計画もあった。

 民間機のコピー機をフロリダ州にあるエグリン空軍基地で作り、本物は自動操縦できるように改造、空港から人を乗せたコピー機に離陸させ、途中で自動操縦の飛行機と入れ替え、それをキューバ近くで自爆させ、キューバ軍に撃墜されたように見せかけようとしていた。

 そのほか、4ないし5機のF101戦闘機をキューバに向かって発進させ、そのうち1機が撃墜されたように見せかける計画もあった。
 (Memorandum for the Secretary of Defense, 13 March 1962)
 この偽旗作戦をレムニッツァーは1962年3月にロバート・マクナマラ国防長官に長官の
オフィスで説明しているが、拒否されている。
 (Thierry Meyssan, “9/11 The big lie”, Carnot Publishing, 2002)

 アメリカの好戦派、つまり疲弊したソ連を先制核攻撃で殲滅しようと考えていた勢力がキューバへの軍事侵攻に執着した理由は中距離ミサイルいよる反撃を恐れたからだと考えることができる。

 アメリカがソ連に対する先制核攻撃を考えていることはソ連政府も知っていたはず。
長距離爆撃機やICBM(大陸間弾道ミサイル)で対抗できなければ中距離ミサイルを使うしかない。
 アメリカもソ連もそう考え、両国はキューバに注目したのではないだろうか。

 そして1962年8月、アメリカはソ連がキューバへミサイルを運び込んでいることに気づく。
 偵察機のU2がキューバで8カ所の対空ミサイルSA2の発射施設を発見、9月には3カ所の地対空ミサイル発射装置を確認したのだ。
(Jeffrey T. Richelson, "The Wizards of Langley," Westview Press, 2001)

 ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明した。
 (Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 こうした事態を受け、10月9日にケネディ大統領はJCSのメンバーと会談、ルメイを中心とするグループは運び込まれたミサイルを空爆で破壊すべきだと主張した。
 空爆してもソ連は手も足も出せないはずだというのだが、ケネディは同意していない。

 ケネディ大統領は10月22日、キューバにミサイルが存在する事実をテレビで公表、海上封鎖を宣言した。
 戦略空軍はDEFCON3(通常より高度な防衛準備態勢)へ引き上げ、24日には一段階上のDEFCON2にする一方、ソ連を空爆する準備をしている。

 27日にはU2がキューバ上空で撃墜され、ニューヨークにいたソ連の外交官たちは機密文書の処分を始めたという。
 27日にはシベリア上空でU2がソ連のミグ戦闘機に要撃されている。
 この出来事を受け、マクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2が同じことを繰り返した。
 (Richard J. Aldrich, "The Hidden Hand," John Murray, 2001)

 それだけでなく、アメリカ海軍の空母「ランドルフ」はカリブ海で対潜爆雷を投下するが、その近くにはキューバへ向かう輸送船を警護していたソ連の潜水艦がいた。
 その副長は参謀へ連絡しようとするが失敗する。

 アメリカとソ連の戦争が始まったと判断して核魚雷の発射準備に同意するようふたりの将校に求めるが、政治将校が拒否して実行はされなかった。
 この日、カーティス・ルメイ空軍参謀長などJCSの強硬派は大統領に対し、即日ソ連を
攻撃するべきだと詰め寄っていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 結局、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられたのだが、ベトナム戦争の実態を内部告発したダニエル・エルズバーグによると、キューバ危機が外交的に解決された後、国防総省の内部ではクーデター的な雰囲気が広がっていたという。
(Peter Dale Scott, “The American Deep State,” Rowman & Littlefield, 2015)

 当時、マクナマラ長官はキューバへ軍事侵攻した場合のアメリカ側の戦死者数を4500名になると推測していたが、30年後、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 その翌年、1963年6月10日にケネディ大統領はアメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行った。

 アメリカが軍事力で世界に押しつける「パックス・アメリカーナ(アメリカ支配による平和)」を否定することから演説は始まり、アメリカ市民は「まず内へ目を向けて、平和の可能性に対する、ソ連に対する、冷戦の経過に対する、また米国内の自由と平和に対する、自分自身の態度を検討しはじめるべき」(長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集』南雲堂、2007年)だと語りかけたのだ。

 ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたのはその年の11月22日。当時のダラス市長はCIA副長官だったチャールズ・キャベルの弟、アール・キャベルだ。

 ソ連に対する攻撃をアメリカの好戦派だけが考えていたわけではない。
 第2次世界大戦の終盤、1945年4月12日にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、5月7日にドイツが降伏するが、その直後にウィンストン・チャーチル英首相は
JPS(合同作戦本部)に対し、ソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令、
 5月22日にアンシンカブル作戦が提出されている。

 7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になって
いた。この作戦は発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからだ。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 もし、カストロたちの革命が成功せずキューバをアメリカが支配していたなら、ソ連に対する先制核攻撃が実行された可能性はかなり高くなるだろう。
 そうした戦争が始まったなら、沖縄をはじめ、日本は核兵器の発射基地になり、報復の対象になったはずだ。
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