やっぱり進んできた国旗国歌への服従強要に抵抗と歯止めを!

 国旗国歌法を制定する時に政府は、「これは国民に強制するものではない」と説明しつつ、学校行事から積極的に導入してきたが、危惧された通り、強制の度合いが強められてきた。まずは「公務員たる教師は職務命令や指導に従え」(=内心の自由はないと同然)とされ、生徒や保護者の行動にまでチェックの目が向けられてきた。
 教員の大勢が国歌斉唱で立つようになると、今度は「歌っているかどうか」のチェッ クが始まってきた。次には「大きな声でハキハキ歌っているか」までチェックされてい くようになるだろう。

 「国歌であると法律で定められている」ことと、「それを自分が歌うかどうか」は別次元のことであるし、そもそも法律で強制もされていない、という「法治主義」のイロハも理解できない画一主義の蔓延は、自立した各人の行動によって、異論の存在を明らかにして打破していくほかない。
 戸田からすれば、「天皇の世が長く続きますように」という内容の歌など絶対歌う気がしない。そのうち法律改正して葬り去ってやるぞ、と思うのみである。

 国旗国歌については授業で教えておけば十分であって、何も式典で事あるごとに礼拝や起立斉唱を強制するべきものではない。「君が代」を喜び勇んで歌う人が少ないというのは、歴史背景からしてもその程度の人気しかない歌だということであり、それを強制することが国民としての一体感を生み出すものでもない。(圧迫感は生むが)

 極端な自治体では、起立斉唱しない人は来賓に呼ばないという差別排除まで始めたが、学校行事で起立斉唱しそうにない他校の教員は来賓に加えない、という所も増えているらしい。生徒が立たないのは教師のせい、という形式で教師と生徒の双方に圧力をかけ、さらに自立した大人たる保護者にまで厳しい目を向けていこうともしている。

 現に多くの自治体では、「生徒・教員・保護者・来賓」のそれぞれについて、「起立したか・歌ったか」を現場で調査して報告書を作成するようになってきた。そして立たない・歌わない学校があると、自民党や公明党が教委を責め立てるのである。

 学校で進められていることは、企業や役所・議会や種々の行事でもジワジワと進められていき、気が付いたら異論を表現できない息苦しい社会、さらには「息苦しいと感じることが異常扱いされる」社会になってしまうだろう。まさに「いつか来た道」である。

 そうさせないための「良心的不服従運動」を、戸田は勧めたい。