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戸田議員にお聞きしたい 賢者は驕らず 08/11/1(土) 23:26

◆回答D:「北方領土」返還要求は「台湾は日本に返せ」要求に等しい途方もなさ(1) 戸田 09/1/1(木) 0:45
◇「かけはし」論文紹介(2)北方領土と米帝の策略、「失地回復」加担の日本共産党 戸田 09/1/1(木) 0:54

◆回答D:「北方領土」返還要求は「台湾は日本に返せ」要求に等しい途方もなさ(1)
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 戸田 E-MAILWEB  - 09/1/1(木) 0:45 -
  
 戸田は「北方領土」は先住民族から大日本帝国政府が奪い取ったものを、第二次大戦で
の日帝敗北の結果を受けて「合法的に」ソ連が領有し、日本が米帝の後押しを受けて奪い返そうとしてきたものだと思っている。
 長年日本の「挙国一致的排外主義」のエネルギー源になってきたが、より良い解決方向
としては、先住アイヌ民族も加えた日露協議で国境線を低くした共同開発をして行くこと
だと思う。

 この件でも「かけはし」論文が鮮明で分かり易いので、戸田も賛同するものとして2回に分けて紹介する。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
プーチン来日と「北方領土」問題  かけはし2000.9.18号より  (1)
http://www.jrcl.net/pk519.html 

■平和条約年内締結が不可能に

 九月三日、ロシアの大統領プーチンが来日し、四日と五日の両日にわたって森首相との間で日ロ首脳会談を行った。
 この中でプーチンが「二〇〇〇年までに平和条約を締結する」とした一九七七年のクラスノヤルスク合意について「二〇〇〇年までに調印するとは書いていない。努力すると書いてあるだけだ」と述べたことによって、年内の平和条約締結が不可能であることが結論づけられてしまった。

 プーチンは、九八年四月のエリツィンとの静岡県川奈での会談で当時の首相橋本が提起した、「ハボマイ、シコタン、クナシリ、エトロフ四島と、ウルップ島との間に国境線を引くことを確認し、四島の日本帰属を認めれば当面、施政権の変換は求めない」という、いわゆる川奈提案についても、「相互の妥協の基礎にはなりえない」としてあらためて退けた。
 日本側は、九八年十一月のモスクワにおけるエリツィン・小渕会談の際にロシア側が提起した、国境線確定を先送りして平和友好協力条約を結ぶという対案(モスクワ提案)をあらためて拒否した。

 九月五日に調印された「日ロ平和条約に関する共同声明」では、九七年のエリツィン・橋本会談以降の成果として、外務大臣レベルの平和条約締結問題合同委員会の設置、共同経済活動に関する委員会の設置、海洋生物資源についての協力をめぐる協定の調印と実施、四島の現在の住民と旧住民の相互訪問や相互の自由訪問の拡大などを列挙したうえ、九三年の東京宣言、九八年のモスクワ宣言などの合意に依拠しつつ「平和条約を策定するための交渉を継続することに合意した」とされている。

 第二次世界大戦の終結から五五年も経つのに、日ロ間に平和条約が締結されていないのはきわめて異常である。
 平和条約を早期に締結するための努力が求められているのは論を待たない。いったいなぜ、締結できなかったのか、歴史的事実に基づいた論議が必要である。

 エリツィン・細川の日ロ首脳会談で合意された九三年の「東京宣言」は、次のように述べている。
  「この問題(四島の帰属問題)を歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意のうえ
  作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決することにより、平和条約を
  早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきことに
  合意する」。

 日ソ間で、あるいは日ロ間で平和条約の締結の最大の障害になってきたのは、言うまでもなく「北方領土」問題である。この問題の「歴史的・法的事実」とはなんなのか。
 われわれは九一年四月のゴルバチョフ来日にあたって、九二年九月と九三年十月のエリツィン来日にあたって、あるいは九八年四月のエリツィン来日にあたって、そのほか何回かの機会に、この「歴史的・法的事実」について詳しく提起し、日米帝国主義の反動的要求とそのねらいについて明らかにしてきた(詳細は本紙に91年4月15日号から5月13日号にわたって連載された「『北方領土』問題とはなにか・・アイヌ民族の復権要求と連帯して帝国主義の世界戦略と闘うために」を参照)。
 ここでこの問題の原則的立場を確認しておきたい。

■国際法的根拠なき帝国主義的「失地回復」要求に反対する

 ロシア大統領プーチンが来日し、森首相との間で首相会談が行われたが、「二〇〇〇年までに平和条約を締結する」とした一九九七年のクラスノヤルスク合意を達成することは不可能であることが、事前の大方の予想通りはっきりしたという結果に終わった。
 日本側が執拗に追求し続けてきた「北方領土」返還要求には国際法的根拠はない。
 それは日米軍事体制強化のために米日政府が捏造したものにほかならない

 この旧東プロイセンは第二次大戦後、ソ連とポーランドに分割された。ポーランド領東プロイセンには、いまもポーランド国籍のドイツ系住民が多数生活しており、ドイツ系少数民族の政党が国会に議席を持っている。
 また、ドイツと国境を接するポーランド・シロンスク地方の主要部分もまた、第二次大戦までドイツ領だったところである。

 日本の主張する、いわゆる「固有の領土」論で言えば、アメリカ南西部は「メキシコ固有の領土」であり、旧東プロイセンは「ドイツ固有の領土」に他な轤ネい。しかしメキシコもドイツもこれらの土地の返還を求めてはいない。

 戦争の結果として移動し、それが国際的に承認された国境線を再び移動させようとすれば、深刻な利害の対立を引き起こさざるをえず、国家間の対立を生み、新たな戦争の危機を生じるからである。
 ヨーロッパのほとんどの国が、戦争によって何度も国境線の移動を経験している。
 第二次世界大戦の結果として成立した国境線を強引に移動させようとすれば、旧ユーゴスラビア内戦が全ヨーロッパ化するであろう。

 たとえばポーランドとドイツとの間で、旧東プロイセンに現在生活している多数のドイツ系市民がドイツへの帰属=返還を要求して大衆的運動を開始したとしよう。それ自身は民族自決権に基づく要求であるということもできる。
 しかしそこにはドイツ系少数民族だけが暮らしているのではない。にもかかわらずドイツ政府がこの要求を積極的に取り上げ、ポーランド政府に「返還」を迫り、ドイツ系住民の運動が激化していったとすれば、どのような悲劇が起こるかということを、われわれは旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナやコソボをめぐる内戦で知らされたばかりである。

 ましてやいわゆる「北方領土」とされている南クリル諸島には「日本への帰属」を要求するロシア国籍の日系住民などまったく存在していない。
 それは民族自決権の要求ですらない、単なる敗戦帝国主義の「失地回復」要求なのである。

 現在、ドイツで東プロイセンの返還を要求しているのは、極右ファシスト勢力の一部だけである。「北方領土」返還要求なるものは、そもそもこのようなものなのである。

 言うまでもなくわれわれは、第二次大戦の結果として形成された国境線を絶対的なものとして無条件に固定化すべきだと主張しているわけではない。
 われわれがめざすのは民衆の国際主義的連帯のもとで多民族の文化が共存する国境のない世界であるからだ。
 そして「北方領土」返還要求は、そのような国際主義的連帯に敵対し破壊する反動的役割を果たし続けてきたのである。

■返還要求に国際法的根拠はない

 「北方領土」返還要求は、そもそも国際法的に成立しない要求である。
 十五年にわたる残虐な侵略戦争を行った日本帝国主義は、ヤルタ協定に基づいて「日本国の領土は本州、北海道、九州および四国ならびにわれらの決定する諸小島に局限せらるべし」と規定したポツダム宣言を受け入れて、無条件降伏した。

 四六年一月二十九日、連合国マッカーサー司令部は「クリル(千島)列島、ハボマイ諸島、シコタン島」を日本の行政地域から分離する訓令を発し、三日後の二月二日にソ連邦は最高会議幹部会で南サハリン(樺太)とクリル諸島をロシア共和国ハバロフスク州に編入した。

 そもそもこの措置は、ルーズベルトがソ連を対日参戦に同意させるために提案したことに基づくものであり、ヤルタ協定締結の前提でもあった。
 したがって、アメリカをはじめとする連合国からはどのような異義申し立てもなかった。
 もちろん日本政府も、どのような抗議も反対意見の留保もしなかった。

 クリル諸島、ハボマイ、シコタンをソ連邦がロシア共和国に編入した事実を前提にして、日本は一九五一年九月八日、サンフランシスコ平和条約に調印した。
 サンフランシスコ平和条約には「日本国は、千島列島ならびに日本国が一九〇五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部およびこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と、一切のあいまいさも許さずに記されている。

 当時の首相吉田茂は国会での講和条約妥結についての報告で「樺太、千島、台湾などの領域に対してすべての権利、権原、請求権を放棄した」と強調している。
 「請求権を放棄した」ということは「返してくれ」ということもできないということである。

 すなわち、クナシリ、エトロフをふくむクリル諸島(千島列島)の帰属は国際法的に確立したことであって、いわゆる「北方領土」返還要求は、いわば「台湾は日本のものだから返せ」ということに等しい途方もないものであり、サンフランシスコ平和条約破棄を要求することと等しいものなのである。

 ただ、ハボマイとシコタンについては、講和条約交渉のなかで日本側から「放棄した千島列島の中には含まれず、北海道の一部である」という主張が出されていた。
 しかし講和交渉の米側全権ダレスが千島列島に含まれないと指摘したのはハボマイだけだった。

 すなわち、かろうじてソ連邦との争点になる可能性が残されていたのは、このハボマイ、シコタンだけだった。

 クナシリとエトロフの両島が、日本がサンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」そのものであったことは、五一年十月の西村条約局長の有名な国会答弁でもはっきり確認されている。

 また、その後の一時期に広められた
   「クナシリ、エトロフ(南千島)は千島ではない。したがって両島はサンフランシ
    スコ平和条約で放棄した千島に含まれず、日本には返還を要求する権利がある」
という主張は、米ソ対立の激化のなかで米国務省が一九五七年に打ち出した対ソ書簡の内容に添って、池田内閣が六一年に突然持ち出したものである。

 しかしそれは、条約に調印したときには千島列島がどこからどこまでなのか日本側のだれも知らなかったという珍妙な主張であり、地理学的にも歴史学的にも何の根拠もないものである。

 歴史学者にこの誤りを全面的に指摘された自民党政府は、八八年以降「クナシリ、エトロフは千島ではない」という珍説を展開できなくなった。
 しかし自民党政府は、国際法的に「請求権」も放棄したことが確認されている土地を「なんでもいいから返せ」「とにかく返せ」という、地上げ屋でさえ赤面するようなごり押しを続けてきたのである。
                       (続く)
引用なし
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◇「かけはし」論文紹介(2)北方領土と米帝の策略、「失地回復」加担の日本共産党
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 戸田 E-MAILWEB  - 09/1/1(木) 0:54 -
  
■日米軍事体制強化のための策略

 このような、国際法的に根拠のない「北方領土」返還要求は、四九年中国革命の勝利、ベトナム革命の前進、五〇年朝鮮戦争という形で激化していった国際的な帝国主義と反帝国主義の対決の構造のなかで、日本社会に反ソ反共意識を植えつけ、日本をアジアにおける軍事拠点として形成しようとするアメリカ帝国主義の主導で形成されたものである。

 アメリカ帝国主義は、講和の際にクリル諸島を日本に放棄させ、ソ連に引き渡したことを、激化する「東西冷戦」のなかで深く後悔し、ロシア共和国が編入してから九年も経った五四年になって「ハボマイはクリル諸島の一部ではない」として抗議し始めた。

 しかしまだクナシリ、エトロフ、シコタンについては自ら主導したヤルタ協定とサンフランシスコ平和条約の建前上、ソ連による領有が国際法的に確認されていることに異義を差し挟むことはできなかったのである。

 アメリカ帝国主義は、たとえハボマイだけだったとしても、ソ連邦がそれを手放すとはまったく考えていなかった。
 この主張は、日ソ間に争いの種をまき、日ソ交渉が始まった時に日本に「領土問題」で強硬姿勢をとらせて、平和条約の妥結を妨げるための策略であった。

 五五年にロンドンで行われた日ソ国交回復交渉の際、日本側の松本全権に与えられていた訓令はハボマイとシコタンの獲得を妥結の条件とするというものだった。
 この二島の返還を条件にすれば、ソ連側が妥結を拒否するだろうと考えていたのである。

 ところが、平和外交を打ち出しつつあったフルシチョフは、あっさりと二島返還に応じてしまった。このためあわてふためいた外務省が打ち出したのが、クナシリ、エトロフを含む「四島返還」論であった。

 五六年四月、重光外相が訪ソし、モスクワで平和条約交渉が再会された。
 重光は二島返還での平和条約調印に傾いたが、アメリカ帝国主義と日本政府は絶対にそれを認めようとはしなかった。

 米国務長官ダレスは重光に「二島返還での妥結は絶対に認めない」、「もし日本がクナシリとエトロフのソ連帰属を認めるなら、アメリカも沖縄を併合できる」と脅迫した。
 外交史上有名な「ダレスの恫喝(どうかつ)」である。

 同年十月からの第二次モスクワ交渉で、領土問題を後回しにした日ソ共同宣言の調印によって国交は回復し、ソ連が賛成に回ることで日本の国連加盟が実現した。
 日ソ共同宣言は「領土問題」について「ソ連は歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)両島を日本に引き渡すことに同意し、平和条約締結後に現実に引き渡される」と述べていた。

 このような流れに対して米政府は、五七年五月のソ連への書簡で「ヤルタ協定でもサンフランシスコ平和条約でも、クリル諸島にはハボマイ・シコタンはもちろん、クナシリ、エトロフも含まれていなかった」という新解釈を打ち出し、したがってソ連による四島領有は不当である、と主張し始めた。

 ソ連邦は、このようなアメリカ帝国主義の挑発と六〇年安保闘争をめぐる日本政府の姿勢に不信感を強めていった。そして五六年日ソ共同宣言で打ち出された二島返還には、在日米軍基地の撤去が必要という条件をつけ、六一年には「領土問題は解決済み」という姿勢に戻ってしまった。

 このようなソ連邦の態度の変化は、六〇年安保闘争で爆発的に燃え広がった反米的意識に水をさすために、むしろ好都合であった。反米的気分を沈静化するためには、反ソ的気分を作り出すことが最も手っ取り早かったからである。

 ソ連が日ソ共同宣言に基づいて平和条約に調印し、ハボマイとシコタンを日本に引き渡し、それによって日ソ友好的状況が生じたとすれば、自民党政府は反ソ・反共宣伝の最大のテコを失うことを意味したであろう。

 平和条約調印となれば、そこで国境は確定する。
 そうなれば「ソ連が日本固有の領土を理不尽にも占領している」という反ソ・反共宣伝は不可能になる。

 そしてそれは「北方領土を不当に占領しているソ連の北からの脅威」なるものを口実に推し進められてきた大軍拡の根拠を事実上、失うことを意味したであろう。
 陸上自衛隊の主力は、「ソ連軍の北からの脅威に備える」という名目で、一貫して北海道に置かれてきたのである。

 自民党政府は、国際法的根拠もない「北方領土」返還要求をソ連邦が受け入れるはずがないと考えており、「北方領土問題」の解決を実際に展望していたわけではなかった。
 必要なことは当面、「未解決状態の持続」であり、「全国民的悲願」として「北方領土問題」を打ち出し続けることであり、それをシンボルにすることによってソ連邦への反感と「ソ連の脅威」をあおり、そのような気分を日米安保体制の強化と自衛隊の大軍拡に利用し続けることであった。

 「未解決」のままであり続ける「北方領土問題」は、軍事費が世界第二位になるほどの大軍拡と安保体制強化のための策略であった。

 そしてこのアメリカ帝国主義の軍事戦略と一体となった自民党政府の「北方領土返還要求」に、「全千島返還要求」を掲げることによってさらに右側から協力してきたのが、中国官僚の反ソ親帝路線と一体となった毛沢東派であり、日本社会党、日本共産党であった。

■「失地回復」に加担する日本共産党

 九一年のソ連邦崩壊によって、「北方領土」問題をめぐる情勢は根本的に変化した。
 アメリカ帝国主義にとって日ロの対立をかきたて続ける必要はなくなった。
 資本のグローバリゼーションと多国籍資本の世界支配にとって、市場経済化で崩壊したロシア経済を建てなおすとともに、極東における政治的不安定要因を取り除くために、日本に協力させるほうがよい。米政府はこのように考えている。

 橋本のイニシアチブとして宣伝された九七年十一月のクラスノヤルスク会談も、同年六月のデンバーサミットでクリントンが橋本とエリツィンに働きかけたものである。
 そしてそこでクリントンは、「領土問題」で日本の立場を支持することなく中立的姿勢をとった。
 すなわち、東西対立の激化のなかでアメリカ帝国主義が自らの反ソ戦略のために作り出した「北方領土問題」は、その政治的役割を終えたのである。

 残されたのは、国際法的根拠のない「固有の領土」論に基づく日本帝国主義の領土的野心だけであり、ふくれあがったのは「ソ連が崩壊して、ロシアは政治的にも経済的にも弱体化した。いよいよ四島が手に入るかもしれない」という火事場泥棒的な心情であった。

 日本共産党はこの問題をめぐって、アメリカ帝国主義と歴代自民党政府の反動的要求をさらに右から批判することによって、結果として自分たちが全力で反対しているはずの日米安保体制の強化を支持する大衆的基盤の形成に手を貸すという、きわめて不名誉な役割を果たしてきた。

 今回のプーチン来日と日ロ首脳会談についても、これまでとまったく同様に、「全千島返還要求」の立場から日本政府の「一方的な譲歩」を糾弾するという態度を続けている。
 日本共産党はこの間、ソ連を対日参戦させるために「千島列島(クリル諸島)をソ連に引き渡す」と定めたヤルタ協定は不当である、と強調している。

 そしてサンフランシスコ平和条約のなかの「千島列島の主権放棄」に関わる部分を廃棄すべきだと主張している。

 われわれは、対日参戦をめぐるルーズベルトとスターリンの取引を正当化しようとは思わない。

 しかし日本帝国主義が凶暴な侵略戦争を行い、それに敗北した結果として、朝鮮、台湾をはじめとするすべての植民地を失い、千島列島を失ったことは事実であり、サンフランシスコ平和条約に調印したことによって改めてそれらに対する「すべての権利、権原、請求権を放棄した」ことを自ら認めたこともまた、動かしがたい事実である。
 そして現にクリル諸島に住むロシア人が日本への帰属を要求しているわけではない。

 すなわち、日本共産党の要求は、敗戦帝国主義の単なる「失地回復」要求を代弁するものに過ぎないのである。

 民族主義と国家主義をあおりたてる帝国主義の「失地回復要求」が、労働者人民の国際主義的団結を妨げるものであることは、まさにそのために展開されてきた「北方領土」返還要求運動の歴史的経過そのものが余すところなく実証してきた。
 帝国主義的民族主義の一切のあらわれと決別することが必要である。

 日本共産党不破委員長が、「千島列島は日本の領土」いう自らの主張の「歴史的証拠」として「そこが日本の植民地といえる」というゴロウニンの『日本幽囚記』の一節を引用していることも指摘しておかなければならない(「前衛」90年12月号特集「日ソ領土問題の公正な解決を」)。

 不破は、「日本の植民地」であったから「全千島は日本の領土である」と言いたいのである。
 それは、江戸幕府や明治政府が「アイヌ人は、あまりに残酷な支配のために日本人を恨み、ロシア人の愛情に満ちた態度を尊敬している」(一八六九年、明治政府の蝦夷地開拓についての「御下問書」など)として、アイヌ人がロシア側についてしまうのではないかと心配するほど苛酷であった日本の植民地支配を正当化するものに他ならない。
 それは、文字通りの帝国主義的植民者の論理である。

 先に指摘したように、ドイツは侵略戦争に敗北した結果として旧東プロイセンをポーランドとソ連に分割された。
 日本共産党の論理からすると、ドイツ・シュレーダー政権はポーランドとロシアに東プロイセンを返せ、と要求すべきだということになる。

 そしてもしこのようなとんでもない主張をすれば、「シュレーダー政権はとうとうファシストの報復主義に取りつかれた」と国際的にも国内的にも評価され、オーストリア自由党ハイダーの政権参加をめぐって全ヨーロッパで爆発した「ファシズム反対」の闘いをはるかに上回る闘いに包囲されるだろう。

 このような主張は現在、一部の確信的ファシストだけのものでしかないからである。
 われわれは日本共産党に対して、このような反動的要求を撤回するよう要求する。

■国際主義的連帯の強化のために

 資本のグローバリゼーションの進行のなかで、一国的政策の有効性が失われ、既成政治支配体制の空洞化も洋の東西を問わず進行している。
 既成政治の統合力が衰退し、遠心化が強まっていく時、国家主義的国民統合を強化するために「領土問題」ほど都合の良いものはないし、外国人労働者を敵視する石原の暴言や「防災」に名を借りた治安出動演習が示したように、民族排外主義ほど都合の良いものはない。
 これは、ロシア・プーチン政権が、独立を求めるチェチェン民衆に対する戦争で強硬な姿勢を貫いたことで支持基盤を強化したことによって、典型的に示された。

 今日、社会主義革命運動の世界的再生をめざす勢力にとって最大の課題は、「規制緩和」の名のもとにむきだしの資本の支配を押しつける新自由主義と対決する階級的闘いを登場させることである。

 そしてその闘いが多国籍資本の支配と有効に対決するためには、徹底的に国際主義的な精神が必要であり、WTOシアトル会議粉砕闘争のような、現実に国境を超える共同闘争をさらに発展させることが求められている。

 労働者の国際主義的連帯を強化するためには、日本帝国主義の領土的野心や「失地回復」要求と闘わなければならない。

 ロシアの労働者は、全面的資本主義化の混乱のなかで破局的状況を深める経済危機に直面し、生活と権利を守るための困難な闘いを続けている。
 日本帝国主義の領土割譲要求は、このようなロシア労働者の闘いをプーチン政権や反動的民族主義勢力のほうへ容易に押しやってしまうだろう。

 われわれは、「北方領土返還要求」に国際法的根拠がないこと、それはネオナチなどファシストの報復主義的要求と同様の帝国主義的「失地回復要求」に他ならないことを指摘し、そしてそれが果たしてきた極めて反動的役割について指摘しつつ、政府および日本共産党も含む推進勢力に対してその反動的要求の撤回を求めて闘わなければならない。

 ソ連邦およびその後継国家としてのロシアとの間で、戦後五十五年も平和条約が結ばれてこなかったという異常事態の最大の原因は、米政府とそれに指示された日本政府が日ソ間の対立をあおる策略として、国際法的根拠のない「北方領土」問題を捏造し、持ち出したためであることは、歴史的事実によってはっきりしている。

 少なくとも、「ダレスの恫喝」がなければ、今回の日ロ首脳会談でもその有効性が確認された五六年の日ソ共同宣言に基づいて、ハボマイとシコタンを日本に引き渡すことで平和条約が締結され、そこで「国境線」も引かれていたはずである。

 われわれは、日本の「領土」が拡大し、日米協同作戦体制が排他的に貫徹される領域が拡大されることに反対する。
 したがってわれわれは、四島がロシアに帰属したままで日ロ平和条約が締結されるべきだと主張する。

 しかし、締結されるであろう平和条約が、繰り返し双方によって有効性が確認されている五六年の日ソ共同宣言になる可能性があることは否定できないであろう。
 ただしその場合われわれは、
   第一に二島に現に暮らすロシア住民の生活と権利とその意志が最大限に尊重される
     べきこと、
   第二に二島の非武装化が徹底的に追求されるべきこと、
   第三に平和条約締結にあたって、二島、あるいは四島にとどまらずクリル諸島全域
     で、水産資源や山林・地下資源の一定の割合での占有権や自由往来権などのア
     イヌ民族の先住権が認められるべきである
ことを強く主張する。

 もちろんアイヌ民族の先住権は、北海道においても認められなければならない。
「旧島民」が受けた被害は、アジアの戦争被害者が受けた戦争被害に対する戦後補償を日本政府が誠実に実行するなかで、償われるべきであろう。
 労働者人民の国境を超えた国際主義的連帯を強化・拡大することこそが必要である。
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引用なし
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