文教質問報告書

件   名
要      旨
「ふれあい」裁判資料を文教委員には配布しておくべきこと  教育委員会が被告になるという異例の裁判、各委員に正しい判断のできる情報を提供するのは教委の責務。
原告・被告双方から提出されている資料くらいは配付しておくべき。
「ふれあい活動」は一部の児童を対象としたものでしかない。

 99年(平成11年)現在、門真市の全児童数7477人に対して「ふれあい」6学校定員で360名(=4.8%)、現員でわずか218名(=2.9%)にすぎない。

 目標の10校設置で平均60人が参加したとしても600人でわずか8%の児童を対象にするにすぎない。教委自ら言うように、学童保育既存の7校の児童3164人(42%)は全く申し込み資格がないし、残り58%の中でも「毎平日参加できる児童」(=課外活動を何一つやっていない児童)でないとこれまた申し込み資格がない、という「厳格さ」でこれらをあわせて考えると、推定で全児童の80%程度の児童には申し込み資格すらない、というのが「ふれあい」の実態である。これのどこが「全児童対象」か?

教委は人を欺くがごときの言葉使いをするべきではない。

教委の強権的な運営姿勢がコストパフォーマンスを悪化させている。

 現在6校にある「ふれあい」のうち、皮肉なことにコスト的にうまくいっていると言えるのは86年(平成6年)開設の速見の定員充足率120%の72人だけ。
 あとは四宮44人、上野口24人、北巣本29人、古川橋30人、五月田19人、と教室改造費用2500万円、年間維持費430万円など3000万円ほどかけて開設しているのに惨憺たるありさま。教委が「ふれあい」の経験を積むほどにコストパフォーマンスが悪くなっていっている。
 教員免許を持った専任指導員ほかバイト2名をつけてこの状態である。納税者に対してどう説明するのか?「教育事業」だから、定員の半分以下が多くても構わない、などとは言えないはず。

 四宮開設以降、「独自の教育事業」だとか「毎日通える子だけ」などをやたら強調して、強権的雰囲気で運営を進めてきたツケが、児童の離反という形ではっきり現れている。
 (・・児童や親たちが暗い気持ちにさせられている具体例を挙げるが、教委は承知しているのか?)
 ふつう、良い教育をしているのであれば、年々評判を呼んで希望者が増えていくものであるが、速見以外は逆の方向をたどっている。よほど中身に問題があると考えるのが当然である。また、福祉ではなく少数の児童へ独自教育を施しているのなら、なぜ全くの無料にしているのか?

毎日こないと教育できない、という主張の異常さ

 義務教育である学校教育ですら、学校に来ない子、来れない子にも暖かく接しよう、という共通の認識が生まれているというのに、学校に来るついでに参加するにすぎないはずの「ふれあい」で、「毎日来ない子はやめてもらう」とか、「毎日来ない子は参加させない」とごり押しする異常さに気づくべきである。

 また、たかだか2時間程度の「課外教育」で3人もの指導員がついているのに、「毎日こないと教育できない」「早退されたら教育できない」などというのは、指導員集団の無能さを示すか、教委のそもそもの指導方針の過ちを示す以外の何ものでもない。
 それどころか実際は、「毎日来る子」だけを集めておきながら、それでも参加児童がガタ減りしているのだからますます問題である。

「毎日通う」に関連する質問。

 小学校の中で放課後運営されているサークルやクラブ活動にはどのようなものがあるか?実例を挙げられたい。

 放課後、学校外で児童が参加しているサークル、習い事、塾などにはどのようなものがあるか? 実例を挙げられたいスポーツ関係ではどのようなものがあるか?

 それらのものに親や児童が無理のない範囲で自発的に親しみ、趣味や能力、社会的視野を広めることを教委はどう評価するか?児童はそのようなものに関わるべきでないと思うか?

 留守家庭の児童がそのような所に関わることは不適切なことだと考えているのか?

 「ふれあい」が仮に本当に「全児童参加」になったとして、全児童が毎日学校に夕方まで残って、他の何ものにも参加しないとしたら、それは良いことだと思うか? 門真の児童達からの人材育成という面から考えたらどう思うか?

 また、もしそうなったら小学校での義務教育が文部省と門真教委との2本立てで朝から夕方まで児童を拘束することになってしまうが、それが良いことだと考えるのか?

とりわけ低学年児童の問題に関して

 低学年児童の授業拘束時間は何時までか?
 なぜ拘束時間を短くしていると思うのか?
 低学年児童を「授業」として夕方まで拘束できるのか?
  して良いのか? 
  「ふれあい」担当の教委の中で低学年児童の生理学・
  心理学・発達学に専門的知見と実践経験を持った人間
  はいるのか? 「専任指導員」においてはどうか?

 低学年児童について、午後の間食は生理的な必要物だと考えるか、それとも摂取しなくてもよいものだと考えているのか?またそう思う根拠は何か?

 「班」として1年生から6年生まで毎日一緒に「教育」する方が良いと考える根拠は何か?そのような他の教育実践例が挙げられるか?

 本来ならば「遊び」や自由時間であるはずの放課後の毎日が、大人によって割り振られた人為的・強制的な「異学年集団」での「教育」にはめられることが、子どもの発達にとって、そうでないやり方よりも良い、という根拠を示されたい。児童心理学的に見たらどうなのか。

 またこのやり方は、門真市教委が「独自に考え出した」ものなのか、それともなにかの実例を参考にしたものなのか。戸田への15日付け文書回答の中にある「「ふれあい活動事業」が望ましいとの結論に立ち至り」の部分において、どういう学説・実践例・考察に基づいたものだったのか具体的に述べられたい。それがなければ単なる思いつきだったと思わざるを得ない。

地域の教育力を育てたという主張について

 「ふれあい」の運営委員会なるものの活動実態を問う。構成員は誰とだれか?会合は年に何回くらい、どの時間帯で何時間くらい、どこで行っているのか?

 会合の他の行事はしているのか?
 どういうものを、どの程度の頻度で?
 親子が一緒に集う行事はあるか?
 親と指導員の懇談会はどうしているか?
 親通しの懇談会や、親以外の地域の人々と児童・保護者
 の会合や行事はどうなっているのか?

 速見の保護者会はいつできたのか?
 北巣本や四宮では親たちの名簿・連絡簿を渡してくれな
 いので、親通しの連絡すら不便させられている、と聞いて
 いるが本当か?他校ではどうしているか?

 なによりも親たちが「預けっぱなし」にならないように、責任を持って運営に関わるようにしむけるべきだと思うのが普通だが、教委や「実行委員会」はそういう指導をしているか?具体的事実に即して報告されたい。

 速見以外ではなぜ保護者会すらできていないのか?親子・指導員ともども様々な催しを行っている学童保育に比べて、はるかに「預けっぱなし」状態にあるのではないか?
「地域の教育力を育てた」と言えると思う実例を思いつくだけ挙げられたい。

 また、「地域の教育力を育てた」ということでは、同じ教委が担当している7つの学童保育においてはどうなのか、同じく実例を挙げられたい。

教委の人権意識について

 教委は北巣本において、ふれあい」がら空き状態であるのに、「毎日通うこと」という異常な方針の貫徹のために、共働き家庭の幼い姉妹が平日の内3日間は夕方まで「保護者に欠ける」状態で今までより過酷な孤立に晒されることを承知の上で、「教育事業の展開上やむを得ない」と断定して、法的義務があるにも関わらず切り捨てた。

 また障害者との共生が合い言葉にさえなっている現代において、今まで一貫して、素晴らしいと自賛する「ふれあい活動」に障害児を招き入れようとしてこなかったし、その展望すら語ることがない。

 教委が語る「ふれあい」での集団教育活動を聞けば聞くほど、そこには障害児が入る隙間のない同質的集団を想定しているとしか思えないし、仲良しの同級生が孤立して取り残されても気にかけない感覚の子どもを育ててしまうものでしかない。

 まさに今まで積み上げてきた人権教育を台無しにする新たな形の差別選別教育の発生と言わなければならない。
 人権教育という点からの教委の見解を問う。

中国人児童・生徒に関して  ボランティアの通訳を活用すると仮定した場合、現状ではどのような困難点があるか?
君が代の「君」が象徴天皇である、という政府の新しい見解について

 日本国憲法の3大原則として教えられているのは何か?
そこには象徴天皇制というのは含まれていない。
すなわち象徴天皇制というのは日本国憲法の根本原理ではないし、ましてやその上に立つものでもない。

 国民が天皇を仰ぎ見るのではなくて、国民自身が主権者であり主体であると規定されている。象徴たる天皇の地位は国民の総意によっているのであり、その原理からすれば国民の総意が国民投票などで問われてしかるべきだし、その結果によっては象徴天皇制の廃止すら想定しうることである。

 そういう性格の象徴天皇を「いつまでも続きますように」と歌い奉る君が代を「国歌」とすることは大いに疑問であるが、教委の見解を問う。
学校現場ではどのように指導していこうとするのか?

日の丸・君が代の押しつけ教育について

 このような画一化教育が、異論・異端を許そうとしない狭量な精神を作り出し、天皇制テロルの現実の恐怖(学校長が校長室で半殺しにされることまで起こるほどの)と相まって、自律的判断ができず、横並び意識に埋没してしまう子ども達を作っていると考えるが、教委の見解を問う。

 日の丸・君が代押しつけの教育方針自体が、そういう「非国民」作りや暴力行使の風潮に荷担しているとは考えないか?