■これは4中の生徒と卒業式への侮辱ではないのか?

 (3/19文教常任委質疑に関わって)

 上野口小の卒業式に触れた上杉議員は、まだしも「全体としては良い式だったが」、とした上で教員の対応を批判したが、寺前議員の4中の卒業式への評価の中にはそういうものが全然ない。式の冒頭の「国歌斉唱」の部分で生徒(卒業生)が座ったことで「出席した我が会派議員が不愉快な思いをした」、といきなり批判するのである。

 言うまでもないが、卒業式の中身は卒業生・在校生・校長や担任ほかの教師達・保護者が、それぞれの思いを込めた祝辞・答辞、卒業証書や記念品の授与、などで作られるものであり、心を込めた飾り付けの作成も含めた式に至る様々な準備過程とも一体のものである。

 戸田は5中の卒業式に参席したが、生徒の保護者でもない「赤の他人」であってさえ、生徒・教師・保護者各様の思いに感じて随所で涙が溢れることを止めることができなかった。人間ならばそれがふつうであろう。

 ところが、そういう卒業式総体の重みを感じ取ることなく、語ることもなく、日の丸がどうだった、君が代がどうだった、生徒や教師は立ったか座ったか、という部分的なことばかりに関心を偏らせ、それで卒業式を評価しようとする偏狭な人々が存在する。実に心貧しい人達だと言わなければならない。(ちなみに戸田が出席した5中では、昨年は起立しない生徒が大半で、今年は生徒全員が起立していたようだが、そのことで卒業式の素晴らしさが左右されるとは全然思えない)

  「出席した緑風クラブ議員」なる人物は、冒頭儀式の一部に自分の意に染まない事(教委の「指導」に反すること)があったことで、「4中の卒業式で不愉快な思いをした」と評価しているとしか聞こえないが、彼は生徒・教師・保護者各様の思いをどのように受け止めたのだろうか?

▼少なくとも生徒(及び保護者)に「立つ立たない・歌う歌わないの自由」があることは、政府や教委も認めていることなのに、「立たない・歌わない」という行為が現れたら執拗に「指導」強化を迫るというのは、実質的には「強制」ではないか? 

▼「立たない・歌わない」生徒がいたから「不愉快だ」というのは、4中卒業式への侮辱ではないか?

▼生徒が着席して「国家斉唱」をしなかったことに対して、「事前に指導していないとこんなことはできない」、と言って教師への「指導」強化を迫るのは、中3にもなった生徒達の主体的判断力に対する侮辱ではないか?
まるで生徒達が教師の操り人形になっているかのような見方だし、教師を悪者扱いすることで生徒達の心を傷つける行為ではないか?

▼4中卒業式では少なからぬ保護者も座ったとの情報が伝わってきている。緑風クラブはなぜこの事実に触れないで、生徒と教師のことばかり取り上げたのか?
 これも教師の指導のせいだとでも言うのか?
 保護者の行動も「不愉快」なものだというのか、どうなのか?

▼座った保護者の中に緑風クラブ・公明党・志政会に投票した人が多数いるはずだが、そういう有権者の行動をどう思うのか?

●そもそも緑風クラブや公明党・志政会の議員ら自身、「君が代」を起立斉唱したくないという生徒や保護者と討論したことがあるのか?説得するだけの中身があるのか?