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JRA関連:その生成から消滅、革命新党結成の挫折(「オリーブの樹」等から) 戸田 08/3/9(日) 3:13
■JRA解散についての見解:丸岡氏、和光氏、浴田氏、戸平氏、その他から 戸田 08/3/9(日) 3:51
◆戸田から和光晴生さんへの5/10書簡:革命派軍人24年からの情報発信を期待します 戸田 08/5/28(水) 7:06
★和光氏大特集の「図書新聞」が和光氏依頼で送られてきたのでHPアップしたよ! 戸田 09/2/23(月) 14:16
●和光さんからの電報で10/27上告棄却・無期懲役確定を知る。前日発送の手紙も受領 戸田 09/11/1(日) 6:50

JRA関連:その生成から消滅、革命新党結成の挫折(「オリーブの樹」等から)
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 戸田 E-MAILWEB  - 08/3/9(日) 3:13 -
  
★どういう風の吹き回しかは知らず、JRA(Japanese Red Army=日本赤軍)に関する
 スレッドを「趣味的に」立ててみた。
  参照したのは、戸田も定期購読している重信房子氏救援通信「オリーブの樹」など。

  最近知ったが、「重信房子さんを支える会」のHPがあるんだね。
       http://www.geocities.co.jp/setfreemarian/index.html
  このHPには例えば、「日本赤軍の歩み─闘いの路線的なとらえ返しとして」なんて
 いいう貴重な当事者論考も載っていたりする。
       http://www.geocities.co.jp/setfreemarian/JRAHistry.html
  ただ、このHPには「第4回控訴審出廷記2007年10/4」あたりまでの情報までしか
 まだ載っていないようだ。今後に注目しよう。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■「新党結成」に挫折した革命党派の1例〜JRA(Japanese Red Army=日本赤軍)
               (重信房子氏救援通信「オリーブの樹」抜粋などから)

1974年 JRA結成・・・・2001年獄中の重信氏により「解散宣言」なされる。
  (72年5・30リッダ闘争は「JRAの闘い」と伝説化されたが、実は「PFLP指揮
   での日本人義勇兵有志によるPFLPの闘い」であって、72年時点ではJRAは全
   く存在せず日本人の個人やグループが存在していただけ。JRAの結成は1974年秋
   になってから。JRAの党綱領の確定は81年末。)

■JRAからの再編新党として、91年に国内部分も含む「人民革命党」を結成したと言わ
 れているが、国内生潜入で国内に組織主軸を移した(移さざるを得なくなって)ばかり
 の段階(?)での2000年重信氏逮捕で、こちらも消滅に至ったものと思われる。

(重信氏記述)今から捉え返すと、
 ・「党中心」である限り、民主主義は「戦術」としてしか機能しないことを自覚的に捉
  えていなかった。
 ●「党もまた自らが民主主義を例外なく問われる」事に無自覚だった。
 ●党形成を「建軍」の体系で行なう事の問題点に無自覚。
    ・少数精鋭の党 ・「建軍建党路線」

 ◆国内の(地域における社会変革を環とする)闘いの広がりに応えうる「党形成」は、
  決して軍事的要素を要求していなかったにも拘わらず、国内の実情を無視した狭い非
  合法主義的な闘い方を良しとしてしまった。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
        経過

1:1982年6/4開始の「レバノン戦争」(イスラエルのレバノン侵略・ベイルート占領)
  以前の楽観的状況三里塚や内ゲバなどの国内の運動状況への問題提起を通信(日本
  語版:人民通信、英語版SOLIDARIYTY)を通じて行ない、またアラブレベルでも世界
  レベルでもPLOと共にJRAとして政治交渉を展開。
  
2:英文機関紙なども含めて政治交流・国際連帯は多方面に広がり、共同の活動に多大な
 力を尽くした。 
  反米反帝統一戦線の様々なレベルの共同を模索。ML主義による国際革命協議会、
 民族主義や宗派勢力との反帝共同。

3:国内に対しては、「生活レベルの共闘から軍国主義化と闘う反帝統一戦線を作り出
 す」政治方針。「人民通信」、「日本革命家の任務」などを日本で発行した。

4:我々は「80年代初頭20年から25年かけて、いつでも闘い抜ける勝利の体制と陣形を
 作る」と決定した。

 ★「80年代10ヶ年計画」★               

 第1次2ヶ年計画:思想一致を政治一致として組確立を果たす」〜綱領・規約・政策を
          決定していく。
 第2次2ヶ年計画:綱領路線に基づいて国内共同を拡大していく。国内情宣拡大、反帝
          潮流拡大。
 第3次2ヶ年計画:自らの兵站・経済的自立基盤の強化を目指す。
 第4次2ヶ年計画:情宣・組織化など国内の政治活動を在外が支援していくことを目指
          す。
 第5次2ヶ年計画:国内の革命党母体を形成することによって、在外は国際任務を中心
          に担っていく。

5:「自らの教訓と総括を返していけば国内の指導勢力の統一の条件ができる」という主
  観的で安易な希望。
  しかし、「無謬の党」観を否定した新しい団結を求めた点で、国内との交流が広がり
  可能性が広がった。

6:70年代総括から「民主主義の徹底こそが社会主義を育てる」という「反帝民主主義路
 線」に転化。 武装闘争を安易にエスカレートさせた面を反省。

  欧州では70年代前半は新左翼運動の中から出た武装闘争盛んだったが、78年モロ首
 相拉致暗殺事件(イタリア)を契機に批判高まる。
  一方、人権・環境・民主主義を市民社会の内部に作り上げていく闘いが60年代末から
 拡大し、「緑」派を中心に新左翼・社民党青年・共産党若手にも広がり、行き詰まり的
 な武装闘争路線を70年代後半には完全に凌駕。

7:今から捉え返すと、
 ・「党中心」である限り、民主主義は「戦術」としてしか機能しないことを自覚的に捉
  えていなかった。

 ●「党もまた自らが民主主義を例外なく問われる」事に無自覚だった。
  JRAの「民主主義」も理念の解説に過ぎず、「民主主義を自らに適用しきれない」
  非合法実体のまま。
           ・・・・こうして1982年のイスラエルによる6/4侵略を迎えた。

8:82年「5/30アピール:反核・軍縮の闘いを共に」〜武装闘争路線の限界認識の地平で
 統一戦線の原則提起。
  既に人民革命の中に武装闘争の位置づけの転換をし人民性のない闘いを否定してい
 た。
  武装闘争で解決できる領域は大きくなく、民衆の支持のない所では意味を持たない事
 を学んだ。日本国憲法9条の価値を再確認。

 ▲統一戦線の原則を提起(政治党派に対して)▲

 (1) 無条件に「第1の敵」に対して結束。統一戦線結成段階においても政権樹立段階
   においても。
 (2) 内容・方法の違いによって排除してはならない。多種多様な方法を有機的なひと
   つの力とする。
 (3) 生活・生産の現場を基礎に共同行動と運動の実体を作り上げる。
 (4) 統一戦線結成では量的結合が問われるべきで、広ければ広いほどよく、多様性の
   中でこそ党は鍛えられる。
 (5) 党は運動の統一に力を注ぎ、一方で独自の計画と戦術・物質力量を形成し革命的
   展開力を育てる。

9:82年のイスラエルのレバノン占領以降、JRAのとって国際的に合法公然の政治活動は
 逆に広がった。
   PLOのもとにパレスチナ日本人民連帯が育つことを支援。一例として「東京法廷」
 の実現。
  82年ベイルート撤退〜84年ベイルート解放〜85年岡本同志を含む政治犯の解放帰還
   ・・・中東で反帝統一戦線を作り上げる人々の希望のシンボルだった。

10:国内独自の政治戦線の必要性〜「10大憲章」に基づく組織形勢の試み

 ★「考え方のポイントで一致した人々」で組織していく事、「新しいサークル的な拠点
  のネットワーク形成」を目指した。(「党」ではなく、「大衆運動」でもなく)
 ・非政治的な事を含めた社会運動を地域を基盤として行ない、生活の場を闘いの場とし
  て社会革命を目指す。
 
 ・10大憲章を基礎の闘う国内の政治にJRAも呼応する方向で80〜90年代を闘ったが、
  JRAが非合法化された中で闘ったために、広がりを作り得なかった。

  ◆「10大憲章」(我々の立場)◆
 1. 「自分を変えること無しに世界もまた変え得ない。自分も変わらなければ勝てな
   い」という認識を出発点として、現実の生活の場から自らの闘いを組織する。
 2. 世界中の平和と進歩を求めている人々と共に進み、日本の侵略政策に対する闘いを
   通して、世界的な反帝の闘いに共同する日本の拠点として、闘いを組織する。

 3. 反帝と民主主義の徹底を通して、人民本意の日本の進路・政治・経済・社会を育成
   する場として、闘いを組織する。
 4. 憲法改悪阻止を要に、反軍拡、差別と排外主義との闘いを進め、反帝・民主の意志
   を持つ人々の闘いを統一した力へと結集させる闘いを組織する。

 5. 「人民本意の立場から、人民第1、人民と共に」を合い言葉に、個別のあらゆる勢
   力を認め、共同する立場に立ち、全局に有利な闘いを実現するために闘いを組織す
   る。
 6. あれこれの理由で排除せず、目標において無条件に共同する立場を統一戦線に対す
   る立場とし、その形成と発展を闘い抜く場として、闘いを組織する。

 7. 国際・国内の公妨の現実の中で、全局にとって有利な闘いを闘うために、その方法
   を示す宣伝扇動の役割を闘いとして担う。
 8. 「総括を力に、自己変革をバネに、共感を土台に」、を我々の活動基準として、
   闘いを組織する。

 9. 自分たちの生活の場を闘いの場とし、自分たちの意志と力を土台とする。下からの
   主体的な闘いの結束として闘いを組織する。
 10. 政治的・非政治的なあらゆる問題の困難を出し合い、本音を言い合い、人と人の関
   係を何よりも重視し、あらゆる運動と交流しあうことによって、闘いを組織する。

11:「陣地線戦略」と「建軍建党路線」、「5つの戦略的観点」

 ・現代は、恐慌や経済危機が帝国主義戦争をもたらさない相互依存体制にある。
 ・日本で一挙的な蜂起や地理的なゲリラ戦による革命はあり得ない。 
 ・「生産点におけるゼネスト=革命」も高度経済成長・分配享受の現下の特殊条件の下
   ではあり得ない。(当時)
 ・人間の疎外は生産・労働の場のみならず消費生活の場・家庭・地域にも集中して現れ
  ている。
        ↓↓↓
  @人民の地域・生活の場こそ「革命の陣地」として成熟しうる。
   「自治・自決・自立」の地域の闘いを社会革命の戦略的要と規定した。

 ★「5つの戦略的観点」★
 1. (主導性)戦争や恐慌による混乱を待つ受動性でなく、主導的な反帝社会主義革命
 2. (思想的結束)ものの見方・考え方における結束。下から横への自治連帯など。
 3. (陣地線)地域人民の権力母体を育成するよう闘う
 4. (ゲリラ戦)敵の弱い所から叩いていき、敵の解体を目指す。
 5. (国際主義)国際的な連携、日本の地理条件を活かして闘う。

12:今から見た反省点

  ●「権力奪取」を安易に、力学的に措定する主観的・観念的傾向。
  ●党形成を「建軍」の体系で行なう事の問題点に無自覚。
   ・少数精鋭の党 ・「建軍建党路線」
   ・「軍事政治経験を経て党員資格を持つ」という軍事指揮体系を党形成全般拡大
    した。
   ・「軍事を担う」事に他の政治活動よりも価値を置くような、旧い考え方を混在
    させた。

 ●「建軍建党路線」は中東での「内戦の恒常的戦場」という当時の特殊条件下では力に
  なり得たが、「党組織」形成の組織方法に適用する事によって、運動的広がりを損な
  った。
   国内の(地域における社会変革を環とする)闘いの広がりに応えうる「党形成」
  は、決して軍事的要素を要求していなかったにも拘わらず、国内の実情を無視した
  狭い非合法主義的な闘い方を良しとしてしまった。

  ・党員が軍事経験を持つ事・党に政治軍事力量を備えさせる事と、党そのものを軍事
   的体系において統合する事とは違うはずなのに、それを混同していた。
    (赤軍派時代からの過ちのひきずり)
  (第3世界の人民党争においては、武装闘争と民主主義や平和は対立していないが)

12:★「人民革命党」としての再生(党再建)の試み
                     (90年初頭、国内を母体とした党形成)

 ◆1991年(80年代の「11ヶ年計画」終了の新しい体制で)、「日本赤軍」から「党」へ
  の転換を目指した。
  「これまで共同してきた人々」と共に「党」の創立を行なう。
        ↓↓↓
   ※「人民革命党」(90年代中期頃に設立と推測される。→2000年末重信氏逮捕でそ
     の党名が浮上。
    2001年4月の重信氏の獄中からの「日本赤軍解散宣言」で、「人民革命党」も解
    散したものと見なされている。

 ●80年代後半からのJRAの条件悪化
  1. 非公然陣形が持ちにくくなった。武力・兵站・身分証など「革命の衣食住」が困
    難になった。  社会主義東欧諸国でも、やがてアラブ圏でも。
  2. アラブ圏での政治宣伝活動すら難しくなった。
     (政治見解は日本国内発行に切り替え)
  3. 自らの存在が民主主義の一翼を担う合法性を持ち得ないため、「民主主義の徹
    底・実現」という政治主張が「理念の表明」に過ぎず、JRAの存在自身が自ら
    の主張する人民革命路線の桎梏になってしまった。
 
  ・・・公明正大に語るべき政治部隊を作れずに来てしまった。

 ● 「民主主義の実現」という国内での闘いのあり方と、(JRA―人民革命党の「軍事
  体系の下での主体形成」という矛盾。
   JRA(&人民革命党?)の解散消滅に関して
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引用なし
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■JRA解散についての見解:丸岡氏、和光氏、浴田氏、戸平氏、その他から
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 戸田 E-MAILWEB  - 08/3/9(日) 3:51 -
  
★丸岡 修 氏/2001年7月28日:日本赤軍」の解散について
         (大幅抜粋にて。全文はhttp://www.jimmin.com/2001b/page_029.htm

 私自身の1987年の被逮捕の教訓として、「順調に計画が進んでいくうちに、公安当局
の力を過小評価するようになり、最悪事態に備えた活動ができていなかった」があった。・・・
 今回は、私たちの初歩的な誤りから無関係の人々へのガサですら、敵に口実を与える
物が多く押収されている。そのことに敏感な同志だったのに、どうしてかと思う。

 1995〜97年にかけて世界各地で多くの同志たち(党員及び非党員)が拘束された。
 ・・・・・「他人の失敗を他人事とせず、自身の戒めとせよ」、「白色地区で赤色地区
と同じような活動をすることは許されない。白色地区でフロッピディスクに重要文書を
残すなど言語道断である。同じ誤りを繰り返すならば、我々は革命組織の看板を降ろすし
かない」等。
 その誤りを繰り返した。
 正に、革命組織の看板を降ろすしかないのである。

 誤りの第二は、使ってはならない手段をとってしまったことである。

 それは、入院「障害者」の身分利用である。重信自身は知らなかったようではあるが、
少なくとも担当者は知っていたのであり、それは取りも直さず個人の責任というより、
私たち組織全体の責任である。
 むろん、代表である以上、重信自身の責任も逃れえない。

 「人民性を党性とする」、「党は人民(の闘い)を支援する」等は、「赤」の口先だけの建前ではなく、実践のモットーであるはずだ。その基準が同志1人1人に徹底されていたならば、使っていいか悪いかの答えは明白。

 党員1人1人の行動に示される判断基準が、組織の思想を示す。
 そうである以上、「赤」自身がその存在意義を自ら否定する行動をとったという1点に
おいても、私たちに残された道は解党的出直ししかあり得ない。

 すでに組織としては、レバノンで拘束された同志たちが帰国させられた昨年の3月以前
から、「武闘停止の表明、名称変更、公然化」を決定していた。
・・・重信によれば今年(2001年)の春に宣言する予定であった。
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◆和光晴生氏の見解
 (初期にJRAに加入したが若干年で意見が合わずに離党し、「単独コマンド」として
  パレスチナ解放闘争に従事。JRA離党は伏せる事を双方で合意していたが、2000年
  の「レバノンからのJRA5名強制送還」―投獄を機に事情を公表。
                JRAに厳しい批判を数々公表している。)

・・・かつてヨーロッパでの商社員誘拐未遂だとか、大使館占拠や飛行機乗っ取りとか、数件の人質作戦を実行してきた組織には、やはり反社会的・反人民的性格があったのだと真剣かつ深刻にとらえ返すべきです。
 重信さん逮捕の折りには障害者の方の名義を盗用して旅券を取得していたことも露顕しました。

 旧「日本赤軍」は非公然・非合法の組織であり、秘密主義の閉鎖的な共同体集団でした。
 そこには当然ながら組織に忠誠を尽くそうとすることが、社会に対しては不実であっても構わないとする集団エゴが形成されていたものとみなさなければなりません。

 ・・・・「リッダ闘争」やら「パレスチナ連帯」やら「革命組織」やらの看板をとっぱらったら一体ナンボのものとしてあるのか、ということになります。

 それに加えて、旧「日本赤軍」の総括は二〇〇一年五月の解散宣言以降、何ら深化が見られません。裁判中は総括論議はやらず、早期出所をめざす、というようなことも語られたりしていたようです。
 結果として、裁判闘争自体が思想的にも倫理的にも弛緩してしまっていたのではないか、という疑問も生じます。

 私自身心がけてきたことですが、裁判では検事よりも激しく自らを問い、裁判官よりも厳しく自らを裁く、そのような姿勢なくして裁判闘争への適正な方針は成立しません。

 私たちは実にみっともない集団であると、はっきり認める必要があります。
 そこから総括にせよ、裁判にせよ、取り組み方を建て直すことを旧「日本赤軍」の各位
に呼びかけます。
   ――――――――――――――――――――――
◎「4・14集会」名称と個人名での「解散宣言」とに対する疑問
  「民主主義」を唱えるにとどめず、日々の活動・行動での実践を
 和光晴生 2001年 5月15日     http://www.jimmin.com/2001a/page_003.htm

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●日本警察発表

 また、重信房子の逮捕に伴い押収した資料を分析した結果、日本赤軍は、平成3年
(1991年)8月にマルクス・レーニン主義による日本革命及び世界革命を目的とした
「人民革命党」を設立していたことが判明し、その党内には、軍事機関を設けるなど引き
続き軍事路線を堅持しており、その主張も日本赤軍と同一であることが分かりました。

          ※どこまでが事実でどこからが権力の情報操作かは不明
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆浴田由紀子氏(JRA 獄中)
  「歴史的総括へ 多くの人々の活発な論議を!」を受けて(上)
               http://www.jimmin.com/2001b/page_049.htm
  「歴史的総括へ 多くの人々の活発な論議を!」を受けて (下)
               http://www.jimmin.com/2001b/page_065.htm
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆戸平和夫氏(元日本赤軍メンバー。出獄)人民新聞編集部からの批判にこたえて
      http://www.jimmin.com/2001b/page_006.htm
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★重信房子氏 編集部からの問題提起に応えて 人民新聞のみなさんへ
      再び11月8日を迎えて/ 2001年 11月25日
       http://www.jimmin.com/2001b/page_120.htm
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引用なし
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◆戸田から和光晴生さんへの5/10書簡:革命派軍人24年からの情報発信を期待します
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 戸田 E-MAILWEB  - 08/5/28(水) 7:06 -
  
 戸田が5/10に東京拘置所内の和光晴生さんに出した手紙を公表します。
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 和光さんへ。
 1月10日発信の手紙を受け取って返事を書こうと思っていながら遅れまくって、もう
5月中旬に入ってしまった事をお詫びします。上告棄却になっていない事を祈念しつつ手
紙と各種資料を送付させていただきます。
      
 資料の方は、私の議員活動やHP活動を示すもの4冊と、連帯ユニオン関係のパンフ
4冊、4/13シンポ報告集1部をまとめて送りました。身辺整理の邪魔になるかもしれませんが、現在の社会状況の一端を伝えるものとして、できましたらご覧下さい。
     
 和光さんの救援会資料に示された和光さんの文章、大変興味深く読みました。パレスチナに「一味同心」する革命派軍人として、非常に決然として渋い生き方を選択された方だと思います。

 重信さん達日本赤軍に辛辣な批判をする事について眉をひそめる方々もいるようですが、事実は事実として、また最も身近で接してきた者であるが故に抱いた評価は評価として、新たな権力弾圧を招く具体的な材料でない限りは、社会変革を求める内外の人民が共有すべき情報や教訓として公に論じられる方が望ましい、と私は思います。
     
 そういう意味で、発信制限がいろいろあるでしょうけれども、和光さんの活発な発信を期待します。

 また、もうひとつ和光さんにしかできない情報発信として、革命派軍人としての24年に及ぶ体験からする軍事技術、軍事作戦、戦闘体験、軍事教育などの情報発信をされてはいかがでしょうか。
   
 平和憲法擁護の義務を負う議員が何を変な事をと思われるかもしれませんが、本当に平和を実現していくためには、戦争・軍事・諜報などの世界の実相の基本的な所は知っておいてこそ正しい判断・分析・対処ができるのではないか、と私は思います。

 一昔の新左翼のような日本での武装闘争実行のためなどではなく、憲法9条を活かした平和創造のために、それとある種対極にある世界の論理や事象も、できるだけよく知っておくべきではないでしょうか。
     
 また、日本社会の逼塞感が生む現象のひとつだと思いますが、いわゆる軍事オタク・軍事マニアが若い世代に増加し、それが右翼反動の側に回収されていくことへの歯止めとしても、和光さんのような左翼革命派軍人からの発信が必要な気がします。
      
 テレビ・雑誌・本に出てくる自称「軍事評論家」のみならず、従軍体験者の全てが帝国主義の傭兵や外人部隊であったり、米軍であったりします。
 唯一民族解放の立場に立ってカレン族傭兵を体験している高部正樹にしても、自分でも反共主義を標榜しているように、カレン族支援以外は全て帝国主義側に立ち、マスコミに出る時は右翼反動の発言一辺倒です。
 (反戦自衛官の人達が左翼として奮闘していますが、「実戦」体験に基づいた話ができ
  ない限界があります。)
     
 そういう極めて右翼に偏った状況に対して、反帝社会主義・民族解放の立場で軍事実践
をしてきた和光さんが「お前ら何寝言を言ってんだよ!」とカマしてやって欲しいと思う
のです。

 そういう立場から和光さんの本が出れば、眉をひそめる人達も多いでしょうが、「なるほど!」と思う人達、全く新たに問題に気づく人達はそれ以上に多く出てくるだろうと、私は思います。
     
 様々な事で多忙な和光さんに、突然に突飛な提起をして恐縮ですが、もしよかったら検討してみて下さい。
      
 この手紙のコピーを○○さんにも送り、「国境のない騎士団」の購読申し込みもしておきます。「騎士団」紙上で和光さんの文章を読める事を楽しみにしておきます。
 当方は同封資料中にもあるように、4/22に最高裁に上告趣意補充書を提出しました。「まな板の鯉」には変わりありませんが、どうなろうとも「夢は大きく世界革命!」の
信条で楽観的に生きていきます。
         それでは和光さん、お元気で!

            2008年5月10日 
                       門真市市議会議員 戸田ひさよし 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@i58-94-101-165.s04.a027.ap.plala.or.jp>

★和光氏大特集の「図書新聞」が和光氏依頼で送られてきたのでHPアップしたよ!
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 戸田 E-MAILWEB  - 09/2/23(月) 14:16 -
  
 東京拘置所内の和光氏から年賀状が届き、それへの返事にあたる手紙を1月下旬に出し
た直後に、「図書新聞」という出版社から「和光氏からの依頼で送付します」ということで「全共闘運動からレバノンの戦場へ」(和光氏インタビュー)が1面2面3面にドーン!と載っている「図書新聞」09年1/24号が送られてきたでの紹介する。

「12の窓」の「その他の話題」をクリックすると
      http://www.hige-toda.com/_mado12/mado12_index.htm
   ★「全共闘運動からレバノンの戦場へ」和光晴生(図書新聞) 
    http://www.hige-toda.com/_mado12/toshoshinbun/index.htm
としてアップされている。
 記事の中の「大きな画像もあります。」をクリックすると大きな文字でハッキリ読むことが出来る。

 和光氏の戦場体験や日本赤軍体験、日本赤軍への批判などがかなり赤裸々に語られており、その多くに「衝撃の初公開!」の内容が含まれている。画像としてのみだが、興味のある人にはぜひ読んでもらいたい。
引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@i60-35-86-250.s04.a027.ap.plala.or.jp>

●和光さんからの電報で10/27上告棄却・無期懲役確定を知る。前日発送の手紙も受領
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 戸田 E-MAILWEB  - 09/11/1(日) 6:50 -
  
 10/29(木)午後2時頃、電報が届いた。誰からかと思って見ると、なんと東拘(東京拘置所)の和光さんからだった。
 電文:10・27上告棄却決定お世話になりました 
                  和光晴生

 10/29の日付の電報だった。
 おそらく種々の友人知人に同文の電報を発信したのだろうと推測される。(和光さんの手紙によると、電報については1日の発信数に制限がないとのこと)
 また、この10/29夜帰宅時に気づいたのだが、和光さんが10/26に東拘で発送した手紙も着いていた。

 ネットで調べたら、最高裁の上告棄却決定が10/27付けで出された事が下記のように確認された。和光さんがこの決定文を受け取ったのがいつかは不明だが、決定翌日の10/28か2日後の10/29のどれかだろう。

 これで61才の和光さんに対して獄中死強制に等しい「無期懲役」が確定してしまった。
今から35年前の「ハーグのフランス大使館武装占拠・同志奪還闘争」と34年まえの「クアラルンプールのアメリカ大使館武装占拠・同志奪還闘争」の罪を問われて。
 それぞれ突入しようとした警察官を抑止するための「職人的な」限定射撃(射殺してしまうとそれを理由に敵軍部隊の強行突入制圧=作戦失敗必至なので、絶対に死者を出さず負傷に留めて突入を抑止する作戦計画の下での精密射撃)を「明確な殺意を持った射撃」
とデッチ上げられての「殺人未遂」追加によって。

 まさに不当な政治判決であることを戸田も糾弾する。
 この無期懲役を変更させるには、よほどの革命的政権を作って再審をさせるしかない。
 和光さん自身は、求刑や判決の事実認定の不当さを指弾して裁判闘争をしつつ、「事件被害者が納得する処罰に服する」というスタンス。
 
 10/26発信の手紙によると、新たな著作の原稿を執筆中で、その内容は重信さんが最近出版した「日本赤軍私史」
  http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=6238;id=01#6238
への強い批判を中心としたものだが、まだ出版社が見つかっていないとのこと。

 和光さんの出版第1弾は07年出版の「赤い春:私はパレスチナ・コマンドだった」。
  http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=2520;id=01#2520
 その後、今年09年に月刊誌「情況」に「日本赤軍とは何であったのか」と題する論考を4回連載している。

 和光さんの刑務所への転出がいつになるのか、もう転出させれられたのか、どこの刑務所に行かされるのか、さっぱり分からない。
 刑務所に行った和光さんから手紙が来れば分かるんだけれども、「未決」拘留(=推定無罪原則適用)の拘置所でさえ手紙発信が1日1便に制限されている、民主主義の程度が低いこの日本では、刑務所の囚人(有罪確定)になると手紙の発信が「1ヶ月に2通とか4通」(!)に制限されてしまうから(刑務所内で「等級」が上がると制限が緩くなるのだが、和光さんの場合は・・・)、戸田のところにまで手紙を出す余裕はゼロに等しくなってしまう。
 
 今はただ、和光さんが元気でいることと執筆の完成と出版社が決まる事を願うのみだ。
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YOMIURI ONLINE ...
  http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091028-OYT1T01096.htm
・赤軍ハーグ事件など、和光被告の無期懲役確定

 日本赤軍がオランダ・ハーグの仏大使館とマレーシア・クアラルンプールの米大使館を占拠した事件で、殺人未遂と逮捕監禁の罪に問われた元メンバー・和光晴生被告(61)の上告審で、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は被告の上告を棄却する決定をした。

 決定は27日付。無期懲役とした1、2審判決が確定する。
 ハーグ事件やクアラルンプール事件で有罪が確定するのは初めて。

 1審・東京地裁、2審・東京高裁判決によると、和光被告は、メンバーの奥平純三容疑者(60)(国際手配中)らと共謀し、日仏両国で拘置中のメンバーの釈放を求め、1974年にハーグ、75年にクアラルンプールで大使館を占拠。大使館員らを監禁し、警察官や警備員に発砲して計5人に重傷を負わせた。

 和光被告は両事件とも「殺人の共謀はしていない」と主張したが、1、2審判決は共謀を認定した。
 ハーグ事件では元最高幹部・重信房子被告(64)が、懲役20年の判決を受けて上告中。
(2009年10月28日20時18分 読売新聞)
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引用なし
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 5.1; GTB6)@i58-94-91-212.s04.a027.ap.plala.or.jp>

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