◆「ペログリ日記」に見る田中氏の天才性と現在的な一部の限界性 戸田 - 06/8/30(水) 15:24 -
田中康夫氏が自分の個人的交際や社会的活動を公表した「東京ペログリ日記」という ものが、かつては「噂の真相」に連載され、同誌の廃刊以降は雑誌「SPA!」に連載されて いる。
雑誌「SPA!」の掲載分は、「田中康夫の東京ペログリ日記」 http://spa.fusosha.co.jp/spa0004/index.php で読むことが出来る。
今回の長野行きで新党日本の事務所で、この「東京ペログリ日記」の最初の1994年1月から 2005年9月末までを5巻にまとめた「大全集」があったので大喜びで買って、この間それを5巻 から3巻途中まで読んできた。
議員になった戸田にとって田中康夫氏の長野県改革闘争に興味はあったが、同日記をまとめ て読むことがこれまでなかったので(雑誌連載の字が小さくて読みにくいこともあった)、 知事選挙後に田中氏の軌跡に興味が湧いて読み出した次第だが、読めば読むほど、田中康夫の 八面六臂の天才性、猛烈な仕事ぶりと、前人未踏の激しい知事職をこなしながらそれを逐一文 書化して公表する頭脳・気力・体力の「凄さ」にはつくづく感服する。有り体に分かり易く言うならば、戸田がやっている活動の量と内容などは田中康夫の100分の 1、200分の1程度のものにしかなっていないと痛感させられる。
それほど田中康夫氏の活動は多岐に渡って常人とはかけ離れている。いろんな意味で「他の 人がついていけない」のもむべなるかな。
詳しくはぜひ同日記を精読してもらう他ないが、こういう能力のある知事、とりわけこうい う事を毎週公表出来る知事は、日本ではもう2度と現れないだろうなと思う。
仮にもう一度長野県民から頼まれたとしても、彼は2度と知事を引き受けようとはしない だろう。そういう意味ではつくづく長野県民はもったいないことをしてくれた。
「ペログリ日記」では、いろんな事象や人物に対する田中康夫氏の判断や好き嫌いがかな り(皮肉や暗喩も多用しつつも)率直に吐露されていて、その中には「へーっ?!」と感じ る意外な部分も含まれている。
後半の半分くらいを読んだ限りでは、田中氏の現在の価値観に決定的な影響を与えたのが 大震災の救援活動に連動した神戸空港への反対運動および住民投票運動の体験だと思う。
著名人・文化人・左翼・市民運動とその運動家・労働組合・政党・各種議員などへの評価 やスタンスがこの体験で決まってしまったように思える。 特に「左翼」としての政治勢力や労働組合・労働運動・市民運動に対する批判的姿勢やあ る種の冷淡さがその時の「出会い体験」に規定されたように思う。田中康夫氏にとって連帯ユニオンのような戦闘的左派(現在的には少数)労働運動の存在 はおそらく目に入っていない。(連帯ユニオンなどの側でも、例えば神戸空港住民投票運動の 時にも田中康夫氏と共闘する機会やそのゆとりはなかったようだからお互い様とも言える が・・・) 田中氏にとっては労働運動や労働組合とはほとんど公務員労組と「連合」の民間大企業労 組のことで、「既得権擁護のための非改革的組織」でしかなかったのだろう。
だから、トヨタが膨大な利益を労働者には配分せずに投資や研究費に回すことについて批判 的な記述はしていない。そういった点は、トヨタという企業のあり方を強く批判する佐高信氏 や斉藤貴男氏などの「左派」とは全然違っている。
生産関係に関わる階級性や労働者階級の闘争力結集の観点抜きに「自覚せる諸個人の自由 な連合」による社会変革を構想する立場からなのか、田中県政には小泉エセ改革を打破する 先進的労働行政の実施という面は極めて弱かったのではないかと思う。
例えば公共工事における工事品質や労働・雇用条件の向上を促すための規制、派遣労働や 請負労働に対する労働者保護のための規制、不正通報の誘導政策、各種の不当ダンピングに 対する規制、中小企業に対する大企業の横暴を防ぐ政策などである。
運転労働者の生活破壊が問題になっているタクシー行政についても、県行政として何か先 進的なことがなされたようには聞いていない。
ここらへんを、戸田としては田中氏の「現在的な一部の限界性」と述べておきたい。
もちろんこの評価は「左翼」の立場からの評価だから田中康夫氏にとってはきっと大きな お世話だろうが。
当然これは田中氏側だけの問題ではなく、民衆主体の社会変革を目指す「まっとうな労働 運動勢力」がそれなりの勢力として長野県に存在しているかどうか、存在するとしても積極 的に田中知事に政策提言や要求をできたかどうかの問題でもある。
何百万規模の労働者の激しい闘争で悪法を撤回させたフランスや、左派大統領政権を誕生 させた中南米諸国、反米民族統一民主化闘争を進める韓国などにも連なる政治改革をどのよ うに作っていくか、ということを改革派首長の側も住民・労働者の側も、念頭に置くように していくべきだろうと、戸田としては思っている。